足立区北千住と云えば「お化け煙突」
上原健・田中絹代・高峰秀子が主演・監督五所平之助ー昭和28年「煙突の見える場所」千住の庶民の哀歓を描いた映画であった。
4本の煙突が見る角度で3本・2本・1本に化けることからその異名が付いた。煙突は、足立区千住桜木町ー東京電力火力発電所の施設で大正15年に築造
高さ83mの巨大塔で、千住の庶民はそれを自慢し「俺んちは煙突の下よ、、」私も、常磐線に乗りわざわざ見に行った記憶がある。
設計は、仮屋の一部屋で青年たちが煙突の設計図を作ったと云う。その青年の一人が、昭和20年東電社長の「高井氏」。
昭和39年・東京五輪で沸いていた秋に40年の老煙突は消えた。
千住と云えば「東京スタジアム」が。(子供の頃、プロ野球は、パの大映が好きで、何回か球場へ)
1879年、操業を開始した千住製絨所があった。(大和毛織が所有する生地工場)1950年代に入ると業績が悪化し、工業用水として使用していた井戸の枯渇や様々な規制、労使間争議の慢性化などによって経営難に陥り、1960年に閉鎖された。
工場跡地を「明治村」建設用地に計画、が明治村は、愛知県犬山市に建設)。大毎のオーナーだった「永田雅一大映社長」は、私財を投じて自前の本拠地球場の建設を計画。都内各所を自ら視察した結果、一度は深川の東京ガス運動場を建設地とする案が有力であったものの、直後に破談となり、改めて南千住の大和毛織工場跡地を建設地に決定した。かねてから「下町に自前の球場を造りたい」と漏らしていた永田は工場閉鎖前からこの地を視察で訪れており、水面下で用地取得を画策していたと言われている。
1971年、大映は球団の経営権をロッテに譲渡し、本社の経営再建に乗り出すものの倒産した。
現在は、区の運動公園
千住と云えば、松尾芭蕉が、「奥の細道」で江東区深川から、
千じゅと云所にて船をあがれば、前途三千里のおもひ胸にふさがりて、幻のちまたに離別の泪をそそぐ、
行春や 鳥啼魚の 目は泪
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1559年小田原北条氏の記録で、専住村と登場している。
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発展は、江戸時代ー日光道中(街道)初の宿場
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水戸佐倉道の分岐点・将軍参詣・参勤交代の中継地
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伊奈忠次が祈願したとされる熊野権現は南千住6丁目。
この故事が元となって橋が架け替えられるたびに社殿を橋の余材を使って修理、祈願をしたといわれる。(祭礼ー橋の南北で橋長と同じ長さの66間の綱をつかって綱引きをして吉凶を占う行事が)
現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」を経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。
幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋・小塚原橋」と呼ばれていたと云う。
千住大橋は何度も改架、改修が行われ、正保4年(1647年)、寛文6年(1666年)、天和4年(1684年)、享保3年(1718年)、宝暦4年(1754年)、明和4年(1767年)の計6回。明和の架け替えの際に、ほぼ現在の位置に架け替えられ、最初の架橋から明治18年(1885年)、の台風による洪水まで、流出が一度も無く江戸300年を生き抜いた名橋と言われる。
明治18年の流出の際、下流の橋を守るために多くの水防夫が活躍し、二重の太鼓橋様式の木橋として再架橋され、関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のもの。
昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。
千住大橋を渡り小塚原村3km余の街並みが続くとある。
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大名の宿泊ー普通旅客に比べ良くて半額の宿と云う
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文禄3年の1594年最初の橋が架かるー長さ約120m、幅約7mの木橋。
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両国橋は、千住大橋の60年後。
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江戸と日光・奥州・水戸を結ぶ要所であった。
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将軍専用の船着き場もあったという。
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千葉氏一族(下総国香取郡)も住んでいたと云う
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アーチ式鉄骨の大橋は、昭和2年ー長さ約93m、幅約24m・工費140万円と云う。
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洪水や地震など何度も架け替えている。
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「松尾芭蕉」 1644-94 俳諧師
伊賀国上野から23歳で故郷を捨て、37歳で江戸深川「芭蕉庵」で暮らす。
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「奥の細道」の旅は、元禄2年
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文学史功績大
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「千住新橋」は、-1912年~26年にかけ「荒川放水路」を開削した際に1924年架けられた新橋。
国道4号線日光街道に、現在、長さ約146m、幅28m・北 足立区1丁目ー南 荒川区千住5丁目 1924年に架けられた。
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