syuの日記・気まま旅

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江ノ電に乗って 極楽寺から稲村ヶ崎

2018-04-24 | syu散歩
「真言律宗」
奈良市の西大寺は、鎌倉時代に「叡尊」によって再興され、南都七大寺の寺格をもち奈良仏教の伝統を受継ぎ、一方で鎌倉時代に「叡尊」が興起した
密教と戒律の融合一致を説く新たな教旨をその法統としている。
鎌倉仏教の寺院ということができ、その法統は、後世「真言律宗」と呼称され、西大寺はその総本山。
「叡尊」が各地に新建・修造・寄附した数千の寺院がその末寺となって、西大寺を頂点とする「真言律宗」の一大教団が形成される。
その後の歴史推移の中で、当初の教団規模は縮小を余儀なくされましたが、
現代でも北は福島県いわき市から南は熊本県玉名市にいたるまで90数ヶ寺の末寺を擁する宗団として存続し、奈良市内・近郊の「般若寺、元興寺、
福智院、不空院、白毫寺、海龍王寺、不退寺、浄瑠璃寺・岩船寺、宝山寺、長弓寺」等々の由緒ある名刹も、西大寺の末寺であり真言律宗一門の寺院。
その教旨「叡尊上人」の「真言律」の法燈においては奈良の地に隠然たる地脈を築いているという。

「叡尊」 1201ー90  鎌倉時代中期の真言律宗の僧。
謚号ー「興正菩薩」興福寺の学僧で「慶玄」の子。
大和国添上郡箕田里(現・奈良県大和郡山市)の生まれ。廃れかけていた戒律を復興し、衰退していた奈良西大寺を再興した僧として知られる。

                        江ノ電 極楽寺駅


「極楽寺」  真言律宗の寺、山号 霊鷲山

                    開山 忍性     1259年創建


「北条 重時」 1198-1261 鎌倉時代前期の北条氏の一門・武将・政治家、極楽寺 重時とも呼ばれた。
鎌倉幕府2代執権・北条義時の3男で、母は、正室で比企朝宗の娘・姫の前。北条時政の孫。尼将軍・尼御前と呼ばれた北条政子の甥。
極楽寺流の祖、「六波羅探題」北方・鎌倉幕府連署など幕府の要職を歴任し、第3代執権の異母兄・北条泰時から娘婿の第5代執権・北条時頼を補佐して幕政を主導しながら鎌倉幕府政治の安定に大きく寄与した。
「六波羅殿御家訓・極楽寺殿御消息」等の家訓の作者でも知られる。駿河守・相模守・陸奥守・・。

                   本殿       開基 北条重時


                   七堂伽藍と十三層塔・四季の花の寺で知られている。


                      重文 木造釈迦如来立像・坐像


                             地蔵堂


                             極楽洞


「江ノ電」
日清戦争の勝利により日本経済は隆盛を極めていた。
明治の中期、鉄道事業者の成功を目の当たりに見た多くの資本家たちが鉄道の建設を計画し、湘南地区に通じる鉄道の計画も10路線を超えていたと云う。
間と湘南は、古くから庶民の招福祈願と大山参りの精進落しの場として定着していた「江の島」。
風光明媚な湘南地区の、史跡と観光価値・・で、これら計画された鉄道の中で、唯一開業にこぎ着けたのが、「江之島電気鉄道が建設と江ノ電」
神奈川県会議員の要職にあった「福井直吉」ほか4名の有志が発起した鉄道会社。
明治31年、鉄道敷設特許状を取得後、33年、設立、35年、藤沢~片瀬(現江ノ島)間を開業され、延長鎌倉へ現在に至っている。



        「江ノ電」 鎌倉ー和田塚ー由比ヶ浜ー長谷ー「極楽寺」-稲村ヶ崎ー七里ケ浜・・・・。


「新田氏」ー清和源氏、家紋、大中黒・新田一つ引・本姓は、清和源氏(河内源氏)義国流 ・家祖は新田義重・上野国新田郡新田荘 。
主な根拠地、越前国・越後国・人物、新田義貞・脇屋義助・支流、分家ー山名氏(武家 → 華族)・里見氏(武家)・世良田氏(武家)など。
上野国発祥の豪族、清和源氏の一流河内源氏の棟梁 鎮守府将軍源義家の三男義国の長男新田義重を祖とする。
義国流足利氏と同族である。
上野国(群馬県)を本貫とした。

