syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

戦争シリーズ その4

2012-07-18 | 諸々日記
下町亀戸は、二度目。亀戸天神お参りと、亀戸名物「船橋屋の葛餅」を食べたくなり、JR亀戸駅を下車した、この駅は昔と変わっていない。
JR東日本の2010年度1日平均乗車人員は55,613人で、JR東日本で81位の駅。東武鉄道の2010年度1日平均乗降人員は27,031人である。
隣駅の錦糸町駅とともに、昭和40年代までは都電の、都電廃止後は路線バスが発着する東部地区のターミナルを形成している。

駅利用者には地元利用者の他、バスや東武亀戸線に乗り換えて江東区砂町地区、墨田区向島地区、江戸川区中部地区へと向かう乗客も多い。
向島地区は、半蔵門線押上延伸によって人の流れが変っている。
「亀戸七福神」の看板、江戸時代七福神をすべて詣ですると天変地異、火災、盗難など七つの災害を取り除き、七つの福が授かるとして盛んに行われていた。
まず「香取神社」を参拝する。


近代的駅ビルJR亀戸駅       十三間通り商店街            亀戸七福神の看板


亀戸駅を明治通りに向かう十三間通りから天神通り商店街、大門通りに、十三間通りと云えば道幅23M,13間であったが今はない、大門通り
歩行者天国になる下町人情の商店街で知られ買い物客と参拝客で賑わい、月一回大門市が開かれている。

この亀戸で、私の両親が命拾いをしたと、子供達我々によく聞かされていた。亀戸天神お参りし駅に向かう時、空襲警報で慌てて、駅近くのガード下に逃げ込んだ、
間もなくアメリカ爆撃機が低空で押し寄せてきた、大半は町側に逃げたが、両親は咄嗟に逆の方向に逃げたという。
線路を挟んで、町側に爆弾が落ち大量に死者が出た。逆に逃げた両親は、運良く無傷で助かったという。



香取神社参道            大鳥居             狛犬


香取神社の創設は665年、藤原鎌足公が東国下向の際、この亀の島に船を寄せられ、香取大神を勧請され太刀一振を納め、旅の安泰を祈り神徳を仰胃だという。
天慶の昔平将門が乱を起した時、追討使俵藤太秀郷が、参籠し戦勝を祈願して戦いに臨んだところ、目出度く乱を平らげたので神恩感謝の奉賽として弓矢を奉納、
勝矢と命名したと言い伝えられている。

現在でもこの古事により勝矢祭が5月5日に行われている。地元民の崇敬が篤く郷土の守護神と、ご神徳が四方に及び、葛飾神社香取太神宮と親しまれてきた。
昔の葛飾は下総国の大半を意味した。元禄10年検地の節は改めて社寺の下附があり、徳川家の社寺帳にも載せられ古都古跡12社の中にも数えられている神社である。

神社内の末神社                         拝殿


「普門院」は、真言宗智山派の寺院。山号は福聚山という。亀戸七福神のうち毘沙門天を祭っている。
歴史は、1522年に武蔵国豊島郡石浜(現在の荒川区)に創建されたと伝えられ、元和年間(1615年~1624年)に現在の土地に移った古寺。
墓所に、「伊藤左千夫」。


普門院                        毘沙門天像



佐藤左千夫は、小説家だけでなく俳人でもあった。正岡子規を師とし、短歌の世界に生き甲斐を見出した時は37歳、それから50歳で没する13年間に「馬酔木」を
経て「アララギ」を創始し、門下からは島木赤彦、斉藤茂吉、古泉千樫、中村憲吉、土屋文明などの大歌人が出ている。
短歌と小説、随筆、写生文などの才能を発揮し、代表作「野菊の墓」がある。


