syuの日記・気まま旅

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気ままに記録しています。

深川公園と富岡八幡宮

2012-03-11 | syu散歩
「深川公園」は、1873年 太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つ。
公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていた。

西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘があり1879年には梅、桜を植え花園公園。
1907年に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、1909年に深川図書館が建てられ、1923年の関東大震災で焼失。
震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、大戦中に池は埋められ運動場になる。
下の漆喰画は、1815年伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし1889年深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、
伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作された。
「石造燈明台」有形文化財、明治31年日清戦争勝利を記念し不動堂信者が寄付し名を記し中に市川団十郎の名もあると聞く。


    
                                       石造燈明台

「成田深川不動尊」は、1703年に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、明治14年不動堂が完成。
境内には「名優五代目尾上菊五郎の碑」「力石」などがある。
この辺りは、富岡八幡、永代寺、深川不動の門前町として江戸情緒を色濃く残す深川の中心街で、納め不動12/28や毎月28日の縁日では
参詣者で賑わい、多くの露店が並ぶなど盛況を呈している。

下町で親しまれているお不動尊                   本殿
  


「富岡八幡宮」1630年 長盛法師が弘法大師作「八幡大菩薩」像を奉ったのが起こりと云われている。
通称「深川八幡」で例祭「深川祭り」は江戸の三大祭りの一つ。
横綱力士像は、1900年建立され、初代横綱明石志賀之介から歴代の名が刻まれている。


  

「紀伊国屋文左衛門と八幡宮」
全財産をつぎこんだ十文銭の鋳造事業の失敗により、以降は乞食同然の生活となり哀れな晩年を送ったと言われている。
異説も存在し、綱吉逝去の翌年1710年に紀伊国屋材木店を閉店した後、1717年に深川富岡八幡宮に総金張りの神輿三基を奉納したり
大火で消失した富岡八幡宮社殿建立費用に全財産を寄進したりといわれ、潤沢な資産を持っていたともいう。 

伊能忠敬 1745-1818 日本地図を作った商家の隠居56歳で蝦夷地測量の旅に出た。
一歩65㎝の歩測、尾道で過労3か月の足止めされただけであった。ここ八幡宮からスタートしている。

「大祭」江戸三大祭りの一つと云われる例大祭本祭り(3年に一度)最大 の山場 「神輿連合渡御」 、 別名「水かけ祭り」 と云われ、
神輿や担ぎ手 に向かって 神輿の通る沿道からバケツやホースで 水をかけ、 それがまた一段と祭りを盛り上げている。

総金張りの神輿                 伊能忠敬   
    

富岡町から塩浜町へ、子供の頃田圃で泳いだ記憶がある所、今は、高層ビルと運河に変貌していた。
JR京葉線の越中島・汐見・新木場が通り、越中島貨物線が亀戸に、東西線が木場、東陽町、南砂、有楽町線が、豊洲、新木場に。
隅田川から豊洲運河、汐見運河、東雲運河、あけぼの運河、砂町運河と荒川(この先江戸川区)。有明・東雲・辰巳・夢の島・若洲に続く。
道路も首都高速9号線、東京湾岸道路と辰巳で合流する。江東区を知らずして東京を語れなくなっていると思う。

  

「波除碑」平久橋袂にある、洲崎神社にあるのと同じ「波除碑」。
「津波警告の碑」は寛政3年(1791年)の高潮での被害を教訓に、幕府が寛政6年強制移転させ空き地となった地の両端に設置した石碑。
横には戦災殉難者供養塔。
  

藤倉電線の「フジクラ 木場千年の森」へ。
ここは、東京湾の海。その後埋め立てられて1923年に電線ケーブルを造る深川工場が完成。
その後工場は約70年間操業し、1992年に富津へ移転。その跡地の再開発が始まり、10年を掛けて2010年に「深川ギャザリア」は完成。
1万数千人が働くオフィス街ができた。その年の11月に自然の少ないこの地域にビオガーデンフジクラ 木場千年の森が完成。
創設のきっかけは、地域の住民の「緑化」への強いご要望で出来た。入園無料

  

次回は木場ゲートブリッジへ。



門前町と深川めし

2012-03-08 | syu散歩
深川・木場と云えば、堀と木材と辰巳芸者、江戸三名所の盛り場であった。今でも下町情緒の多く残っている街である。
「辰巳芸者」は、気風がよくて情に厚く、芸は売っても色は売らない心意気が自慢という。