「義国と義重」は、渡良瀬川対岸の浅間山噴火で荒廃していた上野国新田郡(群馬県太田市)を開発。
1157年、平家方の藤原忠雅に開発地を寄進し、新田荘が立荘され、本家は鳥羽院御願寺の金剛心院、領家は藤原氏北家花山院流となる。
荘官ー任ぜられた義重は新田氏を称し、新田荘と八幡荘を中心に息子たちを配して支配体制を確立するとともに、東山道・利根川という水陸交通路や凝灰岩石材の産地であった天神山一帯を掌握して経済的な基盤を固める。

                       市指定 十一人塚


義重は、源頼朝から参陣の遅さを叱責・その後の平家との合戦や奥州合戦にも義重が参陣したとの記録がなく、1221年の「承久の乱」においても惣領は参陣せず、代官として庶家の世良田氏が参陣している。そればかりか、義平の未亡人となっていた義重の娘祥寿姫を頼朝が側室にしようとしたところ、
義重がそれを拒否したため頼朝から勘気を蒙ったと伝えられている
(吾妻鏡)ーこれらの経緯により、鎌倉に東国政権として成立した鎌倉幕府において、新田氏本宗家の地位は低いものとなった。
新田氏本宗家は頼朝から御門葉と認められず、公式の場での源姓を称することが許されず、官位も比較的低く、受領官に推挙されることもなかった。
早期に頼朝の下に参陣した山名氏と里見氏はそれぞれ独立した御家人とされ、新田氏本宗家の支配から独立して行動するようになる。
その後も新田氏の所領が増えることはなく、世良田氏や岩松氏の創立などの分割相続と所領の沽却により弱体化する。
以後、新田一族は堀口・里見・桃井・大館・一色の5家に分かれている。

                          供養塚 


足利高義の時代に元服した「新田義貞」、「氏」ではなく「義」の字が入っている事がこの事実を裏付けと云う。
後に、新田義貞が討幕の兵を挙げた時の事を
「源義貞ト云者アリ。高氏ガ一族也」(神皇正統記)・「尊氏の末の一族新田小四郎義貞といふ物」(増鏡)と記しているのは、実は婚姻関係と烏帽子親を通じた擬制的親子関係の結果、足利氏庶流と化していた新田氏本宗家の実態を的確に表した。

鎌倉時代後期には、新田義貞が後醍醐天皇の倒幕運動に従い挙兵、源義国流の同族にして北条氏と重代の姻戚の最有力御家人足利高氏(後の尊氏)の嫡男千寿王(後の足利義詮)を加えて鎌倉を攻め、幕府を滅亡させる。
当初、鎌倉幕府の冷遇によって建武政権での新田氏本宗家の権威は同族である足利氏惣領よりも格下に見られていたが、後に政権内部の政争により、
義貞は長年の足利氏との関係を断ち切って反足利氏派・反武家派の首班として尊氏と対立した。
新田一族中でも義貞とともに上京した者と鎌倉や新田荘に残った者にわかれ、前者は主に義貞に従い、後者や山名時氏や岩松氏・大舘氏・里見氏・世良田氏・大島氏などは主として足利氏に従い北朝方となった。
以後、新田氏一族は南朝方の中核を担うが楠木正成とともに戦った「湊川の戦い」で敗戦。
比叡山での戦いの後、長男の新田義顕と共に後醍醐天皇の皇子・恒良親王を奉じて北国に拠点を移した。
しかし越前国金ヶ崎城で足利方の「斯波高経・高師泰」らに敗れ、義顕は自決し、義貞自身も同国藤島で戦死する。

          1333年「極楽寺切通し」で新田軍の兵士の人骨が多数出土、


「稲村ケ崎海岸」
新田貞義が鎌倉攻略の為、ここ稲村ケ崎で兵を進めることが出来なかった。
そこで、義貞が「潮を万里の外に退け給え」と竜神に祈って太刀を海中に投げ入れると。海は、干潟となって、幕府軍を攻略できた。
それも空しく、貞義の子「義顕・義興」も南朝方に尽くしたが、悲劇てな最期を遂げている。

                         稲村ケ崎


                      正面に江の島が


                  新田貞義が竜神にいのった稲村ヶ崎


         鎌倉由比ヶ浜ー江の島七里ケ浜の間、江ノ電もここから海岸線に入る。


                         碑


                    海岸に沿て、国道134号線


                      稲村ヶ崎、今日は波高し


次回は、隣の腰越へ。