本殿                    佐藤左千代の墓              戦没供養碑


亀戸から見た「東京スカイツリー」
都墨田区に所在する東武伊勢崎線・東京地下鉄半蔵門線・京成押上線・都営地下鉄浅草線の押上駅(2012年5月22日より「押上(スカイツリー前)と
東武伊勢崎線のとうきょうスカイツリー駅(旧業平橋駅)の間に挟まれる、東武鉄道の所有地でもある貨物駅(のちの業平橋駅)跡地に建設された。
当地区は航空法上、東京国際空港(羽田空港)の制限表面の外側水平表面が被さる地域であるため空港標点の海抜295mまでの建造物しか建てられなかったが
2005年に高さ規制区域が見直されて建設可能となった。
2008年7月に着工され、3年半の期間をかけて2012年2月に竣工し、開業した。


亀戸天神境内から見た「東京スカイツリー」


「亀戸天神社」は、正保年間 1644年 - 1647年、菅原道真の末裔であった九州の太宰府天満宮の神官、菅原大鳥居信祐は、天神信仰を広めるため社殿建立の
志をもち、諸国を巡った。そして1661年、江戸の本所亀戸村にたどり着き、元々あった天神の小祠に道真ゆかりの飛梅で彫った天神像を奉祀したのが始まりとされる。
当時の江戸は、明暦の大火による被害からの復興を目指す江戸幕府は復興開発事業の地として本所の町をさだめ、四代将軍徳川家綱はその鎮守神として祀るよう
現在の地を寄進した。1662年、地形を初め社殿・楼門・回廊・心字池・太鼓橋などが太宰天満宮に倣い造営されたという。

古くは総本社に当たる太宰府天満宮に対して東の宰府として「東宰府天満宮」、あるいは「亀戸宰府天満宮」「本所宰府天満宮」とされていたが、
1873年に府社となり亀戸神社、1936年に現在の亀戸天神社となった。


東門から               朝の境内



本堂前                             拝殿


戦後と云うと「長谷川伸」という小説家、劇作家が浮かぶ。
長谷川伸は、3歳で、母と生き別れ、一家離散し、不良仲間に入っていた。
将来に希望が持てず、悩みに悩んだ末、努力する人生を歩まなくてはいけないと自分に「自分の意志で誘惑を断ち、その行為こそ大事である」
と言い聞かせ、
自分の生い立ちを材料にして「瞼の母」「一本刀土俵入り」「日本捕虜志」が書たという。 


それに、忘れられない映画が、「鐘の鳴る丘」がある。
緑の丘の赤い屋根 トンガリ帽子の時計台 鐘が鳴りますキンコンカン メイメイ子山羊が泣いてます


菅原道真公像                   花の境内



昭和22年政府は配給切符を配りだした。
私達の母は、翌年過労で47歳の若さで亡くなった。私は、その時小学3年生であった,旗本出の負けず嫌いの厳しい母であったが、人生で最大の悲しさであった。

東京大空襲時多数の人が逃げ込んだ境内              太鼓橋



次回の、戦争シリーズ その5で終了します。

戦争シリーズ その3

2012-07-14 | 諸々日記

両国駅近くに、「都慰霊堂」、がある横網町公園は元陸軍被服廠があった場所。
被服廠は大正8年に赤羽に移転し、その後公園予定地として、1923年(大正12年)関東大震災が起きると、この場所は多くの罹災者の避難場所になった。
多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどであったが、周囲からの火災が家財道具に燃え移り、また火災旋風が起こったため、この地だけで
東京市全体の死亡者の半数以上の3万8000人程度が死亡したとされる。
震災後、死亡者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力のもと、広く浄財を求められた。
東京震災記念事業協会によって1930年に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。
身元不明の遺骨が納骨され、1931年(昭和6年)には震災復興記念館が建てられた。
第二次世界大戦における1944年・1945年の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが死亡した。
1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、「東京都慰霊堂」と改称し現在に。


    都慰霊堂                       公園内に破壊された鉄骨         
  


私の中で、最も混乱した小学校低学年時代であった。小学3年時の母の死、先の見えない不安、殺伐とした社会、餓死状態の東京都市は、体力のある大人たちは、
闇屋となり、進駐軍払下げた物資、闇米、食料、インチキ商品など、高値で売りまくっていた。引揚者は「軍保有米、軍需補償物品など」、
その為インフレが進み貧富の差は、闇屋をやる人とやらない人とで大きく差が広がっていった。若い体力のある者、主に引揚者、地方出の男等が稼ぎまくった。

