syuの日記・気まま旅

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若宮大路 鶴岡八幡宮

2018-04-13 | syu散歩
「鎌倉時代」の成立は、源頼朝が文治・1185年の守護・地頭設置した時か・1192年の征夷大将軍奈か見解が分かれている。
鎌倉幕府は、侍所・公文所(政所)・問注所があり、長官に「和田義盛・大江広元・三善康信・・が就任したが頼朝の独裁政治であった。
源頼家が将軍時は、独裁を廃して13人御家人の代表らにより「合議制」に改めている。
だんだん北条氏の実権を握り出す。頼朝の妻「北条政子」の父北条時政は、頼家を廃してその弟「実朝」を将軍に据えた。
時政は、じぶんを政所別当として「執権」と称し、政子を将軍の御家人として「尼将軍」と呼ばれていた。
やがて政子の弟「北条義時」は、父時政を追放し、執権政治を確立する。
源実朝が、甥の「公暁」に鶴岡八幡宮境内の大銀杏に隠れ殺された。
文化面では、貴族文化に憧れ、「新古今和歌集・実朝も万葉調の歌を」武士の文化もおきている。「平家物語・・」
仏教でも、栄西・道元・法然・親鸞・日蓮・一遍らが現れ、又、迫害を受けている。

                        JR鎌倉駅


鶴岡八幡宮から社前から海岸に至る道を「若宮大路・参道」、1182年頼朝の命によりつくられた。
置き石・段葛もこの時に築かれ、二の鳥居・三の鳥居も残存。
鎌倉は、谷の多い街で、南西は海の面して、三方は丘陵に囲まれ、滑川が複雑に入り組んでいる。その谷を「ヤツ」と呼ぶ。
そのヤツは重要な交通網と強固な防御地「七切通し」の道である。
比企ガ谷・釈迦堂ガ谷・扇ガ谷・亀ガ谷・佐助ガ谷・名越ガ谷・二階堂ガ谷の七口。

                    若宮大路・鎌倉駅前交差点


                       二の鳥居前


                      小町通り入口鳥居


大路は、頼朝が政子の為につくらしたと云う。
若宮を中心に、西武蔵大路・東に小町大路・八幡宮前の横大路・海岸の車大路、その他にも二階堂大路、又大路を結ぶ「辻子」がある。
座は、馬を扱う博労座・木材を扱う材木座等が残っている。

                       若宮大路・桜名所碑


                         地図看板


「長慶山・大巧寺」   日蓮宗

「おんめさま」の名で親しまれる安産祈願の寺。
1532年、第5世のの日棟が、難産で死んだ秋山勘解由の妻の霊魂を鎮めるために、産女霊人として奉ったことによる。
以降、産女霊人は「おんめさま」と呼ばれ、安産の神として信仰されている。
元は、大行寺という真言宗の寺であった。日蓮上人に帰依していたため、日蓮宗に改宗したと云う。

                        安産・子育霊場


「大巧寺・大行寺と称する真言宗から日蓮宗の寺院」
当初は十二所の梶原景時の屋敷内にあったと云う。
創建年や開山などは不明、(源頼朝の祈願所とされた事から、鎌倉時代初期頃までには創建されていたと推測される)
頼朝が軍議を行った結果、大勝利を収めたため、頼朝の命により「大巧寺」という名称に改名している。
1274年、日澄により日蓮宗に改宗し、これに基づき現在では開山を日澄としている。

                  日蓮が辻説法していたのがこの付近と云う。      


鎌倉は、多くの社寺が造営されている。仏教の布教活動も活発であった。(神社41社・寺院83寺ある)
鎌倉五山ー建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺と名刹が残っている。(天台宗の布教活動はあまりなかったとも云う)



                        山門


                        本殿


                   若宮大路入口と第二の鳥居


                        狛犬


                      大路の左右は車道


鶴岡八幡宮・御祭神 応神天皇 比売神 神功皇后   源頼義公が「前九年の役」平定後1063年祈願成就のお礼として「由比郷の八幡大神」を
勧請したと云う。1180年源頼朝公は、源氏再興の旗をあげ、父祖ゆかりの「鎌倉」に入り、由比郷の八幡宮を現在地小林郷北山に移したとある。
大臣山中腹に社殿を造営し、その以降は、武家の守護神として徳川まで続き、社領・社殿修造等を行ってきた。
応神天皇は、実在の最初の天皇で、支配地を拡大させ、朝鮮半島との交流と大陸文化を積極的に取り入れた天皇で、八幡神とみなされている。


                       若宮参道~第三の大鳥居(近く近代美術館が)


「鎌倉国宝館」 昭和3年開設している。  国宝・重文など約3500点あると云う。



                     古都鎌倉 人力車、瓦屋根などが点在


                         牡丹庭園


                        開園中 有料


曽我兄弟仇の「工藤祐経」が鼓・「畠山重忠」が銅拍子を担当し静御前は舞を。

「静の舞」ー吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき  しづやしづ しづのをだまき くり返し昔を今に なすよしもがな
「吾妻鏡」は、「まことにこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と記されている。
参列した者のほとんどが「静の舞」に心を動かされたという。
頼朝は、静が義経を慕う歌をうたったことから激怒しますが、妻の「北条政子」は「私が御前だったとしてもあのように舞ったでしょう」と言ってとりなしたのだと伝えられている。
また、静は、頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建した勝長寿院でも、頼朝の娘・大姫に舞を見せたといわれている。
鎌倉に来た静は、義経の子を身籠っていました。生まれてくる子が男子であったなら、その子の命を絶つことは決まっていました。
静の産んだ子は男子。
子は殺害され、その遺体は由比ヶ浜に捨てられたという。

「静の舞」は、毎年、4月第2日曜日(鎌倉祭初日)・15:00~ 鶴岡八幡宮、「舞殿」で披露される。


                          舞殿


                       天然記念物の槙


「公暁」 1200-19 源氏の正系を断絶させた二代将軍頼家の三男・鶴岡八幡宮寺の別当、公暁は、叔父「実朝」が父を殺したと考え、八幡宮参詣の帰り、この大銀杏に隠れ、自ら剣をとって「実朝」を刺殺した。(北条義時がそそのかし実朝を討たせ、さらに義村に公暁を討たしたなど云われるが確証はないと云う)

                      ここに大銀杏があった。


                      台風で倒れる前の大銀杏


                      鶴岡八幡宮の社殿


                      大銀杏の跡(二代目が)


                      朝の境内






中世から続く「鶴岡八幡宮例大祭、神幸祭」 神輿3基が若宮大路を進む。



古都保存法・歴史的風土特別保存地区指定・鎌倉市総合計画基本構想(市民憲章)など、環境破壊から守ることをうたっている。



文学は、源実朝の金槐和歌集・阿仏尼の十六夜日記・吉田兼好の徒然草・室町時代の太平記、義経紀・・・。
夏目漱石のこころ・川端康成の山の音・・・・・数多くの作家が取り上げている。





次回は、源頼朝の墓へ