syuの日記・気まま旅

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寛永寺坂から浅草へ syu散歩

2017-03-10 | syu散歩
国立博物館は、我が国随一の博物館、ここは、寛永寺本坊があった。
現在の寛永寺寺院の両大師・輪王寺が建っていたがー1989年に全焼し、今は、本坊表門ー輪王寺門跡のみが残った。
第一霊園に徳川家の墓地(博物館とJR線の間)・第二・第三霊園(桜木町)も徳川家墓地に。
創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。
徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だった。
しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。
その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。
当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた。
また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている。









正面「谷中墓地」桜並木の奥に「慶喜の墓」がある。

「徳川 慶喜」-江戸幕府第15代征夷大将軍ー在職は、慶応2年の1866年~ 慶応3年の1867年、12月9日。
江戸幕府最後の将軍。御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。
徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。
大政奉還や新政府軍への江戸開城を行い、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。



「すりの親分・仕立屋銀次」
仕立屋銀次は、もと日本橋旅篭町の仕立屋へ奉公に、「大丸呉服店」の下請けで大変繁昌の店であったと云う。
銀次は、腕が良いので、やがて無事に年期を勤め上げ、21才で御徒町に自分の店を持ちました。
ところが、銀次は、この時分から遊びを覚え、賭場に通うようになり、偶々仲間の一人にスリが居て、手口を教えられると遊ぶ金欲しさについ自分もやってみたくなり、もともと、指先仕事の仕立屋でありましたから、たちまちその方の腕を上げて仲間の評判に、
「根岸の親分」で通っていたスリの大親分は「清水熊太郎」という姫路藩士の嫡男が、この男の妾腹の娘「清水くに」と銀次は良い仲となって世帯を持ちました。
時に銀次28才、くに20才・初め入谷に住んでおりましたが、根岸の親分の死後はその跡目を継いで全国のスリの仲間に「仕立屋銀次」の名で知れ渡った。 当時、銀次は入谷の寄せ場に常時100人の子分を置き、自分はくにと共に日暮里村字金杉に引込んで親分稼業をつとめ、銀次は、家作の収入が月百数十円あり、資産5万円とスリ日本一との風評がありました。
時に明治42年、新潟県の柏田という知事が東京市電の中で「伊藤博文」に贈られた金時計をスラれるという事件が起きました。
そこで懇意の赤坂警察の本堂署長に「是非取り戻してもらいたい。」と申し出ました。
明治末のこの当時は、東京市内でのスリは1,500人といわれておりましたが、本堂署長は市内の二大親分「仕立屋銀次」と「湯島の吉」に出頭を求め、被害品の提出を命じました。
銀次は、たかが一署長の呼び出しに応じられるものかと出頭いたしません。
本堂署長は外勤巡査2個小隊を上野西郷銅像前に招集し、印半天で変装させ、二手に分かれて金杉の銀次宅を包囲し、本堂署長が先頭に立って踏み込みました。
この事件で銀次は四谷の監獄に収監され、懲役10年の刑を受けました。
銀次の捕縛されたこの年明治42年、伊藤博文はハルピン駅頭でピストルを持った朝鮮人に暗殺。



                      寛永寺坂陸橋から


「寛永寺坂」ー大正5年~10年の間
1883年の明治16年、 日本鉄道の上野-熊谷間が開通した時、田端村から上野までの間で、台地の上から東側に下りる主な坂道は11本。
上野駅の真横にあった車坂以外は、すべて、 踏切となっていた。
北からー不動坂、 間之坂、 地蔵坂(諏訪坂)、 名称不明の坂、 御殿坂(→上御隠殿坂、紅葉坂)、 芋坂、 御隠殿坂、新坂(明治12~19年頃から)、 信濃坂、 屏風坂(→両大師橋)、 車坂で、 寛永寺橋は 御隠殿坂と新坂の間であるが、はじめはまったく道が無く、後から作られた坂道。
それは次の「新坂」も同じで、江戸時代の付近一帯は寛永寺領であり、台地の上から下に下りて行く必要性が無かったためである。
別邸の御隠殿ができてから 「御隠殿坂」が作られた。

             坂の傾斜が急で人力車は、上り下り下車したと云う。


「御殿坂」
「輪王寺宮一品法親王」は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山官領宮」とも呼ばれ、第三世から幕末の第15世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承され、上根岸に輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった。
御隠殿の創建年代は明らかでないが、幕府編纂の絵図「御符内沿革図書」には、宝暦三年(1753)、「百姓地四反一畝」を買上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたと云う。
敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。
輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用
谷中七丁目と上野桜木二丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。
慶応四年の1868年、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていない。

                          入谷へ


                       日蓮宗 眞減寺


                      言問通り・昭和通り交差付近


                   江戸時代の朝顔市の入谷美人


                   下谷七福神ー眞減寺(福禄寿)


                    地下鉄日比谷線「入谷」駅が


                 昭和通り(向は、上野方面)渋滞中


                       清州橋通り


「入谷公園と吉展ちゃん誘拐殺人事件」
日本で初めて報道協定が結ばれた事件。
被害者やその家族に対しての被害拡大防止およびプライバシー保護の観点から、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれ、報道協定解除後の公開捜査において、テレビを本格的に取り入れ、テレビやラジオで犯人からの電話の音声を公開し情報提供を求めるなど、メディアを用いて国民的関心を集めた初めての事件でもあったと云う。
犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3ヶ月を要したこと、犯人の声をメディアに公開したことによって国民的関心事になったため、当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。

                      左手に入谷公園


吉展ちゃん事件は、 1963年3月31日、台東区入谷町の村越吉展ちゃん(4 つ)が自宅前の公園に遊びに行ったまま ...
入谷町の村越吉展ちゃん(4つ)は、それまで 近所のSちゃんと家の2階で遊んでいたが、「公園に行く」と行って家の前にある入谷南 公園へ。



                  入谷公園(戦前からある)


                 台所用品の問屋が並ぶ、合羽橋商店街


                     外人が多い合羽橋


               浅草ビューホテル(ここに、浅草国際劇場があった)


                           国際通り