東京人は、着物を持ち近県の農家に買い出しに出るしかなかった。政府の主食配給はわずかで、2合1勺、1200カロリーで、後は闇に頼りで、それに、
ありつけない家は自殺か餓死である。
私の住んでいた近くの鉄道陸橋には、毎日のように、家族単位で鉄道飛び込み自殺が絶えなかった。今でも思い出す6人家族の飛び込み自殺は
思い出したくない。


                                焼け残った自転車      
  

天皇が国民に戦後初めて演説した「食糧事情」について
「祖国再建の第一歩は、国民生活、食料安定にある。地方農民は努力をしているが、もっと生産と増産と供出に努力して欲しい、都市における食糧事情は
いまだかって例を見ないほど窮迫し、この状況は深く心を痛ましめるものがある。
政府は、直ちに適切な施策を行うべきは言うまでもないが、全国民においても、乏しきを分かち、苦しみを共にするの覚悟を新たにし、同胞お互いに助け合って、
この窮状を切り抜けなければ成らない。

戦争による諸種の痛手の回復しない国民に、これを求めるのは、誠に忍びないところであるが、これを切り抜けなければ、終戦以来全国民の続けていた
一切の経営は虚しくなり、平和な文化国家を再建して、世界の推運に寄与したいと云う我が国民の厳粛かつ神聖な念願の達成もこれを望む事が出来ない。
この際にあたって、国民が家庭国家の麗しい伝統、区区の利害を超えて、現在の難局に打ち勝ち、祖国再建の道を踏み進むことを切に望むし、かつこれを期待する。」
というものだった。1947年昭和22年政府はパンの切符配給制を実施した、東京人は、近県にリックを背負い、家族総出で買い出しに出た。

我が家は、埼玉県草加、越谷が多かった。


疎開先から汽車に乗車する人人                 終戦時の新宿都電通り
  

小学1~2年の私を連れ、40歳の母が自分の大事な着物を風呂敷きに包み、帰りに腐りかけたさつま芋と出来る限り量を多く交渉して、家で待つっている家族の為、
農家を訪ね、交換するのである。
思い出すのが農家の穴の中に保存した、腐りかけたさつま芋が、独特の臭いを発して、母と選り分けて風呂敷に包んだ思い出がある。腐りかけて黒くなった芋は、
口に入ると、それはそれは苦さでたまらなかった。


空爆を受けたビル                     一面焼け焦げた下町
  


山手線駅前は、闇市が、上野、日暮里、新宿、新橋に、引揚兵や地方から続々と人が集まってきていた。
戦時経済は、物の生産、流通いっさいが規制される統制経済。全配給制。その規制をおかせばすべて闇取引、闇市場だった。
雨後のタケノコのように、いたるところで青空の闇市が立ったのです。
物の値段は上がる一方、年末には公定価格(統制価格)の数十倍になったという。
サラリーマンの月給が200円。闇市の相場は、しる粉1杯10円、大根1本4円、軍足(軍用靴下)20円、ワイシャツ80円、米1升(1.5キロ)50円で、
インチキ商売、たかり、泥棒、スリなどが横行、怖い所でもあった。
食糧不足を補うために、手持ちの衣料を米などと物々交換をして飢えをしのいだ「タケノコ生活」であっった。
タケノコの皮をはぐように」して生活していた。闇市には軍の備蓄物資が不正の手段で流出し、高く売りつける者で、20年~23年は、無法地帯になり、
アメリカのMPが警察の替りであった。

焼け跡から出た遺品類や物           御茶ノ水、崩れ落ちている
  


戦争直後あちこちの都市にいた戦災孤児は、靴みがきや金属拾いなどで路上生活をしていたが、保護されたり、犯罪者になったりで姿を消していったが、
彼らはどのような人生を歩んだかは不明。
アメリカ人の養子縁組などで海外に出た者、栄養失調、伝染病等のために一般人より寿命が短い、愚連隊、ヤクザ稼業を歩んでいった者、仕事を持ち、
一般人の社会に溶け込んで云った者、女の子は買売婦に・・・・。社会は抹殺していった。


