下町亀戸は、二度目。亀戸天神お参りと、亀戸名物「船橋屋の葛餅」を食べたくなり、JR亀戸駅を下車した、この駅は昔と変わっていない。
JR東日本の2010年度1日平均乗車人員は55,613人で、JR東日本で81位の駅。東武鉄道の2010年度1日平均乗降人員は27,031人である。
隣駅の錦糸町駅とともに、昭和40年代までは都電の、都電廃止後は路線バスが発着する東部地区のターミナルを形成している。
駅利用者には地元利用者の他、バスや東武亀戸線に乗り換えて江東区砂町地区、墨田区向島地区、江戸川区中部地区へと向かう乗客も多い。
向島地区は、半蔵門線押上延伸によって人の流れが変っている。
「亀戸七福神」の看板、江戸時代七福神をすべて詣ですると天変地異、火災、盗難など七つの災害を取り除き、七つの福が授かるとして盛んに行われていた。
まず「香取神社」を参拝する。
近代的駅ビルJR亀戸駅 十三間通り商店街 亀戸七福神の看板
亀戸駅を明治通りに向かう十三間通りから天神通り商店街、大門通りに、十三間通りと云えば道幅23M,13間であったが今はない、大門通り
歩行者天国になる下町人情の商店街で知られ買い物客と参拝客で賑わい、月一回大門市が開かれている。
この亀戸で、私の両親が命拾いをしたと、子供達我々によく聞かされていた。亀戸天神お参りし駅に向かう時、空襲警報で慌てて、駅近くのガード下に逃げ込んだ、
間もなくアメリカ爆撃機が低空で押し寄せてきた、大半は町側に逃げたが、両親は咄嗟に逆の方向に逃げたという。
線路を挟んで、町側に爆弾が落ち大量に死者が出た。逆に逃げた両親は、運良く無傷で助かったという。
香取神社参道 大鳥居 狛犬
香取神社の創設は665年、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰胃だという。
天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が、参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、
勝矢と命名したと言い伝えられている。
現在でもこの古事により勝矢祭が5月5日に行われている。地元民の崇敬が篤く郷土の守護神と、ご神徳が四方に及び、葛飾神社香取太神宮と親しまれてきた。
昔の葛飾は下総国の大半を意味した。元禄10年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡12社の中にも数えられている神社である。
神社内の末神社 拝殿
「普門院」は、真言宗智山派の寺院。山号は福聚山という。亀戸七福神のうち毘沙門天を祭っている。
歴史は、1522年に武蔵国豊島郡石浜(現在の荒川区)に創建されたと伝えられ、元和年間(1615年~1624年)に現在の土地に移った古寺。
墓所に、「伊藤左千夫」。
普門院 毘沙門天像
佐藤左千夫は、小説家だけでなく俳人でもあった。正岡子規を師とし、短歌の世界に生き甲斐を見出した時は37歳、それから50歳で没する13年間に「馬酔木」を
経て「アララギ」を創始し、門下からは島木赤彦、斉藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などの大歌人が出ている。
短歌と小説、随筆、写生文などの才能を発揮し、代表作「野菊の墓」がある。
本殿 佐藤左千代の墓 戦没供養碑
亀戸から見た「東京スカイツリー」
都墨田区に所在する東武伊勢崎線・東京地下鉄半蔵門線・京成押上線・都営地下鉄浅草線の押上駅(2012年5月22日より「押上(スカイツリー前)と
東武伊勢崎線のとうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)の間に挟まれる、東武鉄道の所有地でもある貨物駅(のちの業平橋駅)跡地に建設された。
当地区は航空法上、東京国際空港(羽田空港)の制限表面の外側水平表面が被さる地域であるため空港標点の海抜295mまでの建造物しか建てられなかったが
2005年に高さ規制区域が見直されて建設可能となった。
2008年7月に着工され、3年半の期間をかけて2012年2月に竣工し、開業した。
亀戸天神境内から見た「東京スカイツリー」
「亀戸天神社」は、正保年間 1644年 - 1647年、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の
志をもち、諸国を巡った。そして1661年、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
当時の江戸は、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう
現在の地を寄進した。1662年、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営されたという。
古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」とされていたが、
1873年に府社となり亀戸神社、1936年に現在の亀戸天神社となった。
東門から 朝の境内
本堂前 拝殿
戦後と云うと「長谷川伸」という小説家、劇作家が浮かぶ。
長谷川伸は、3歳で、母と生き別れ、一家離散し、不良仲間に入っていた。
将来に希望が持てず、悩みに悩んだ末、努力する人生を歩まなくてはいけないと自分に「自分の意志で誘惑を断ち、その行為こそ大事である」
と言い聞かせ、
自分の生い立ちを材料にして「瞼の母」「一本刀土俵入り」「日本捕虜志」が書たという。
それに、忘れられない映画が、「鐘の鳴る丘」がある。
緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン メイメイ子山羊が泣いてます。
菅原道真公像 花の境内
昭和22年政府は配給切符を配りだした。
私達の母は、翌年過労で47歳の若さで亡くなった。私は、その時小学3年生であった,旗本出の負けず嫌いの厳しい母であったが、人生で最大の悲しさであった。
東京大空襲時多数の人が逃げ込んだ境内 太鼓橋
