syuの日記・気まま旅

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日光街道 草加宿 syu散歩

2017-03-14 | syu散歩
埼玉県南東端の草加市は、現在住宅都市。
俳人松尾芭蕉の「奥の細道」紀行の第1宿の「草加宿」・日光街道では千住宿~第二の草加宿になる。
昭和30年に、草加町・谷塚町・新田村(子供の頃、母と買出しに来ている)が合併し「草加町」が成立、宿場と市場として栄えた。
中川流域の沖積低地の穀倉地帯であったと云う。古くから長板中型浴衣染め・江戸時代から伝統産業の草加せんべいは知られている。
1960年頃から「草加八潮工業団地」の造成で本格化した。住宅でも「草加松原団地」の造成で1963年には、地下鉄日比谷線・私鉄東武鉄道と乗り入れ
大住宅地の開発が急ピッチで進められた。



「千住宿ー草加宿・日光街道2番目の宿場」
1606年、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ
新往還道を築き上げた。
この新道の工事の完成に当時の将軍「徳川秀忠」は喜び、
           「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」
「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。
地名学会では、この地が綾瀬川右岸の砂地に発達した土地であり、砂地を意味する「ソガ」が草加となったという説をあげている。「要出典」

開宿当初、家数は84軒、宿延長は685間、伝馬人足25人、駅馬25頭と小規模。徐々に人口が増え、1713年、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられると五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心としても繁栄したと云う。、
日光参詣などで、交通量の増加から、千住宿から越谷宿の中間に宿駅設置の願いが出され、草加は、新道沿いには集落がいくつか成立していたが、宿場を編成する大きな村はなかった。
人馬継立てが間に合わなくなると、幕府は、複数の村が宿場を編成することを許可したことから、千住から越ヶ谷間の「間の宿」として、9か村組合宿による草加宿が誕生。
寛永7年の1630年、幕府の伝馬制度の公認により日光街道で二の宿駅。



草加宿の盛衰は、宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、
髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家。
徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。 1713年、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。
この頃、大半が店子と地借層で、他に屋守、分地、脇屋敷と都合5000人前後で構成され、享保年間の1716年-1736年、に発展し、
1728年には、伝馬人足50人、駅馬50頭となったという。



元禄2年の1689年3月、江戸深川を船出して千住に。
そこで見送りに来た人達に別れを告げ、荒川を渡り日光街道・第二の宿駅「草加宿」にたどり着きます。

「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」


中川は埼玉県羽生市を上流端とし、大落古利根川、新方川、元荒川、大場川など多くの河川をあつめて南下し、東京都葛飾区高砂で新中川を分派します。さらに、中川七曲りと呼ばれる蛇行区間を経て綾瀬川と合流し、上平井で荒川と平行して流れ、江戸川区で東京湾に注ぐ流路延長約81km、流域面積約811km2の一級河川です。
 綾瀬川は埼玉県桶川市を上流端とする流路延長約47km、流域面積約176km2の一級河川です。草加市で古綾瀬川、都県境の花畑地先で伝右川と毛長川を合わせ、葛飾区上平井で中川に合流しています。
 中川・綾瀬川の流域は、流域一帯の勾配が非常にゆるやかな低平地河川という特徴をもっているため、しばしば洪水に見舞われてきました。さらにその後、急速に首都圏のベッドタウンとしての開発が進んだことにより、その重要性が高まっています



「中川」- 利根川水系
「綾瀬川」
幹川流路延長 中川 81km・綾瀬川 48km・流域面積 987km2・流域内人口 330万人・流域関係都県 埼玉県、東京都
                       札場河岸公園ー望楼


"利根川の東遷事業により洪水の危険が軽減された後の中川・綾瀬川流域の低地帯は地形を生かした灌漑排水網が整備され新田開発が行われました。中川沿いの集落の多くは、中川沿いに集中しており、自然堤防を利用することで少しでも洪水の危険性から逃れつつ、舟運を利用し、集落を形成していました。この地域は河川との深い関わりの中で人々の暮らしが営まれてきたことから、現在も「水」や「川」に因む地名が多く見られます。"
 中川は、埼玉県羽生市を上流とし、大落古利根川、元荒川、大場川などの多くの支川を集めて南下し、東京都葛飾区の蛇行区間をへて、綾瀬川と合流、上平井で荒川と平行して流れ、江戸川区で東京湾に注ぐ、流路延長84km、流域面積約1,00km2の一級河川です。
中川の支川が、古利根川、元荒川というところからもわかるように、中川は、江戸時代初期まで利根川や荒川の本流でした。その後、江戸時代初期に行われた、利根川の東遷などの事業によって本流は移動、流量が減った旧流路はおもに用・排水路として使われるようになりました。特に支川の大落古利根川は、葛西用水の一部です。葛西用水は、現在の埼玉県羽生市本川俣から利根川の水を取水し、途中古利根川、逆川をへて、末端は東京都足立区までつづく全長約40km(主流路長)の用排水路です。1600年初頭、利根川東遷以降主に関東代官伊那氏一族によって開かれたと伝えられ、現在でもなお中川左岸一帯を灌漑しています。
 この葛西用水および1700年代中期に開かれた見沼代用水等の用排水水路の開発によって、新田の開発が可能となり、流域は河川が蛇行を繰り返す低湿地から、「江戸の米倉」に変化し、100万人都市・江戸の生活を支えました


                    綾瀬川 河岸場

                煉瓦積み二連アーチの甚左衛門堰と碑



                    札場河岸常夜灯

                    現在の防水堰

                  正岡子規句碑などが