syuの日記・気まま旅

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平山城跡公園 駅前に居館跡がある(鎌倉時代)

2019-10-27 | 季節だより
私鉄京王線 高尾山口・高尾(JR中央線)・狭間・めじろ台・緑町・北野(八王子線)「平山城址公園」・南平・高幡不動・百草園・聖蹟・・府中。
「平山城址公園」下車
                        駅前ロータリー


「平山季重居館跡」 1805年   江戸末期 「男谷精一郎信友・通称精一郎」
駅前に居館跡が。

「平山季重」1140-1212? 平安・鎌倉時代末期  右衛門尉 日華氏 父ー直季 武蔵七党の西党、日奉の武将
日野市平山を領している。
1156年、「保元の乱」源義朝に従い、「平治の乱」で義朝の長男義平に従い「平重盛盛」勢の500騎に17騎で戦い挑んでいる。義朝敗戦後は、
「平家」従い、「源頼朝」が挙兵するとそれに従って、富士川の戦い・佐竹氏征伐に参戦している。
「熊谷直実」と共に戦功をあげ、また、1189年奥州合戦で息子小太郎重村と共に参戦し戦功をあげている。

後、鎌倉幕府の元老として取り立ってれた。「源実朝」誕生で鳴弦の大役を務めた武将であったと云う。







「男谷精一郎」は、寛政10年の1798年、男谷検校(米山検校)の孫・男谷信連(新次郎)の子として生まれ、20歳の時に同族(従叔父)の男谷思孝(彦四郎、忠果)の婿養子となる。(彦四郎も男谷検校の孫)
検校は、元々越後国三島郡長鳥村(現・新潟県柏崎市)の貧農の出で盲人であったが、雪の夜に奥医師石坂宗哲の門前で行き倒れていた所を助けられ宗哲から1両2分の資金を借りて生業を始めた所、利財の才に長け、江戸府内17箇所の地主となり検校の位を買い、大名貸も行うほどになったと云う
検校の末子平蔵(忠凞)は、1776年、江戸幕府の西丸持筒与力(御家人)となり、父に御家人株を買い与えられ、後に勘定に昇進し旗本となった。
平蔵の長子が彦四郎で、三男が左衛門太郎(小吉)惟寅、勝海舟の父で、したがって、信友と勝海舟は血縁では又従兄弟、系図上では従兄弟の間柄
信友は、1805年、8歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術12世の団野源之進(真帆斎)に入門して剣術を習い始め、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術、吉田流射術にも熟達した。
1824年、団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。

1805年ー本所亀沢町、直心影流剣術12世の団野源之進(真帆斎)に入門。1824年ー団野から的伝を授けられ、麻布狸穴に道場を開く。
1830年、男谷彦四郎の養子・1833年、書院番に昇進。ー1849年、御本丸徒士頭・1856年、講武所が開設され、講武所頭取並、剣術師範役を兼務する。また師・団野の死により、亀沢町の道場を譲られる。1862年、下総守に叙任、講武所奉行となって禄高3000石を与えられた。
文久3年の1863年、将軍徳川家茂の上洛に際して旗奉行を兼ねる。









                  向かいの上に「平山城址公園」がある。


                        左に、ふれあい館が。