「伊東祐親」平安時代の武将
東国・親平家方豪族として 平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流された「源頼朝」の監視を任される。
しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲に、祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
1180年、 頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず
「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
次男の祐清はその後も平家方として戦い、篠原の戦い」で討ち死にしている。
頼朝挙兵の13年後、建久4年の1193年、孫である曾我祐成・時致兄弟が、鎌倉殿として東国の主となった頼朝が催した 富士の巻狩りの場
父・祐泰の仇である祐経を討ち果たした。この事件は「曾我兄弟の仇討ちとして後世」に知られる事になる。す
(近年、保立道久は真名本『曾我物語』3巻冒頭の解釈に誤りがあり、従来源頼朝が北条政子との関係を持ち始めたと解釈されてきた同書記載の安元2年(1176年)3月という年次は政子が頼朝との関係を持った結果、大姫が誕生した時期を指すのが正しいと指摘している。
保立は大姫の誕生を安元2年3月とすれば、頼朝が政子との関係を持ち始めたのは遅くても安元元年の初夏、すなわち伊東祐親が京から戻る直前のことになるとする。
保立は 伊東祐親が頼朝を襲撃して千鶴御前(丸)を殺害したのは平家との関係を憚ったのではなく、元々貴種である頼朝を庇護する意図があり娘との関係を持つことを認めていたものの、厚遇に反して縁戚の北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「うわなり打ち」であったとする説を提唱している)
東京都大島町・伊豆半島の東・都の南120km・東西約9km、南北約15km・伊豆諸島最大の島・富士箱根伊豆国立公園・大部分が玄武岩三重式成層
火山・島中央にあるカルテラは、7~8頃噴火に2つのカルテラが合体した。
9世紀頃海岸が割「池」が。1703年地震で津波のより海に、1777年大噴火により「三原山標高758m」誕生、島周囲53km。
伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去。9歳の嫡男・金石・(工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。
祐親は、河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。
「祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている」
金石は、元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻に、その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として
「平重盛」に仕え、祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
伊東祐親は、娘・万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。(・・・・宇佐美祐茂)
所領の他に妻をも奪われた工藤祐経は憤り、伊東祐親親子の殺害を計画、安元2年の1176年、工藤祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因に。
伊東市役所と物見塚公園(伝伊東家館跡)


伊東祐親像

尾上紫舟歌碑

物見の松

市内が一望


芭蕉句碑

「佛現寺」 日蓮宗 1261年日蓮も,伊東へ流されている。
山門

多宝塔


本堂



次回は、祐親ゆかりの墓地・神社・寺へ。
東国・親平家方豪族として 平清盛からの信頼を受け、1159年の平治の乱に敗れて伊豆に配流された「源頼朝」の監視を任される。
しかし祐親が大番役で上洛している間に、娘の八重姫が頼朝と通じ、子・千鶴丸を儲けるまでの仲に、祐親はこれを知って激怒し、1175年、平家の怒りを恐れ千鶴丸を松川に沈めて殺害、さらに頼朝自身の殺害を図った。
頼朝の乳母・比企尼の三女を妻としていた次男の祐清が頼朝に知らせ、頼朝は夜間馬に乗って熱海の伊豆山神社に逃げ込み、北条時政の館に匿われて事なきを得たという。
1180年、 頼朝が打倒平氏の兵を挙げると、大庭景親らと協力して石橋山の戦いにてこれを撃破する。
しかし頼朝が勢力を盛り返して坂東を制圧すると、逆に追われる身となり、富士川の戦いの後捕らえられ、娘婿の三浦義澄に預けられる。
頼朝の妻・北条政子が懐妊した機会を得て、義澄による助命嘆願が功を奏し、一時は一命を赦されたが、祐親はこれを潔しとせず
「以前の行いを恥じる」と言い、自害して果てた。
次男の祐清はその後も平家方として戦い、篠原の戦い」で討ち死にしている。
頼朝挙兵の13年後、建久4年の1193年、孫である曾我祐成・時致兄弟が、鎌倉殿として東国の主となった頼朝が催した 富士の巻狩りの場
父・祐泰の仇である祐経を討ち果たした。この事件は「曾我兄弟の仇討ちとして後世」に知られる事になる。す
(近年、保立道久は真名本『曾我物語』3巻冒頭の解釈に誤りがあり、従来源頼朝が北条政子との関係を持ち始めたと解釈されてきた同書記載の安元2年(1176年)3月という年次は政子が頼朝との関係を持った結果、大姫が誕生した時期を指すのが正しいと指摘している。
保立は大姫の誕生を安元2年3月とすれば、頼朝が政子との関係を持ち始めたのは遅くても安元元年の初夏、すなわち伊東祐親が京から戻る直前のことになるとする。
保立は 伊東祐親が頼朝を襲撃して千鶴御前(丸)を殺害したのは平家との関係を憚ったのではなく、元々貴種である頼朝を庇護する意図があり娘との関係を持つことを認めていたものの、厚遇に反して縁戚の北条氏の娘とも関係を持ったことに憤慨した一種の「うわなり打ち」であったとする説を提唱している)
東京都大島町・伊豆半島の東・都の南120km・東西約9km、南北約15km・伊豆諸島最大の島・富士箱根伊豆国立公園・大部分が玄武岩三重式成層
火山・島中央にあるカルテラは、7~8頃噴火に2つのカルテラが合体した。
9世紀頃海岸が割「池」が。1703年地震で津波のより海に、1777年大噴火により「三原山標高758m」誕生、島周囲53km。
伊東荘を継いだ祐継は病により43歳で死去。9歳の嫡男・金石・(工藤祐経)の後見を義弟・河津祐親に託した。
祐親は、河津荘から伊東荘に移住し、河津荘を嫡男・祐泰に譲って河津祐泰と名乗らせる。
「祐親の次男・祐清は伊東を名乗っている」
金石は、元服すると工藤祐経と名乗り、約束通り祐親の娘・万劫御前を妻に、その後祐経は14歳で祐親に伴われて上洛し、平家の家人として
「平重盛」に仕え、祐経を都へ追い払った祐親は所領を独占し、伊東荘を押領された事に気付いた祐経は都で訴訟を繰り返すが、祐親の根回しにより失敗に終わる。
伊東祐親は、娘・万劫を取り戻して相模国の土肥遠平へ嫁がせる。(・・・・宇佐美祐茂)
所領の他に妻をも奪われた工藤祐経は憤り、伊東祐親親子の殺害を計画、安元2年の1176年、工藤祐経が送った刺客により、伊豆の狩り場で河津祐泰が射殺され、のちの曾我兄弟の仇討ちの原因に。
伊東市役所と物見塚公園(伝伊東家館跡)


伊東祐親像

尾上紫舟歌碑

物見の松

市内が一望


芭蕉句碑

「佛現寺」 日蓮宗 1261年日蓮も,伊東へ流されている。
山門

多宝塔


本堂



次回は、祐親ゆかりの墓地・神社・寺へ。