syuの日記・気まま旅

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八王子市へ 北条家と氏照

2019-10-05 | 季節だより

都八王子市高尾は、市の南西部・関東山地東端、中世時代堆積岩からなる。
京王線高尾駅の次が高尾山口駅、その高尾山の山頂に成田山新勝寺「平間寺」(川崎大師)と共に関東三山の一つとされる「薬王院」がある。
古くから山岳信仰、また見晴らしの良さで若者にも人気な山である。 明治の森高尾国定公園に指定されている。
この地域は、温暖帯と冷温帯への推林地点ー南斜面は,カシ類常緑広葉樹林・北側斜面は、ブナなどの落葉広葉樹林が。
東海自然歩道の起点で、小仏峠・陣馬山・相模湖のコースも多い所。

「北条氏照」
八王子城築城の前に、氏照は、市内に「滝山城という城を持っていた。
北条氏の数ある城の中でも名城とされ、堅固ながらもコンパクトで良く纏まった城、城全体が多摩川方面の北側からの敵来襲に備えた造りに。
本丸方面へ深く入っていくと、中の丸あたりで急に視界が開け、標高を持つ山城のような地形、北方の上杉謙信に備えて築城されたのではないか。
その当時は、「関東管領の上杉氏」・足利公方等、関東覇権争いをしており、これらの敵は当時ここから北側に位置していたので、大軍を連れてくる多摩川方面に対し(北側)、堅固な造りに。
滝山城の作りは、本丸から眼下に広がる多摩川方面からの敵に対し、堅固に作られており、隣国甲斐から甲州街道沿いに攻めてくる敵には若干弱い。
廿里(とどり)の戦いは、1569年、武田信玄が攻めてきた。
しかも、上杉謙信と同じく碓氷峠から北関東を通って、多摩川を挟んで、滝山城に立て籠もる北条氏照ら2千と対陣・武田信玄その兵力2万。
滝山城は、名城ですから、北側からの攻撃は10倍の兵力であっても容易に落ちる城ではなかったと云う。
ところが、これが信玄得意の陽動作戦で、戦上手な信玄はそんな滝山城の作りを良く知っており、武田の本領甲斐国(山梨県)は岩殿城(現在の大月市)を出発した武田家譜代の家臣 小山田信茂の1隊1千の兵が、甲州街道沿いに、甲斐国と武蔵野国の国境である小仏峠を超えて、滝山城の南から迫ってきておりました。氏照は、この動きも察知して、守備兵の一部を割いて、小山田隊の迎撃に向かわせましたが、流石は武田24将の重鎮である小山田氏、今の高尾駅前あたりの廿里(とどり)で上手く待ち伏せしており、北条軍は大敗、滝山城に撤退している。
勢いに乗った小山田隊1千は、滝山城を南側から攻めます。そして、三の丸まで攻め落とされて、あわや落城寸前まで、武田本隊の2万が攻めてきたら氏照も終わり、が、この時の信玄は、小田原城へと兵を進めます。
命拾いをした氏照は、滝山城の南側からの防御能力の低さに唖然とし、小仏峠を一軍が超えてくるということを想像し辛いほど、小仏峠は街道の難所だったようです。それなので、滝山城も甲州街道側から進行してくる敵軍を想定していなかった。
小仏峠を越えて来る敵に対しての防衛拠点として・・・・・。

                     JR高尾駅からバスで「八王子城・城主氏照」へ


















「宗関寺」 兵安時代華厳菩薩が開いた寺を、氏照が1564年再興した古刹、北条氏照法要が。










「北条氏照」 1590年没、小田原城主3代目の北条氏康の3男・側室は、大石氏女・氏康の長男小田原城主4代目「氏政」武田信玄女。



                      北条氏照と家臣の墓