「山梨県都留市」 県東部桂川上流沿岸の市。郡内地方の中心。
16世紀武蔵の「小山田氏の居館」があった所で、城下町を形成された。産業は、甲斐絹。
今は、富士吉田市に移っている。
「勝山城跡」 571mの城山、16世紀郡内を治めた「浅野氏重」が築城した。多少、堀・石垣が残っている。
1960年・市立都留文科大学がある。
天和二年・1682年、江戸の大火事で家を焼きだされた松尾芭蕉は、翌天和三年、秋元家家臣・高山伝右衛門繁文(俳号麋塒)の招きにより、
谷村(山梨県都留市)にしばらく滞在したとある。
その後も谷村を訪れたいと弟子の手紙に記しており、芭蕉にとって谷村が特別な意味を持つところであったことが。
自然と霊峰富士を間近に見る感動が芭蕉に大きな心境の変化を与え、その後の蕉風俳句に大きな影響を与えたと考えられ、 芭蕉ゆかりの地として、1994年から毎年5月には「都留市ふれあい全国俳句大会」を開催され、都留市内には芭蕉の句碑が建てられている。
城南公園句碑、 「行く駒の 麦に慰む やどりかな」
旅行く駒が、今日はこの宿のもてなしに穂麦をご馳走になり、うまそうに食べている。自分もこの宿のもてなしに心足りていることだ。
野ざらし紀行・貞享2年(1685年)とある。
都留市内の芭蕉句碑
・「勢いあり 氷消えては 瀧津魚」・田原の滝の氷柱も消え、富士の雪解けで水増した桂川の清流に踊る魚と共に春を喜ぶ心情を詠んだ句。
・芭蕉は、谷村の滞在期間中は、その屋敷の離れである梅林軒で過ごし句会などを催して名句を残しています。
またその後の1684年、関西への旅(「のざらし紀行」とも呼ばれる)の帰途高山傳右衛門宅に立ち寄ったといわれている。
・ 旅に明け暮れた芭蕉にとって、谷村で過ごした日々は、彼の生涯の中でもっとも長い逗留であったともいわれ、江戸にいて冬の激しい郡内の自然と霊峰富士を間近に見る感動が芭蕉の心境に大きな変化を与えたという。この逗留が契機となり、「笈の小文」「奥の細道」の旅を経て「風雅の誠」を完成したともいう。
高山傳右衛門と師弟関係を超えた心のつながりは、芭蕉の晩年まで続きましたが、三度目の谷村来峡を果たせぬまま、芭蕉は旅を住処とした生涯を51歳で閉じている。
芭蕉は、ここ田原の庵においても句を詠んでおり、その句は建立されている句碑に刻まれています。またこの句以外にも都留市内の各所に松尾芭蕉の句碑が。
・「松風の 落ち葉か水の 音涼し」夜の静寂を刻んで、かすかに音がするのは、風に散る松の落葉であろうか。ふと気付くと屋敷のそばを流れる水音の涼しげに響いてくる。
・「人は寝て 心ぞ夜を 秋の昏」 人はみな静寂たる晩秋の夜を夢中の人となるが、わたしの心は秋の淋しさがしみじみと感じられる。
麋塒その人の感傷がにじみ出ている句です。1683年
・円通院 「旅人と 我が名よばれん はつ時雨」 これから旅に出ると人から、私は「旅の人」と呼ばれる身の上になる。
おりから初しぐれの降る季節で、その初しぐれに濡れながら旅をし、人々から旅人と呼ばれるのは自分の気持ちに相応しく、本懐のことだ。
・「山賊の おとがい閉ずる むぐらかな」 あたり一面に雑草の葎がはびこっている甲斐山中で、下あご(おとがい)を閉じて無愛想な樵に逢ったさまを読んだ句。貞享2年の1685年、