「深川公園」は、1873年 太政官布達によって定められた日本最初の公園の一つ。
公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていた。
西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘があり1879年には梅、桜を植え花園公園。
1907年に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、1909年に深川図書館が建てられ、1923年の関東大震災で焼失。
震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、大戦中に池は埋められ運動場になる。
下の漆喰画は、1815年伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし1889年深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、
伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作された。
「石造燈明台」有形文化財、明治31年日清戦争勝利を記念し不動堂信者が寄付し名を記し中に市川団十郎の名もあると聞く。

石造燈明台
「成田深川不動尊」は、1703年に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、明治14年不動堂が完成。
境内には「名優五代目尾上菊五郎の碑」「力石」などがある。
この辺りは、富岡八幡、永代寺、深川不動の門前町として江戸情緒を色濃く残す深川の中心街で、納め不動12/28や毎月28日の縁日では
参詣者で賑わい、多くの露店が並ぶなど盛況を呈している。
下町で親しまれているお不動尊 本殿

「富岡八幡宮」1630年 長盛法師が弘法大師作「八幡大菩薩」像を奉ったのが起こりと云われている。
通称「深川八幡」で例祭「深川祭り」は江戸の三大祭りの一つ。
横綱力士像は、1900年建立され、初代横綱明石志賀之介から歴代の名が刻まれている。

「紀伊国屋文左衛門と八幡宮」
全財産をつぎこんだ十文銭の鋳造事業の失敗により、以降は乞食同然の生活となり哀れな晩年を送ったと言われている。
異説も存在し、綱吉逝去の翌年1710年に紀伊国屋材木店を閉店した後、1717年に深川富岡八幡宮に総金張りの神輿三基を奉納したり
大火で消失した富岡八幡宮社殿建立費用に全財産を寄進したりといわれ、潤沢な資産を持っていたともいう。
伊能忠敬 1745-1818 日本地図を作った商家の隠居56歳で蝦夷地測量の旅に出た。
一歩65㎝の歩測、尾道で過労3か月の足止めされただけであった。ここ八幡宮からスタートしている。
「大祭」江戸三大祭りの一つと云われる例大祭本祭り(3年に一度)最大 の山場 「神輿連合渡御」 、 別名「水かけ祭り」 と云われ、
神輿や担ぎ手 に向かって 神輿の通る沿道からバケツやホースで 水をかけ、 それがまた一段と祭りを盛り上げている。
総金張りの神輿 伊能忠敬

富岡町から塩浜町へ、子供の頃田圃で泳いだ記憶がある所、今は、高層ビルと運河に変貌していた。
JR京葉線の越中島・汐見・新木場が通り、越中島貨物線が亀戸に、東西線が木場、東陽町、南砂、有楽町線が、豊洲、新木場に。
隅田川から豊洲運河、汐見運河、東雲運河、あけぼの運河、砂町運河と荒川(この先江戸川区)。有明・東雲・辰巳・夢の島・若洲に続く。
道路も首都高速9号線、東京湾岸道路と辰巳で合流する。江東区を知らずして東京を語れなくなっていると思う。

「波除碑」平久橋袂にある、洲崎神社にあるのと同じ「波除碑」。
「津波警告の碑」は寛政3年(1791年)の高潮での被害を教訓に、幕府が寛政6年強制移転させ空き地となった地の両端に設置した石碑。
横には戦災殉難者供養塔。

藤倉電線の「フジクラ 木場千年の森」へ。
ここは、東京湾の海。その後埋め立てられて1923年に電線ケーブルを造る深川工場が完成。
その後工場は約70年間操業し、1992年に富津へ移転。その跡地の再開発が始まり、10年を掛けて2010年に「深川ギャザリア」は完成。
1万数千人が働くオフィス街ができた。その年の11月に自然の少ないこの地域にビオガーデンフジクラ 木場千年の森が完成。
創設のきっかけは、地域の住民の「緑化」への強いご要望で出来た。入園無料

