「真正寺」と門前町
寛文元年の1661年、「真正寺」が浅草から当地に移転してきた時に
「真正寺門前町」も同時につくられたと云う。
東西二十間三尺、南北二十四間二尺・面積約1600㎡、ほどの土地であるが、この地域のただ1つの門前町と云う。
町奉行支配地で、1749年、に類焼の後、家作と畑地に分けられた。
明治2年、地名を下谷真正寺町と改めたが、明治12年、下谷通新町に合併されている。
真正寺の本堂
開山から四百年
「公春院」 開基400年前
開山は、「晏清満海大行者」1627年で、修験者の僧坊として建立されたという。
延宝年間に、「三世・円連社岳誉唯称上人梵冏和尚」によって浄土宗の一院に、下谷通新町ー公春院として現在に至る。
江戸中期の火災により縁起などは焼失・震災戦災は免れ、寛延2年、(1749)以降の過去帳をはじめとしていくつかの寺宝を現在にのこしており、
現在も浄土宗念仏道場として教化につとめている。
江戸時代、公春院は浄土宗の准別格寺院として栄え、境内に稲荷社や霊神社があり、合わせて六反歩ほどの田畑を有していたという。
1877年、二十二世・麻上普静上人により関東大震災での火災には免れたものの本堂、観音堂ともに傾き、昭和14年、現本堂落成、
「公春院の松」
境内に入ってすぐ左の角に大きな松があった。昭和9年に枯死。
大きさは、周囲はおよそ4m・高さ14mで樹齢は優に五百年を超すものであったという。
寺域について争いが立ったとき、このお寺の古いことの証拠になったため「証拠の松」といわれ、東武三十六名松の一つ。
徳川歴代将軍が三河島方面狩猟の際、鷹が鶴を捕らえて落下したのが大抵この辺で、この松を便りに捜索したといわれ「目当ての松」、また将軍秀忠公がこの地に狩した時、一羽の鷹が梢にとまったので「鷹止めの松」ともいわれていた。
如意輪観音及び西国三十三観音。
本堂
「千住間道と製絨所」
千住製絨所は、ラシャ場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。
軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果していました。
初代所長は、ドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三氏。(荒川総合スポーツセンター西側に井上省三の胸像が保存)
当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設され、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は32,406坪に。
「千住間道」を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所
などが旧敷地に該当する。
日光街道・奥州街道・初宿千住
「吉田勘兵衛」1611 -1686・
江戸時代前期の材木商である。吉田新田を開墾した。
南千住付近を 干拓し、勘兵衛は木材・石材の販売だけでなく農業経営にも人並みすぐれた才を見せ、 南千住に開いた新田から ... また、江戸の木材・石材商の店はその後、起立人として 札差業を営むなど隆盛を誇ったが、やがて番頭に店を譲渡し、子孫も横濱の地へ移住 したある。
真養寺に眠る。
「真養寺」ー日蓮宗・山号 運千山。
萬冶2年の1659年、自性院日身が開基となり運千山自性寺として創建。
元禄2年の1689年、下谷上野町廣布山真養寺と、当地で合併、運千山真養寺と改号している。
寛文元年の1661年、「真正寺」が浅草から当地に移転してきた時に
「真正寺門前町」も同時につくられたと云う。
東西二十間三尺、南北二十四間二尺・面積約1600㎡、ほどの土地であるが、この地域のただ1つの門前町と云う。
町奉行支配地で、1749年、に類焼の後、家作と畑地に分けられた。
明治2年、地名を下谷真正寺町と改めたが、明治12年、下谷通新町に合併されている。
真正寺の本堂
開山から四百年
「公春院」 開基400年前
開山は、「晏清満海大行者」1627年で、修験者の僧坊として建立されたという。
延宝年間に、「三世・円連社岳誉唯称上人梵冏和尚」によって浄土宗の一院に、下谷通新町ー公春院として現在に至る。
江戸中期の火災により縁起などは焼失・震災戦災は免れ、寛延2年、(1749)以降の過去帳をはじめとしていくつかの寺宝を現在にのこしており、
現在も浄土宗念仏道場として教化につとめている。
江戸時代、公春院は浄土宗の准別格寺院として栄え、境内に稲荷社や霊神社があり、合わせて六反歩ほどの田畑を有していたという。
1877年、二十二世・麻上普静上人により関東大震災での火災には免れたものの本堂、観音堂ともに傾き、昭和14年、現本堂落成、
「公春院の松」
境内に入ってすぐ左の角に大きな松があった。昭和9年に枯死。
大きさは、周囲はおよそ4m・高さ14mで樹齢は優に五百年を超すものであったという。
寺域について争いが立ったとき、このお寺の古いことの証拠になったため「証拠の松」といわれ、東武三十六名松の一つ。
徳川歴代将軍が三河島方面狩猟の際、鷹が鶴を捕らえて落下したのが大抵この辺で、この松を便りに捜索したといわれ「目当ての松」、また将軍秀忠公がこの地に狩した時、一羽の鷹が梢にとまったので「鷹止めの松」ともいわれていた。
如意輪観音及び西国三十三観音。
本堂
「千住間道と製絨所」
千住製絨所は、ラシャ場とも呼ばれ、殖産興業、富国強兵政策の一貫として軍服用絨(毛織物)の本格的な国産化のために設けられた施設です。
軍服用絨を製造するだけでなく、民間工場に技術を伝授する役割も果していました。
初代所長は、ドイツで毛織物の技術を学んだ井上省三氏。(荒川総合スポーツセンター西側に井上省三の胸像が保存)
当初の工場は、荒川(現隅田川)沿いに建設され、次第に周辺の田園地帯を取り込んで拡張を重ね、大正時代には、敷地面積は32,406坪に。
「千住間道」を南限とし、現在の荒川総合スポーツセンター、南千住野球場、南千住警察署、都営住宅、都立荒川工業高校、東京都水道局東部第二支所
などが旧敷地に該当する。
日光街道・奥州街道・初宿千住
「吉田勘兵衛」1611 -1686・
江戸時代前期の材木商である。吉田新田を開墾した。
南千住付近を 干拓し、勘兵衛は木材・石材の販売だけでなく農業経営にも人並みすぐれた才を見せ、 南千住に開いた新田から ... また、江戸の木材・石材商の店はその後、起立人として 札差業を営むなど隆盛を誇ったが、やがて番頭に店を譲渡し、子孫も横濱の地へ移住 したある。
真養寺に眠る。
「真養寺」ー日蓮宗・山号 運千山。
萬冶2年の1659年、自性院日身が開基となり運千山自性寺として創建。
元禄2年の1689年、下谷上野町廣布山真養寺と、当地で合併、運千山真養寺と改号している。