「東洋最大規模と云われた草加松原マンモス団地」
団地は、A地区〜D地区に区分・西側は国道4号に面し、東側は、東武伊勢崎線松原団地駅に隣接している。
第1期の入居募集は、1962年12月15日~1963年2月末にかけて実施ー780戸の募集に対して、10,725件の応募が集まった。
全住居5,926戸の内訳は、1DKが1,376戸、2DKが2,208戸、3K及び3DKが1,680戸、テラスハウスが659戸。
入居開始時の家賃は8,000円~16,000円に設定され、家族収入が家賃の5.5倍以上であることが入居条件とされていた。
(参考までに厚生労働省による1962年時の大卒初任給は17,800円である)。
会社役員や官僚なども居住したため、朝の通勤時間帯には迎えのハイヤーが列を作る光景も見られ、各地区には商店街も存在するが、居住者の高齢化や生活スタイルの変化により、近年は閉店する店も多いと云う。
団地内敷地は水田地帯を開発した低地帯で1970年代以降、台風や大雨によって伝右川の水位が増すと、しばしば冠水被害をうけていたが、
昭和59年、神明排水機場、昭和60年、伝右川排水機場の稼働以降、冠水被害は激減したと云う。
東京外環自動車道の建設に併せて、1996年の平成8年、綾瀬川放水路が整備されて以後、大きな冠水は起きていない。
草加松原団地は、都市再生機構による建て替え事業の対象となっている。
UR、草加市、獨協大学、民間事業者との連携のもとで良好な都市型住宅地として調和のとれた市街地形成を図り、快適でゆとりある都市空間を創出。
UR賃貸住宅については「コンフォール松原」と名を改めている。
松原は、草加市の中北部 百代橋
「草加松原」
奥の細道にも登場する「草加宿」は、北側に位置する。
幹回り2mの老樹と江戸時代の雰囲気を伝える。
草加松原ー約1.5km,千本松原とも呼ぶ
綾瀬川と松並木(旧日光街道)下に~・下に~
松尾芭蕉文学碑
谷古宇橋
国指定名勝
日本の道百選に
利根川百景の碑も
「おせん公園」-草加せんべいは、おせんさんと云う女性がある侍助言から、売れ残った団子を潰し焼いたところ、それが評判になり名物に
草加せんべいの製造・販売店は、約60軒に
「綾瀬川」
戦国時代の頃は利根川と荒川の本流であった。当時の利根川・荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った[3]。今の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれて綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある。
綾瀬川の川筋は、武蔵国内の足立郡と埼玉郡の境界とされていた。
江戸時代初めまで、綾瀬川中下流は低湿地で通行が困難であった。また大雨が降るたびに川筋が変わり、一定しないことから「あやし川」と呼ばれ、後に「綾瀬川」と変わっていったと伝えられる。まず伊奈忠次らによって堤が整備され、伊奈忠治らによって流量を調整するために武蔵国足立郡内匠新田(現・足立区南花畑の内匠橋付近)-葛飾郡小菅間に平行して新綾瀬川が開削された(現在の綾瀬川はこの新しい流路を指す)。
当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっていた。寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まり、おそらくこれにあわせて天和3年(1683年)に綾瀬川の直線化の工事が行なわれた。これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになった。
ハーブ橋