次回は木場ゲートブリッジへ。
公園は元来、富岡八幡宮の境内で遊行の地として大変賑わい、東、西、南側の三面は小堀となり、それぞれに橋がかかっていた。
西側には、油堀川より水を引き入れた汐入の池があり、東側には、小高い丘があり1879年には梅、桜を植え花園公園。
1907年に、上野で開かれた東京勧業博覧会の建物を移築して、1909年に深川図書館が建てられ、1923年の関東大震災で焼失。
震災復興事業では、池を残して庭球場や広場になり、大戦中に池は埋められ運動場になる。
下の漆喰画は、1815年伊豆松崎に生まれ、深川で暮らし1889年深川で没した漆喰細工の名工、左官入江長八(伊豆の長八)にちなみ、
伊豆松崎町の漆喰画の名工、左官山本堪一氏の手により、明治末期の深川公園の様子を、深川公園改良工事を記念して製作された。
「石造燈明台」有形文化財、明治31年日清戦争勝利を記念し不動堂信者が寄付し名を記し中に市川団十郎の名もあると聞く。



石造燈明台
「成田深川不動尊」は、1703年に始まった成田新勝寺の出開帳が深川不動の起こりで、明治14年不動堂が完成。
境内には「名優五代目尾上菊五郎の碑」「力石」などがある。
この辺りは、富岡八幡、永代寺、深川不動の門前町として江戸情緒を色濃く残す深川の中心街で、納め不動12/28や毎月28日の縁日では
参詣者で賑わい、多くの露店が並ぶなど盛況を呈している。
下町で親しまれているお不動尊 本殿


「富岡八幡宮」1630年 長盛法師が弘法大師作「八幡大菩薩」像を奉ったのが起こりと云われている。
通称「深川八幡」で例祭「深川祭り」は江戸の三大祭りの一つ。
横綱力士像は、1900年建立され、初代横綱明石志賀之介から歴代の名が刻まれている。


「紀伊国屋文左衛門と八幡宮」
全財産をつぎこんだ十文銭の鋳造事業の失敗により、以降は乞食同然の生活となり哀れな晩年を送ったと言われている。
異説も存在し、綱吉逝去の翌年1710年に紀伊国屋材木店を閉店した後、1717年に深川富岡八幡宮に総金張りの神輿三基を奉納したり
大火で消失した富岡八幡宮社殿建立費用に全財産を寄進したりといわれ、潤沢な資産を持っていたともいう。
伊能忠敬 1745-1818 日本地図を作った商家の隠居56歳で蝦夷地測量の旅に出た。
一歩65㎝の歩測、尾道で過労3か月の足止めされただけであった。ここ八幡宮からスタートしている。
「大祭」江戸三大祭りの一つと云われる例大祭本祭り(3年に一度)最大 の山場 「神輿連合渡御」 、 別名「水かけ祭り」 と云われ、
神輿や担ぎ手 に向かって 神輿の通る沿道からバケツやホースで 水をかけ、 それがまた一段と祭りを盛り上げている。
総金張りの神輿 伊能忠敬



富岡町から塩浜町へ、子供の頃田圃で泳いだ記憶がある所、今は、高層ビルと運河に変貌していた。
JR京葉線の越中島・汐見・新木場が通り、越中島貨物線が亀戸に、東西線が木場、東陽町、南砂、有楽町線が、豊洲、新木場に。
隅田川から豊洲運河、汐見運河、東雲運河、あけぼの運河、砂町運河と荒川(この先江戸川区)。有明・東雲・辰巳・夢の島・若洲に続く。
道路も首都高速9号線、東京湾岸道路と辰巳で合流する。江東区を知らずして東京を語れなくなっていると思う。


「波除碑」平久橋袂にある、洲崎神社にあるのと同じ「波除碑」。
「津波警告の碑」は寛政3年(1791年)の高潮での被害を教訓に、幕府が寛政6年強制移転させ空き地となった地の両端に設置した石碑。
横には戦災殉難者供養塔。


藤倉電線の「フジクラ 木場千年の森」へ。
ここは、東京湾の海。その後埋め立てられて1923年に電線ケーブルを造る深川工場が完成。
その後工場は約70年間操業し、1992年に富津へ移転。その跡地の再開発が始まり、10年を掛けて2010年に「深川ギャザリア」は完成。
1万数千人が働くオフィス街ができた。その年の11月に自然の少ないこの地域にビオガーデンフジクラ 木場千年の森が完成。
創設のきっかけは、地域の住民の「緑化」への強いご要望で出来た。入園無料


次回は木場ゲートブリッジへ。