焼け野原                               復旧作業
  

戦後、食糧難による児童の栄養状態の悪化を背景に、学校給食が実施昭和22年1月から学校給食を再開、昭和21年12月、試験的に、三都県(東京、神奈川、千葉)で
、児童約25万人に対して、学校給食が実施された。
それまでは、弁当持参であったが、貧富の差激しく、クラスの半数は持ってこられず持参生徒の横で食べるのを見ていた時代である。
この給食は、全員同じものを一緒に食べられる喜びは、忘れる事が出来ない。


消火作業現場                        黒焦げになって道路に死体が
  

紙芝居「黄金バットのオジサン」は、大太鼓で町内を回って子供たちを集めた。
紙芝居屋さんにはトーキーで追われた活弁士や不況による失業者なども多く、子供たちからは"紙芝居のおじさん"と呼ばれていた職業。
紙芝居のおじさんは自転車に紙芝居と水飴などの駄菓子を積んで街頭を回り、鳴物や拍子木を打って子供を集め、駄菓子を売り、人数が集まれば紙芝居を始めた。
紙芝居のおじさんは、たいてい話が佳境に入ったところで「続きはまた来週」と話を止め、次回に期待させた。
紙芝居屋が町を回って子どもを集め、駄菓子を売って紙芝居を見せる、という営業形態が成り立つのは、小銭を持って子どもが簡単に集まってくる場所に限られた。

大人たちの闇市                     町内に回ってくる紙芝居と子供達
   


私は小学3年生で、母の死を目前にした時、これだけのショックはないであろう。
母は人前では決して弱音を吐かない勝気な女性であったので、入院した時には重症であった。即入院と云われた時は我が家の大黒柱であっただけに、
家族全員のショックは計り知れない。
医療もこの時代であり、全てが不足して天下の東大といえども、すべての抗生物質(ペニシリン)を手に入れるのは大変であった。
母は、すっかり痩せてしまった。姉はそんな母を見て我々に「美しかった母は、大昔のことのようだ」と云った。
叔父の関係で特別に手に入れた薬などで最善の治療をしたが、そのかいもなく半年で他界した。

昭和22年7月19日、私が小学3年生であった。42歳、あまりにも短い命であった。
死を直前にしたとき、姉にお化粧をしてほしいといい、身ずくろいをし、我々を枕元に呼んで「お父さんをお願いね、家族助け合ってね。」と云い
少しも乱れを見せず静かに息を引き取った。武家の女性の最後の死、明治の強い東京人女性であった。それからの我が家は、絶望と貧乏との戦いであった。


疎開先から続々帰って学校に、教室風景         兄が作る食べ物一日1200カロリー、ヒモジイ毎日
 


マッカーサーの演説(米国会議で)
「人類の運命は、我々が一党一派によらず、より高い国家的見地から下す決定に懸っている。私は、52年に渡る軍務を閉じようとしている。
私が軍に入った時はまだ20世紀にも入らぬ時だったが、私が士官学校の営庭で宣誓を誓って以来世界は幾度となく転換した。
そして私の希望と夢もずっと以前に消えてしまった。しかし私は、なおあの当時もっともよく歌われた民謡の一節を覚えている。
それはまことに誇らしげに「老兵は死なず、徒消えるのみ」と楊言した者であった。この老兵のように私は今軍人としての境涯を閉じて姿を消そう、さようなら。」

町角に立つバラック                焼け野原にバラック長屋が
  

民族の驕りが戦争に。


戦争シリーズ その2

2012-07-13 | 諸々日記

アメリカ軍、東京無差別爆撃、1944年11月、品川方面、渋谷方面、12月杉並、京橋方面、翌年4月本郷方面、中島飛行機武蔵野方面、麹町方面
5月三田方面、などで回数100回以上、中でも大爆撃が、1945年3月10日の人口密度の高い下町爆撃である。
死者推定一夜にして10万人以上が、火災地獄に襲われた。
アメリカ軍「B29」から焼夷弾約2000tを投下した。焼夷弾は、油脂、着火剤の黄燐デルミットで殺傷能力は無いが火災能力に優れ、木造の日本家屋に適し
、見る見るうちに大火災を起こし、10万に以上の死者は火の海で亡くなられた。
全て焼夷弾ではない、ベトナム戦で使用したナバーム弾も混じっており、右に逃げた者、左に逃げた者で、運命が分かれたという。

