「伊東祐親」の墓
市役所・物見塚公園西へ
五輪塔が
日本三大仇討ちのひとつである「曽我兄弟の仇討ち」は、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件として知られています。その際、曽我兄弟が隠れていたとされる「曽我の隠岩」や、曽我兄弟の墓、仇討の相手となる工藤祐経の墓が、富士宮市白糸の滝近くにある。
工藤祐経元服し「平重盛」に仕えいる間に伊東祐親は、伊藤荘を占拠、祐経は平家に訴えるが、平清盛の信頼も厚い祐親の早めの根回しで占拠でき、
恨んだ祐経は1176年、郎党の大見・八幡等が、祐親の嫡男「河津祐泰」を弓で射殺。
妻は、二人の子を連れて再婚、曽我祐信と結婚した。
亡き伊東祐親の孫の曽我兄弟は、1193年の源頼朝の富士裾野の巻き狩り時、酔った「工藤祐経」を「富士白糸の滝」の近くに隠れ襲撃し打ち果たした。また、寝所を襲ったとも。
曽我兄弟の兄祐成、1173-93・弟時致、1174-93 兄仁田忠常に討たれ、弟時致は、捕まり、頼朝は、助命を、が斬首されている。
その後、頼朝は、曽我兄弟の菩提寺(小田原梅林)と曽我荘の年貢免除をした。
「葛見神社」 延喜式神名帳には、久豆弥神社
中世に、「伊東氏」の尊護を受けている。
祐親の孫になる「伊東祐隆」が修造・近くの「東林寺」創建して、別当寺としてこの神社を管理させ、明治まで続く、又、神供米を寄進した。
明治以降は、郷社に
住所は、伊東市馬場町、創建は不明、本殿ー神明造り、山を下りた樹林に囲まれた里山に鎮座。
祭は、10月15日(烏刺踊りで知られている)
天然記念物「大クス」樹齢1000年以上・幹囲約15m。
「東林寺」「南伊東駅約1.8km」
12世紀中頃に真言宗久遠寺として開創され、その後、藤原南家出身で伊豆の豪族の「伊東祐親が嫡男・河津三郎祐泰」の菩提を弔う為に出家し
東林寺と改め、以後伊東家の菩提寺となる。
境内には伊東七福神の1つ布袋尊も祀られ、河津三郎祐泰の墓と、仇討ちで知られる曽我兄弟の供養塔も。
高台で海が望め、伊東祐親の嫡男・河津三郎祐泰は、奥野の相撲で大活躍して「かわづかけ」の名を残した人物で、相撲の中興の祖と言われている。それを称える為、昭和34年にこの寺で、横綱の土俵入り奉納が行われた。
当時の時津風理事長や現役横綱が揃い踏みをしたと云う。
境内には日本相撲協会が建立した顕彰碑もある。
伊豆伊東は、終わります。
市役所・物見塚公園西へ
五輪塔が
日本三大仇討ちのひとつである「曽我兄弟の仇討ち」は、源頼朝が行った富士の巻狩りの際に、曽我祐成と曽我時致の兄弟が父親の仇である工藤祐経を討った事件として知られています。その際、曽我兄弟が隠れていたとされる「曽我の隠岩」や、曽我兄弟の墓、仇討の相手となる工藤祐経の墓が、富士宮市白糸の滝近くにある。
工藤祐経元服し「平重盛」に仕えいる間に伊東祐親は、伊藤荘を占拠、祐経は平家に訴えるが、平清盛の信頼も厚い祐親の早めの根回しで占拠でき、
恨んだ祐経は1176年、郎党の大見・八幡等が、祐親の嫡男「河津祐泰」を弓で射殺。
妻は、二人の子を連れて再婚、曽我祐信と結婚した。
亡き伊東祐親の孫の曽我兄弟は、1193年の源頼朝の富士裾野の巻き狩り時、酔った「工藤祐経」を「富士白糸の滝」の近くに隠れ襲撃し打ち果たした。また、寝所を襲ったとも。
曽我兄弟の兄祐成、1173-93・弟時致、1174-93 兄仁田忠常に討たれ、弟時致は、捕まり、頼朝は、助命を、が斬首されている。
その後、頼朝は、曽我兄弟の菩提寺(小田原梅林)と曽我荘の年貢免除をした。
「葛見神社」 延喜式神名帳には、久豆弥神社
中世に、「伊東氏」の尊護を受けている。
祐親の孫になる「伊東祐隆」が修造・近くの「東林寺」創建して、別当寺としてこの神社を管理させ、明治まで続く、又、神供米を寄進した。
明治以降は、郷社に
住所は、伊東市馬場町、創建は不明、本殿ー神明造り、山を下りた樹林に囲まれた里山に鎮座。
祭は、10月15日(烏刺踊りで知られている)
天然記念物「大クス」樹齢1000年以上・幹囲約15m。
「東林寺」「南伊東駅約1.8km」
12世紀中頃に真言宗久遠寺として開創され、その後、藤原南家出身で伊豆の豪族の「伊東祐親が嫡男・河津三郎祐泰」の菩提を弔う為に出家し
東林寺と改め、以後伊東家の菩提寺となる。
境内には伊東七福神の1つ布袋尊も祀られ、河津三郎祐泰の墓と、仇討ちで知られる曽我兄弟の供養塔も。
高台で海が望め、伊東祐親の嫡男・河津三郎祐泰は、奥野の相撲で大活躍して「かわづかけ」の名を残した人物で、相撲の中興の祖と言われている。それを称える為、昭和34年にこの寺で、横綱の土俵入り奉納が行われた。
当時の時津風理事長や現役横綱が揃い踏みをしたと云う。
境内には日本相撲協会が建立した顕彰碑もある。
伊豆伊東は、終わります。