「北条時政」 土豪から幕府初代執権 1138-1215 娘北条政子 頼朝の挙兵に加わる。頼朝死後13人合議制で二代将軍頼家を廃して次男実朝を
三代将軍とした。有力御家人「梶原・比企・畠山・・」を謀殺し、後妻の娘婿「平賀朝雅」を将軍にしようと企てた。
陰謀が発覚、突如出家退隠・朝雅は殺されている。
「北条義時」 二代執権 時政の次男 1163-1224 13人合議制、「和田合戦」で和田氏を倒し実権を御家人支配した。
京都「九条頼経」四代将軍に迎え「承久の乱」で武家政権を確立させた。「六波維探題・公家政権監視」を設けた。
「源 実朝」 1192-1219 三代将軍 北条時政、義時父子が実権を。和歌や蹴鞠に熱中、子供が無く源氏断絶・右大臣に。
家集「金槐和歌集」を残す。頼家の子「公暁」の殺される。
「北条政子」 1156-1225 尼将軍 流人頼朝と結婚 2男2女 頼家将軍で尼に、北条氏の権力拡大にを図る。
次男実朝を将軍し、その後見役として幕政に参画し、二代執権に義時に。三大執権に長男の「泰時」を据えた。
JR横須賀線踏切を渡ると、住宅別荘地に、「川喜多映画記念館」が。
鎌倉を愛した川喜多氏の別荘(現在、市が管理)
「川喜多長政」
明治36年、生まれ、東京府立四中を卒業後、大正10年中国に渡り北京大学に学ぶ。
ドイツに留学し、ヨーロッパの文化に接し、国際交流の重要性を実感、帰国してすぐ昭和3年東洋と西洋の和合を願って「東和商事」を設立し、
ヨーロッパ映画を日本に紹介する仕事を始めた。
数々の名作を輸入・配給し、「自由を我等に」「巴里祭」「会議は踊る」「女だけの都」「望郷」「民族の祭典」など、映画史上不朽の名作がある。
昭和12年、ドイツとの初めての合作映画「新しき土」を制作し、昭和14年、日中戦争のさなかに上海に日中合弁の中華電影公司が設立されると、
その最高責任者に就任している。
中国側スタッフに自由な映画制作を許し、軍部からの圧力に抵抗・戦後、昭和26年、社名を「東和映画」。
外国映画の輸入・ヴェネチア映画祭に、黒澤明監督の「羅生門」を出品することに協力など、映画産業に大きく貢献している。
小路が続いている。
「東慶寺」 鎌倉市山ノ内にある臨済宗円覚寺派の寺院、山号は松岡山ー寺号は東慶総持禅寺。
寺伝では開基は北条貞時、開山は覚山尼と伝える。現在は円覚寺末の男僧の寺であるが、開山以来明治に至るまで本山を持たない独立した尼寺で、室町時代後期には住持は御所様と呼ばれ、江戸時代には寺を松岡御所とも称した特殊な格式のある寺であった[注 1]。また江戸時代には群馬県の満徳寺と共に幕府寺社奉行も承認する縁切寺として知られ、女性の離婚に対する家庭裁判所の役割も果たしていた
山門
「禅寺・伽藍配置」
建長寺は、正面南から中心線上に惣門・三門・仏殿・法堂・玄関・方丈と並び、
三門から仏殿には回廊が巡らされて、この回廊に接して東西に庫院と僧堂がある。
僧堂北には衆寮が建ち、三門の南方東西には浴室と西浄が配される。
一般に他の禅宗寺院でも伽藍の方位は南面を原則としている。
門
北条政子・源実朝の墓は、本堂の裏のやぐら
本堂
墓石が並ぶ奥源氏山斜面にやぐらが
北条政子の墓
やぐら
やぐら
源実朝の墓
古い石塔
東慶寺に並んで「八坂大神」(創建・建久3年)
神木
社殿
商店街の「小町通り」
江ノ電で稲村ヶ崎へ。