その8月15日終戦、私は国民学校1年生、夏休みであったが疎開先の学校にいた、小学校で、宿舎の駐留していた兵隊さん達と一緒に校舎で、
天皇陛下の「玉音放送」を聞いた。当時の教育で、まだ一年生だったが、やがては自分も兵隊さんの後を次いで、戦いに行くのだと心に決めていた。
「玉音放送」の内容は理解できずに家へ帰った記憶がある。


アメリカ軍の東京下町無差別爆撃
  

 炎の街、焦土にした焼夷弾
  

日本、ドイツ、イタリアの三国同盟であったが、日本はロシアを加え四国同盟を考えていた。四国であれば状況が変わっていた。

三月亀戸両国などの下町、五月渋谷など山の手「東京大空襲」
    


江東区北砂1丁目ー「東京大空襲・戦災資料センター」とは、東京大空襲の惨状を次世代に語り継ぎ、平和の研究と学習に役立つことを願って、
4000名を超える方々の募金で設立された、民立・民営の資料センター。2002年の3月9日、戦禍のもっとも大きかった江東区北砂の地に開館している。


館内展示場                        子供を守り母親像
  

3月10日の下町大空襲から、その後も東京への空襲は続けられた。4月13日には王子・赤羽地区を中心とした城北地域が、翌15日には大森・蒲田地区を中心とした
城南地域が空襲・機銃掃射を受け死傷者4004人、約22万戸もの家屋が焼失した。さらに5月25日には、それまで空襲を受けていなかった山の手に
470機ものB29が来襲した。

皇居も被災し宮殿が焼失した。これにより死傷者は7415人、被害家屋は約22万戸と3月10日に次ぐ被害となった。
また当時、東京陸軍刑務所に収容されていた62人のアメリカ人捕虜が焼死している(東京陸軍刑務所飛行士焼死事件)。

3月-5月にかけての空襲で東京市街の50%が焼失した。また多摩地区の立川、八王子なども空襲の被害を受けている。
その後、空襲の矛先は各地方都市に向けられていく。

5月25日の山の手空爆で我が家屋(大田区千鳥町)は、灰になっている。

東京を焼野原にした爆弾
  

東条英機自決失敗、
現職の陸軍大臣阿南惟幾が割腹自決し、宇垣纒海軍中将が玉音放送後に特攻するなど、指導層の自決が続いていた。
東條の娘婿で宮城事件の首謀者のひとりであった近衛第一師団の古賀秀正少佐も自決した。
東條は隣家の医師に頼んで心臓の位置を教えてもらい、心臓部分に墨で黒い印をつけてもらっていたが自決には踏み切れなかった。身辺を整理はしていたようである。

焦土の動物の骨        孤児となった子供達
  


ビルも崩れ落ち焼け焦げた東京         夜間空襲
  

 
焼け焦げた死体                     焼け跡の絵
  

路上に散らばる死体               焼け爛れた都電


A級戦犯容疑者として100人以上が逮捕されたが、うち28人だけが極東国際軍事裁判にかけられた。

インドのパール氏は、「裁判の方向性が予め決定づけられており、判決ありきの茶番劇である」との主旨でこの裁判そのものを批判し、被告の全員無罪を主張した。
“裁判憲章の平和に対する罪、人道に対する罪は事後法であり、国際法上、日本を有罪であるとする根拠自体が成立しない”という判断をした。


空襲被害を受けや街並み



共産党員活動 徳田球一
「フアシズム及び軍国主義からの世界解放のための、連合国の日本進駐にとって日本における民主主義革命の端緒が開かれ度ことに対して我々は感謝を表す。
米・英及び連合国を支持、我々は天皇制を打破して、人民共和政府の樹立にある。天皇の宮廷、行政官僚、貴族、寄生的土地所有者及び資本家の結合体を一掃する」
と街頭演説。