「深川七福神」は、富岡八幡宮(恵比寿神)・弁天堂(弁財天)・心行寺(福禄寿)・円珠寺(大黒天)・龍光院(毘沙門)
深川稲荷(布袋尊)・神明宮(寿老人)。

「長専寺」は、浄土宗、法然上人を宗祖とする鎌倉時代に開かれた浄土信仰、日本仏教を「他力」と「自力」二分する思想を構築した。

長専寺入口
  

江戸資料館前に「佃煮魚保」の深川あさり専門店が。昔よく食べた深川めしは、アサリのすまし汁を米飯に掛けたものである。
気の短い江戸っ子の漁師が手軽に食べるために考案されたと聞く。深川が代表格で、「深川めし」と呼ばれている。
近年はアサリの味噌汁を掛けたものも深川めしと呼ぶらしい。


  

滝沢馬琴 1767-1848 読本作家、旗本用人5男、24歳で山東京伝入門し時代物発表、作家の収入では生活できず様々な副業をして
履物屋未亡人の入り婿に、副業から抜け出せたのは40代、「里見八犬伝」は74才で失明し息子の嫁が代筆した。


  

「深川寺町」1658年の「明暦の大火」で焼失した浄土宗霊巌寺が、隅田川を隔てた深川の地に移転された。同じ年日連宗浄心寺が創設され、
1832年浄土宗雲光院がやはり焼失のため移転されてくると、次々に多くの寺院が深川に建立されるようになり閑寂な寺町を形成した。
霊巌寺塔頭成等院には、豪商紀伊国文左衛門の墓がある。

深川寺町 日蓮宗の寺が多い街
  

「円珠院」深川七福神大黒天は、旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立しのち、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、1730年に此の寺に葬られ、
1720年に画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造の破顔大黒天が安置されている。江戸時代から、
深川の大黒天として有名。

「円珠院」深川七福神大黒天
  

「浄心寺」日蓮宗寺院は、法苑山。日義上人が深川に草庵を営んでいたところ。
四代将軍川家綱の乳母三沢局の帰依を得、三沢局の遺命により新寺を建立しようとしたものの、日義上人も亡くなってしまい、日義上人に
託された日通上人が浄心寺を創建、日義上人を開山としたという。
川家綱から寺領100石の御朱印状を拝領、1753年、身延山の祖師像・七両天女像の出開帳が浄心寺でおこなわれ、その後も数度あり、
身延山の弘通所と呼ばれた他、将軍家より十万石の格式を許された、江戸十祖師の随一といわれた名刹。

浄心寺
    


「法乗院ゑんま堂」は、1629年に創建され、開山は覚誉憎正、本山は十一面観音で有名な大和長谷寺。
弘法大師四国八十八ヶ所霊場の写し霊場として、江戸時代中期の宝永年間(1751-64)に江戸に設けられた御府内八十八ヶ所の第74番目札所であり、
江戸三えんま「深川ゑんま堂」として古くから人々に親しまれてきた。
江戸の時代には、正面に通じる道にゑんま堂橋が架けられ、現在の清澄通りがなかった当時は、深川の中心道だったと伝えられている。
  

長光山・陽岳寺」の伏見義民について
天明の大飢饉1783年頃、山城国伏見奉行小堀政方は幾多の悪政を重ね、このため伏見住民は塗炭の苦しみにあえいだ。
文珠九助、丸屋九兵衛、麹伝兵衛らは幕府に直訴を企てひそかに江戸に入ったが、伝兵衛は小堀が放った捕吏に殺され、
ようやく逃れた九助と九兵衛は直訴に成功して小堀は罷免されたが、両名は1788年獄死した。
三名の遺体はそれぞれ陽岳寺に引き取られ、厚く葬られたが、これはかれら三名が江戸にあって直訴をうかがっている間、
当寺に庇護され、援助を受けたからであると云われている。

  

次回は富岡八幡宮方面へ。



清澄庭園と本所霊厳寺

2012-03-07 | syu散歩
深川の名は、江戸時代摂津の開拓者深川八郎右衛門が、深川北西部(亀住、冬木、和倉・・)開拓し、幕府の舟の出入りする隅田川、運河など整備した。

清澄公園、庭園は、三代に渡っている。
*「紀伊国屋文左衛門」1669-1734 勘定奉行萩原重秀・御用人柳沢吉保に取り入り幕府御用達の材木商、江戸大火で巨万の財、
晩年は財産を使い果たしたという。

