「後白河天皇」 王朝最後の天皇 1127-92 77代天皇(鳥羽天皇の第四皇子)
皇位継承問題摂関家の内紛「保元の乱」が起こる。後白河側勝利し、信西を中心に新体制が固まる。「保元・平治の乱」は武士抜きで解決できず。
武士の棟梁「平の清盛」大政大臣になり全盛を迎える。(頼朝は、後白河天皇を日本一の大天狗と評した)
「似仁王」 源氏に決起を促した皇子 1151-80 後白河天皇の第二皇子で平家の為天皇になれず、優れた人物と云う。
「源頼政」と相談、「平家討伐の令旨を発した、奈良県に逃げる途中で殺されている。が、源氏が決起する。頼朝は兵を挙げる。
「源頼義」 988-1075 前九年の役の勝利者 頼信の長男・京都石清水八幡宮に篤く信仰、嫡男「義家」社殿で元服させている。(鶴岡八幡宮に)
義家「八幡太郎源義家」と称し、武士の棟梁に。
「源義朝」 1123-60 「平治の乱」の敗将 平清盛の留守を狙って挙兵「平治の乱」を起こすが敗れ、尾張国で謀殺。
子「義平」は斬られる・「頼朝」は、伊豆へ流された。源氏哀勢に。平家全盛を迎えた。
「源頼朝」 1147-99 鎌倉幕府初代将軍 義朝嫡男 母熱田大宮司「藤原季範」の娘。
佐竹氏を討って関東を固め、弟「範頼・義経」を代官にして=木曽義仲・平家を滅亡させた。義経謀反事件が起こると、院に強要し「守護・地頭」設置。奥州藤原氏を討ち全国支配を成し遂げた。白河院が崩れると待望の「征夷大将軍」となる。妻は、「北条政子」
「頼朝の嫡男・頼家」 1182-1204 鎌倉幕府二代将軍・18歳で家督を継ぐが
頼家の独裁を止められ「御家人」代表の合理制に改められ、急病時・弟「実朝と一幡」に「総地頭職・総守護職」を分けるようにした。これに怒り、
妻の実家「比企氏」と共に北条氏を討とうとしたが、敗れている。
「比企能員、頼朝に信頼された武将」 1200年頃 頼朝の乳母ー比企尼の養子。13人合理制の一人・暗殺され、将軍は、「三代実朝」となる。
鶴岡八幡宮から横小路に

「大江広元」 守護・地頭の設置の献策者 1148-1225 鎌倉幕府の重臣、書記官役、公文所・政所の別当になった。北条政子に信任
13人合議制の一人、広元の子孫は長井・毛利・海東・水谷など。
「島津忠久」 武将、御家人 1200年頃、島津氏の祖・初代。
八幡宮からの道標案内板

法華堂跡の墓地。

石段下の鳥居前、島津忠久墓参道と大江広元墓参道の間の広場が発掘調査された結果、
北条義時法華堂と推測される堂跡が発見され、2006年、北条義時墓の法華堂跡部分等を追加し、名称変更されたとある。
北条義時は2代執権で、北条政子の弟、1247年、に法華堂に籠った北条泰村ら三浦一族500人余りの自害の地としても知られる。
鳥居手前のやぐらには石塔が建ち北条泰村ら三浦一族の墓とされ、背後の山麓にあるやぐらには薩摩藩主島津家の藩祖とされる島津忠久、執権政治の確立に尽力した大江広元とその子で毛利家の祖である毛利季光の三人の墓が並んでいる。
古墳時代の横穴墓だとされるが墓を造成する際に掘削されていてやぐらのように見える。
国指定文化財等の詳細解説には、
「法華堂阯ハ西御門ニ在リテ頼朝墓ノ下西側ニアリ、始メ頼朝ノ持佛堂ニシテ其ノ薨去後其ノ廟所トナレリ 江戸時代ニハ八幡宮供僧坊ノ管理ニ属セシカ維新後廃セラル 今地域内ニ白旗神社ノ小祠ヲ祀ル 法華堂阯ノ背後ナル丘陵ノ中腹ニアリ長方形ニ石疊ヲ敷キ土鏝頭ノ上ニ高サ七尺ノ多重塔一基ヲ建テ石玉垣ヲ周ラセリ」
(昭和2年の指定当時の指定説明が記載。
白旗神社が建つ平地に頼朝の持佛堂が建っていたが薨去後に廟所として法華堂になったことが印されている。
1779年、薩摩藩主の島津重豪が多層塔(供養塔)を建て、1989年、にこの多層塔は破壊され、平成2年、新たに造り替えられたと云う。
広場で正面の鳥居上が墓地

看板に「薩摩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ・・」 「法華堂跡」(明治政府)

法華堂跡は、鎌倉駅から北東に約800m・この付近「雪の下」と云い、大倉山がある。
やぐら(頼朝の墓・法華堂跡は、大倉山の中腹にある。

やぐら

看板に「薩摩・長州藩ゆかりの墓が並ぶ・・」 「法華堂跡」(明治政府)

法華堂跡の碑

「源頼朝」の墓 入口の碑

頼朝が出陣戦勝祈願した神社「白旗神社」

頼朝墓地入り口の鳥居

階段を登ると街並みが

「源頼朝」鎌倉幕府初代将軍 義朝の嫡男 1147-99
1199年、相模川架橋視察の帰途に、落馬が原因で53歳で没している。遺体は、ここに葬られた。
頼朝の子孫「薩摩藩主 島津重豪」により建立されたと云う。(1779年)
頼朝の墓(1927年史跡指定)

鎌倉10の橋の一つ筋替橋跡の碑(今は県道、近くに滑川が)

県道204号線

「畠山重忠」 1164-1205 鎌倉武士で武蔵国秩父一族の「畠山重能」の子。母は、「三浦義明」の娘。
頼朝上洛で先陣を、二度目の結婚で「北条時政」娘・息子「重保」は、時政の後妻「牧方の娘婿平賀」と口論し、時政夫婦は、重忠父子討滅している。
畠山氏は、全滅している。
伝 畠山氏の屋敷跡

次回は、北条政子・実朝の墓へ。