「関東大震災と藤沢」
大正12年の1923年、9月1日午前11時58分 「関東大震災」発生。
藤沢市も、藤沢駅から遊行寺に通じる、通りはほとんど全半壊・藤沢の死傷者が少ないのは、昼時にもかかわらず火事が発生しなかったためという。
津波(9~10m)の被害は、江の島桟橋の通行人50人遊泳者7人・ 死者藤沢町104人、川口村41人、現・藤沢市域で160人。
藤沢駅から遊行寺に通じる、通りはほとんど全半壊したが、1年後には藤沢駅をはじめ遊行寺など主要な建物は、復興したと云う。
今も各地に残る慰霊碑や伝承画残る。
安政江戸地震・関東大震災は、相模湾沖地震。震源地は、神奈川県、震度7の震度地域は、今の鎌倉市から小田原市に至る相模湾岸を中心とした地域。
被害の大きかった横浜市や東京市などは、震度6程度と推測され、安政江戸地震は、江戸直下型地震と云う。
供養碑・記念碑には、「震災による被害や復興のための苦労と「乗り越えた」という感慨とともに、「永遠にこの事を後世に残すように」という一文が刻まれていると云う。砂山観音境内 供養塔・大庭神社 供養塔など。
砂山観音境内の石碑ー大正12年9月1日の関東大震災の犠牲者を供養・遊行六十五世尊光上人の書、裏には犠牲者の名が刻まれていると云う。
関東大地震後、東京から続々人が流入したと云う。
藤沢橋ー藤沢本町駅に向かって左に「堀内本陣跡」が

「伝・ 源 義経首洗い井戸」
鎌倉で首実検の後、浜に捨てられた義経の首は、
境川から里人が拾い、この井戸で清めたと伝わっている。

供養石が

説明板

その井戸跡

大久保町・坂戸町に「問屋場跡」が
蒔田本陣跡が

1555年、小田原北条は、大鋸町に伝馬を置いた。
1596年、徳川将軍は、藤沢御殿を築いた。1700年廃止された。
旧藤沢広小路

江の島弁財天道標が点在している。
江島神社の一の鳥居は、藤沢橋に

藤沢には、清浄光寺通称遊行寺・江島神社と一の鳥居・白旗神社・浮世絵や道中記・四谷は、大山道の分岐点(追分)・南湖茅ヶ崎、松並木
左富士山・・。
浮世絵にも、

旧東海道

模型 昔の高札場

江戸時代1843年宿村大概帳ー宿内人口4089人・総家数919軒・旅籠45軒・本陣1・脇本陣1から2。
江戸時代の藤沢宿

国道 (箱根駅伝の一号線・大和市の467号線・・)

境川

流通の中心地藤沢、「米穀肥料商」が繁盛し、その資本を形成。
模型 宿場付近

鼻黒稲荷大明神

神殿

今でも、古い蔵・建物が点在

相模国の一の宮「寒川比古命・源義経公を祀る神社は、「白旗神社」・「伊勢山公園」は、小田急線・藤沢本町駅から。
旧道

藤沢は、国道1号線、保土谷・海岸134号線江の島から467号線・30号線・JR東海道線・私鉄小田急線が交わる地域にある。
JR藤沢駅と駅ビル

これで、藤沢は終わります。