*「下総関宿藩主久世氏」関宿藩は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城。 第9代藩主・久世広業の時代に明治維新を迎えた。
1869年の版籍奉還で広業は藩知事となり、1871年の廃藩置県によって関宿藩は廃藩となる。野田の所領は印旛県に併合された。

*「岩崎弥太郎」1834-85 土佐の開国論者吉田東洋を知り、後藤象二郎と交流土佐商会に勤め、九十九商会を興し、三菱商会設立、海運業で郵便、
為替、保険業と広げた。 
 
  

庭園は中島を持つ広い池が中心にあり、ツツジとサツキの植えられた「つつじ山」や池の端を歩けるように石を配置した「磯渡り」などがある。
また、園内には岩崎家が全国から集めたという名石が無数に置かれている。また池には人に慣れた多数のカメがいる。入園料65歳以上¥70

    

「清澄本誓寺」は、浄土宗寺院の本誓寺は当智山重願院、小田原本誓寺六世の文賀が、幕府より1595年八重洲河岸に寺地を拝顔して創建、
太田康資(太田道灌の四代の孫)娘英勝院が開基となったという。
1606年馬喰町上町へ、1682年に現・深川大工町に移転、1699年には徳川綱吉から寺領30石の御朱印状を拝領、江戸時代の浄土宗触頭の一つであったという。
1873年には江戸崎大念寺より檀林号が移り、昭和元年まで檀林格であった。

村田春海  1746年 -1811年は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人。本姓は平氏。
通称は平四郎。字は士観。号は織錦斎・琴後翁。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王のひとりと云われていた。


    

「深川江戸資料館」
館内は、八百屋や米屋、船宿など、備品を含めて下町を忠実に再現されていて興味深い、どの建物も中に入ることが出来て備品を手に取る事も出来る。
船宿の前には川が作られ舟が置いてあったり、火の見櫓が建ててあったりと、立体的に見させる工夫もある。
また猫の鳴き声以外にもあさり売りの声がしていたりして、江戸時代の深川の雰囲気を出している。

    

「本所霊厳寺」山号道本山、浄土宗、阿弥陀如来。
1624年、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋・芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、
関東十八檀林の一つ。
1657年、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。
1658年に徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。

寺には、松平定信の墓、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。
境内には江戸六地蔵の第五番が安置され、幕末江戸の7大火葬場のひとつ、境内除地に火屋があり火葬執行の責任者が置かれた。  
    

徳川家斉 1773-1841 15歳で11代将軍に、田沼意次を排し松平定信を老中首座に据え「寛政の改革」を指導する。
幕府の財政悪化。田沼の怨霊に祟られ頭痛に悩まされる。

高さ2.3mの銅製地蔵                      霊厳寺本堂
  
 
  

次回も本所寺巡り。

下町深川を歩く

2012-03-05 | syu散歩
東京の新名所、ゲートブリッジ完成のニュースを聞き、今回は深川木場から廻ることにした。

地下鉄東西線「門前仲町」下車。江戸の名残をとどめている繁華街「門中」「永代寺仲町」久し振りに歩く。 

永代橋と云うと「忠臣蔵」で有名な四十七士が吉良上野介の首を槍の柄にくくりつけて、本所から泉岳寺に行くには隅田川の両国橋から
江戸市中に入るのが一般的だが、そうすると武家屋敷街を通ることなり、十五日は大名・旗本の登城日、不測の事態の起こるのを懸念した内蔵助は、
両国橋を渡らず、そのまま隅田川を南下して町人の街を行き、清澄通り、そして永代橋で隅田川を渡って市中に入り、霊岸島から鉄砲洲に出て、
汐留橋、金杉橋を通り泉岳寺へと入る。

      


清澄通り高速の下にあったのが富岡橋跡。親柱が残っているが、江戸時代は黒亀橋より西に架かっていて、俗に閻魔堂橋と呼ばれていた。
今の富岡橋と言っても埋め立てられて跡形ないが、その左手先にスーパー赤札堂が見え、その赤札堂があったところが「裾継跡」。
その南、門前仲町の交差点までが「櫓下」跡。今立っている高速下の富岡橋の渡った右手が「網打場」跡になる。

                      旧富岡橋跡 上に首都高速
  

江戸当時は神社仏閣と遊廓は隣り合わせのセットで参拝され、お互い持ちつ持たれつの関係にあった。
この八幡宮も江戸中期にはさびれていたのを、境内の中に茶店を置き、遊行させて人を集めたとも言われている。

