syuの日記・気まま旅

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日本橋室町と八重洲

2017-05-23 | syu散歩
「日本橋室町」ー中央区
東京を代表するメインストリート日本橋北詰の町。
老舗の商店が数多く軒を連ね、ビジネス街の色も持ち合わせている。
江戸城内から、常盤橋、日本橋室町、日本橋本町を通り、浅草橋に至る「本町筋」は江戸時代から明治初年まで、江戸・東京の目抜き通りであった。
地理では、日本橋地域の西側に位置し、千代田区(鍛冶町)との区境にあたる。河川で、日本橋川・ 西河岸橋・日本橋・江戸橋が。

               日本銀行と江戸桜通り


正式地名は、「日本橋室町」で、徳川家康の頃は、村があり移転さし、新たに町屋を開いた地域。
漆器商の「尼ケ崎屋」があったので、尼崎町とも呼ばれていた。日本橋北詰付近に魚河岸があったが、関東大震災で築地へ移転している。

「アダムス・三浦按針」の屋敷があった。 1564-1620 イギリス航海士。水先案内人で日本名を三浦按針。豊後国で漂流し、家康に謁見し
250石を貰っている。ここで、日本人女性と結婚している。日本に来た最初のイギリス人。
外交上の意見を開陳し、幾何学・数理学を講したと伝わる。盛んに貿易活動しとも云う。按針塚は、横須賀市にある。

           桜並木の左に日本銀行が


           4月中旬の江戸桜通り




          現在日本銀行は改装工事中


           日本橋室町3丁目付近


           日本銀行は、室町2丁目


         老舗の三越デパート入口のライオン像


                日本橋の交差点(高速7号線が)


                   日本橋


                   里程標
















「日限地蔵尊」


「日本橋西河岸地蔵寺教会」
行基菩薩が遠州四方城(静岡県引佐郡)に草庵を構えた際に自ら彫刻した御丈2尺8寸の御尊像を祀ったものだという。
1718年、地蔵堂として建立、正徳院と称していた。
地蔵菩薩は、天海僧正の御持仏で、至心に祈願すれば日ならずして御利益を授かるところから、「日限地蔵尊」と呼ばれ、ことに延命祈願に霊験あらたかな事は古来より広く世に知られ多という。
勝縁の地としてここ西河岸に遷座し、今日まで二百数十年を数え、建立の当時は「正徳院」と呼ばれ、天皇直々に拝謁し奏上のできる格式高い寺。
その後、明治維新の廃仏毀釈と大正12年、関東大震災や戦災などによる多くの変遷を経て、今日に。
 


「一石橋」 日本橋川に架かる
江戸時代、川を隔てて北が金座をつか伝さどる「後藤邸」・南が幕府御用を受ける呉服所の「後藤縫殿助邸」であった。
共に後藤・ゴトー・五斗で合わせ「一石」で橋の名に。
もう一説は、橋のたもとに米俵をつんで、銭一貫文を米一石を引き換える店があったからとも云う。真意は?

                  一石橋


一石橋南西詰に「迷子の知らせ石」が。文京区の湯島天神の境内にも残っている。人混みで迷子が多いため。

                ビルの谷間に


必ず寄った中華料理店の姿は消えていた。

             八重洲駅前の桜通り(飲食店が多い)


             八重洲通り(向かいは、八丁堀方面)


「八重洲の名の起こり」
今から約350年前、大分県佐志に漂流したオランダ船「リーフデー号」の船長「ヤン・ヨーステン」の名前からきたともいわれている。
家康が知遇で召し抱え、貿易に力を注いだという。ヨーステンの住所が今の八重洲であった。
家康は、アダムス・ヨーステンから帆前船を建造している。

                  八重洲一丁目付近


                   東京駅八重洲口