次回の、戦争シリーズ その5で終了します。
JR東日本の2010年度1日平均乗車人員は55,613人で、JR東日本で81位の駅。東武鉄道の2010年度1日平均乗降人員は27,031人である。
隣駅の錦糸町駅とともに、昭和40年代までは都電の、都電廃止後は路線バスが発着する東部地区のターミナルを形成している。
駅利用者には地元利用者の他、バスや東武亀戸線に乗り換えて江東区砂町地区、墨田区向島地区、江戸川区中部地区へと向かう乗客も多い。
向島地区は、半蔵門線押上延伸によって人の流れが変っている。
「亀戸七福神」の看板、江戸時代七福神をすべて詣ですると天変地異、火災、盗難など七つの災害を取り除き、七つの福が授かるとして盛んに行われていた。
まず「香取神社」を参拝する。
近代的駅ビルJR亀戸駅 十三間通り商店街 亀戸七福神の看板
亀戸駅を明治通りに向かう十三間通りから天神通り商店街、大門通りに、十三間通りと云えば道幅23M,13間であったが今はない、大門通り
歩行者天国になる下町人情の商店街で知られ買い物客と参拝客で賑わい、月一回大門市が開かれている。
この亀戸で、私の両親が命拾いをしたと、子供達我々によく聞かされていた。亀戸天神お参りし駅に向かう時、空襲警報で慌てて、駅近くのガード下に逃げ込んだ、
間もなくアメリカ爆撃機が低空で押し寄せてきた、大半は町側に逃げたが、両親は咄嗟に逆の方向に逃げたという。
線路を挟んで、町側に爆弾が落ち大量に死者が出た。逆に逃げた両親は、運良く無傷で助かったという。
香取神社参道 大鳥居 狛犬
香取神社の創設は665年、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰胃だという。
天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が、参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、
勝矢と命名したと言い伝えられている。
現在でもこの古事により勝矢祭が5月5日に行われている。地元民の崇敬が篤く郷土の守護神と、ご神徳が四方に及び、葛飾神社香取太神宮と親しまれてきた。
昔の葛飾は下総国の大半を意味した。元禄10年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡12社の中にも数えられている神社である。
神社内の末神社 拝殿
「普門院」は、真言宗智山派の寺院。山号は福聚山という。亀戸七福神のうち毘沙門天を祭っている。
歴史は、1522年に武蔵国豊島郡石浜(現在の荒川区)に創建されたと伝えられ、元和年間(1615年~1624年)に現在の土地に移った古寺。
墓所に、「伊藤左千夫」。
普門院 毘沙門天像
佐藤左千夫は、小説家だけでなく俳人でもあった。正岡子規を師とし、短歌の世界に生き甲斐を見出した時は37歳、それから50歳で没する13年間に「馬酔木」を
経て「アララギ」を創始し、門下からは島木赤彦、斉藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などの大歌人が出ている。
短歌と小説、随筆、写生文などの才能を発揮し、代表作「野菊の墓」がある。
本殿 佐藤左千代の墓 戦没供養碑
亀戸から見た「東京スカイツリー」
都墨田区に所在する東武伊勢崎線・東京地下鉄半蔵門線・京成押上線・都営地下鉄浅草線の押上駅(2012年5月22日より「押上(スカイツリー前)と
東武伊勢崎線のとうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)の間に挟まれる、東武鉄道の所有地でもある貨物駅(のちの業平橋駅)跡地に建設された。
当地区は航空法上、東京国際空港(羽田空港)の制限表面の外側水平表面が被さる地域であるため空港標点の海抜295mまでの建造物しか建てられなかったが
2005年に高さ規制区域が見直されて建設可能となった。
2008年7月に着工され、3年半の期間をかけて2012年2月に竣工し、開業した。
亀戸天神境内から見た「東京スカイツリー」
「亀戸天神社」は、正保年間 1644年 - 1647年、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の
志をもち、諸国を巡った。そして1661年、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
当時の江戸は、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう
現在の地を寄進した。1662年、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営されたという。
古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」とされていたが、
1873年に府社となり亀戸神社、1936年に現在の亀戸天神社となった。
東門から 朝の境内
本堂前 拝殿
戦後と云うと「長谷川伸」という小説家、劇作家が浮かぶ。
長谷川伸は、3歳で、母と生き別れ、一家離散し、不良仲間に入っていた。
将来に希望が持てず、悩みに悩んだ末、努力する人生を歩まなくてはいけないと自分に「自分の意志で誘惑を断ち、その行為こそ大事である」
と言い聞かせ、
自分の生い立ちを材料にして「瞼の母」「一本刀土俵入り」「日本捕虜志」が書たという。
それに、忘れられない映画が、「鐘の鳴る丘」がある。
緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン メイメイ子山羊が泣いてます。
菅原道真公像 花の境内
昭和22年政府は配給切符を配りだした。
私達の母は、翌年過労で47歳の若さで亡くなった。私は、その時小学3年生であった,旗本出の負けず嫌いの厳しい母であったが、人生で最大の悲しさであった。
東京大空襲時多数の人が逃げ込んだ境内 太鼓橋
次回の、戦争シリーズ その5で終了します。