仙台堀                    遊歩道 
   

仙台藩邸の蔵屋敷に米などの特産物を運び入れたことに由来。
「仙台堀」とも呼ばれている。以前は砂町運河(小名木川~横十間川間)、十間川(横十間川~大横川間)、
仙台堀川(大横川~隅田川間)と分けられている。
「仙台堀川親水公園」小名木川と接する桜井橋から区道大門通石住橋付近までの3.6kmの区間。愛称「区民の森」
川橋付近より、桜の季節になると見物客で賑わう。 

元禄二年「奥の細道」の旅はこの採茶庵から出立と記載されている。
深川芭蕉庵跡の有名な句、「古池や かはづ飛び込む 水の音」は、深川芭蕉庵1685年の春に詠まれている。
清澄庭園内にある「古池の句」碑は昭和9年に其角堂9代目の晋永湖という神田生まれの俳人が建てたもの、
芭蕉庵改修の際、その敷地が狭いのでこの地に移したと言われている。

    


「都立清澄庭園・公園」
元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられ、享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となり、
ある程度の庭園が築かれたと推定されている。
1878年、荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園の造成に着手。
1880年に竣工し、深川親睦園と命名された。三菱社長の座を継いだ岩崎弥之助は庭園の泉水に隅田川の水を引き込むなど大きく手を加え、
1891年に回遊式築山林泉庭園としての完成。1889年には庭園の西側にジョサイア・コンドル設計による洋館が建てられている。

 
  


その後、1923年に発生した関東大震災で庭園は大きな被害を受けて邸宅も焼失したが、図らずも近隣住民の避難場所となり多くの人命が救われた。
それを受けて1924年、三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。
東京市は大正記念館の移築や深川図書館の新館舎建設など整備を進め、1932年に清澄庭園として開園。
1973年に東京都は残る西半分の敷地を購入し、整備を開始し、1977年・昭和52年に開放公園「清澄公園」として追加開園。

清澄公園
  

「清川橋」交差点、橋のすぐ東側で仙台堀川から大島川西支川が分かれて南流する、橋の西側は清澄排水機場となる。仙台堀川の終点。
                            清川橋交差点
   

小津安二郎の生誕地
 

下田歴史散策おわり

2012-03-02 | 気まま旅

「下岡蓮杖」寝姿山ロープウエイ公園内に記念館がある。
横浜開港の談判のために来日したタウンゼント・ハリスの通訳であるヘンリー・ヒュースケンから写真撮影の形式を学んだ.
その後、アメリカの写真家ウンシンと交わり、ウンシンの写真機と蓮杖の絵とを交換し、以来、努力と財産の全てを傾けて写真術の研究。
1862年、40歳で横浜の弁天通に写真館を開業、江戸では前年に鵜飼玉川が写真館を開設。
当初は日本人は写真を撮影すると寿命が縮まるとこれを嫌い、客はいずれも外国人であったが、迷信は次第に消え店は繁盛た。

蓮杖は勤王の志が強く、箱館戦争、台湾出兵などの絵画を描き、作品は遊就館に納められた。
日本における石版印刷業、牛乳搾取業、乗合馬車営業の開祖であるとされる。
1882年、浅草公園第五区に写真館を移したが、その後写真業を廃しキリスト教に入信、信仰生活に入り画筆を楽しみつつ余生を送った。

下田城山公園にある下岡蓮杖の石像
    

幕末期にアメリカの総領事館として使用した寺「玉泉寺」
    

玉泉寺の見取り図


1856年、日米和親条約に基づいて、下田の玉泉寺に我が国最初の領事館が開かれ、総領事としてハリスが着任。
玉泉寺の庭には、星の数が31個の星条旗が掲げられ、ハリス以下10人の人達が生活する。

翌年ハリスは、やっと江戸にいる将軍家定に会うことを許され、大統領からの親書を渡し、貿易を行うための交渉に入るが、朝廷の承認が得られず
調印は延期を重ねている時、イギリス、フランス、両国の軍艦が日本に迫っているとの情報が入り、急遽ポーハタン号の艦上で日米修好条約が調印され、
これによってアメリカとの間で本格的な貿易が始まることになった。

初代総領事として日米条約締結に尽力したタウンゼント・ハリスは、玉泉寺の領事館で3年近くを過ごした。長い鎖国のあとで、下田の人々ともつき合いがない
孤独な日々であった。

庭園にあるロシア水兵の碑 
    

本殿
  

ハリス記念館
    
 


今回で幕末の舞台下田の歴史散策は終了します。記事は資料から引用しました。