syuの日記・気まま旅

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懐かしの浅草 syu散歩

2017-03-12 | syu散歩
「明暦の大火(丸山火事、振袖火事)」-明暦三年(1657)1月18日の午後2時頃に本郷丸山付近から出火ー
2ヶ月以上雨が降っておらず加えて北西の強風にあおられて駿河台、日本橋、霊岸島から佃島・石川島まで延焼。
京橋から浅草橋へ延焼し隅田川を越えて深川、牛島へも飛び火し翌日の朝にいったん鎮火。
しかし午前10時頃に伝通院近くから再び出火、飯田橋から竹橋に広がり、正午過ぎに江戸城本丸に燃え移って天守閣が焼け落ち、4代将軍家綱は西の丸に避難。 夕刻に風が西風に変わり京橋、新橋方面へ延焼。
同じく夕刻に鵬町(現:麹町付近)からも出火、江戸城南側に延焼し芝増上寺の半分を焼いて海岸に至り、20日の朝にようやく鎮火した。
江戸市街の6割を焼失する大火で、むさしあぶみなどによれば死者は10万人を越えるとされ、翌々日には吹雪によって被災者に凍死者もでたとされ、
1659年には江戸城本丸が再建されていますが、天守閣は意味がないとして再建されず、越谷にあった鷹狩りや視察用の御殿を解体して再建に流用していると云う。

江戸時代の避難地は、広いお寺(浅草寺など)と大川(隅田川)へ集中し、燃えやすい家財用品が山となって燃え被害を大きくしていると云う。

                     浅草三社祭の神輿


                      浅草6区付近


                     浅草寺参道


               子供の頃良く遊んだ花やしき通り(瓢箪池があった)


                 浅草公会堂等がある・伝法院商店街通り


                   浅草寺参道・仲見世通り


「吾妻橋」
創架は、1774年の安永3年。
「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。
江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年、に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成。長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。1786年、洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後幾度かの架け替えが。橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれた。
江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説がある。
1876年の明治9年、木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名。

最後の木橋は、明治18年、大洪水で初めて流出した「千住大橋」の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突・一緒に流失してしまう。
明治20年、隅田川最初の鉄橋として再架橋された。鋼製プラットトラス橋で、人道橋、鉄道(東京市電)橋、車道橋の3本が平行して架けられていた。
大正12年、大正関東地震(関東大震災)によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後、
昭和6年、現在の橋に架け替えられた。



                          水上バス発着所が


昭和20年3月10日
「東京大空襲」は、太平洋戦争空襲史上最大の空襲となった。空襲の状況について「東京都戦災誌」は、次のように記述している。

3月9日 22時30分警戒警報発令、10日 0時15分空襲警報発令、それから約2時間半に亘って空襲が行われた。来襲機はB29、150機と数えられ、単機あるいは数機づつに分散して低空から波状絨毯爆撃を行ったため、多数の火災が発生して、烈風により合流火災となり東京の約4割を焼き甚大な被害を生じ
「都政十年史」では、「隅田川をはさんだ下町一帯は全く火の海と化し、最後まで防火にあたろうとした人々は煙にまかれて逃げ道を失い、白鬚橋から吾妻橋にかけて道路といわず川のふちといわず、焼死者の屍がるいるいと横たわるという惨状を現出した」のである。
この大空襲では、軍事目標だけではなく、非戦闘員を対象とした無差別焼夷弾爆撃が行われたこと、さらに当日は東京下町には強い北風が吹き、被害を大きくしたともいわれる。
この空襲による焼失面積は、本所区の96%、向島区の57%が焼失した。本所区と向島区を合わせた現・墨田区の約70%以上が焼失したことになる。

水を求めて川に飛び込み多数の死者が(供養塔がある。)


 春のうららの隅田川・・・・
                      吾妻橋~言問橋~「桜並木の隅田公園」


                       綺麗に舗装された公園

                    

                    
                   東武伊勢崎線始発駅と松屋デパート


                            浅草花川戸付近


「浅草寺」
浅草の漁師、檜前浜成、同竹成の兄弟、江戸浦(隅田川)に漁撈中、網に一躰の仏像を感得し、これを「聖観世音菩薩」と見分した郷司土師中知は、自ら出家して私宅を寺となし、観音像を奉安供養す。浅草寺の開創である。また、 別伝として十人の草刈り童子がアカザで草堂を造るとある。
645年 大化1年、 勝海上人浅草寺に留錫して本堂を修造。
本尊の夢告により、以来永代秘仏と定めて厨子に納む。857年、円仁(慈覚大師)浅草寺に留錫し、聖観音像を刻し、世に御前立の本尊と称し、御影板木も刻す。 942年、 安房守平公雅堂塔伽藍を再建して、田園数百町を寄進す。1041年、浅草寺本堂大震災により倒壊。
1051年、 寂円上人の尽力により本堂再建成る。1070年、 八幡太郎義家奥州征討の途次、浅草寺に詣で戦勝を祈り榧(かや)の樹を植える。
1079年、浅草寺炎上。 その後、万人を勧進して再建する。

1155年頃・「源義朝」浅草寺に参詣あり、承暦の火災時本尊のご避難されし古榎材をもって聖観音像(現存)を彫らしめて奉安するとある。
1180年、 源頼朝平家追討の戦勝を浅草寺に祈願。
1285年、武州金沢称名寺第2世剣阿上人浅草寺に詣で、七律の詩文を頌す(金沢文庫に現存)・・・・。