民族の驕りが戦争に、その3に続く。

戦争シリーズ その1

2012-07-10 | 諸々日記
また暑い夏がめぐってきました。8月15日終戦記念日も間近です。5回にわたり下町を中心に歩いてみました。


内容は、自分史「回顧録・悔いなし人生」から抜粋した部分もあります。


九段坂の母

         上野駅から  九段坂まで  勝手知らない  じれったさ  杖を頼りに  一日がかり
         倅きたぞや  逢いにきた

         空を衝くよな 大鳥居   こんな立派な  御社に  神と祀られ  勿体なさよ
         母は泣けます  嬉しさに
          
         両手合わせて  ひざまつき  拝むはずみに  お念仏  はっときずいて  うろたえました
         倅許せよ  田舎者                                     


1904年 我が国は、ロシアと、朝鮮、南満州の支配をめぐって、日露戦争に突入した。
1914年~1918年 人類史上初の世界第一次大戦を径て、我が国は、大正12年に、関東大震災が襲い、苦しい財政難に。
大正14年に普通選挙交付された。ラジオ放送もこの年で、一気に、世界と国内の情報が流入する。

世界の情報が飛び交え、ドイツでは、ヒットラー「わが闘争」を出版、世界の情報もスピード化されてくる。
昭和に入り、中国では、蒋介石の国民党の大改革があり、毛沢東は、江西省岡山に根拠地をかまえた。昭和3年に、張作林爆死事件発生。
ここで蒋介石が前面に出てくる。日本の第一山東軍が遅しと出兵が始まる。昭和6年9月の「満州事変」である。

まず靖国神社から

靖国神社内の母子像         靖国通り入口

1938年生まれの寅年です。今までの人生を振り返って、思い出すことなど記録していきたいと思います。拙い文章ですがお付き合いください。

昭和4年ニューヨーク、ウオール街の株価が大暴落し、世界は、経済大恐慌に、人口ばかりが増え、資源の乏しい日本への影響は大きく受けて行く。
オーストリア中央銀行が破産が、ドイツに大きく波及する、金融恐慌で失業者が街に溢れ、世界の大不況で苦しむ国が特にヨーロッパに続く。
第一世界大戦は、ヨーロッパ中心の民族的対立を背景にした世界戦争であった。その時の同盟国を見ると、ドイツ、オーストリア、トルコ、ブルガリア4ヶ国と
イギリス、アメリカ、フランス、ロシア、イタリア、と日本である。
だが、二次世界大戦は、絡む世界大恐慌で、世界は再分割され、後進資本国の日本、ドイツ、イタリアは、高い技術を持っていたが資源はは乏しく、
先進国イギリス、アメリカなどの経済制裁を受け、国民が食べていけなくなるという深刻な問題を抱えていたのだ。
昭和6年5月15日犬養首相が暗殺され、世にいう5・15事件があり、軍部が力を付けていく。
昭和14年、ドイツではヒットラー、アメリカではルーズベルトが政権を握り、これが、やがて始まる世界第二次世界大戦への導火線となる。

昭和11年、2.26事件が起きている。翌年中国盧溝橋において、日・中両軍がぶつかり日中戦争が始まった。
昭和13年国家総動員法が公布され、翌年になるとアメリカが日米通商条約を破棄してきた。ソ連との間では、ノモンハン事件が起きている。
1939年ヨーロッパでは、ドイツがポーランドに侵攻、ソ連との間で全面戦争となっていった。第2次世界大戦の火ぶたがいよいよ切られたのである。
石油、エネルギーを絶たれた我が国の生き延びる道を探さなければならなかった。


現在の九段坂          九段灯台              神社参道



「軍人に賜りたる 勅論」

            一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし
            一つ、軍人は礼儀を正しくすべし
            一つ、軍人は信義を重んじすべし、、、、、、。


「靖国神社・遊就館 」は、明治以降の日本の戦争・内戦において政府・朝廷側で戦歿した軍人らを祀る神社。
特に、戦後行なわれた戦没者遺骨収集の際に戦跡で回収された遺品類、戦没者の遺書を等を見たかった。
「靖国の神々」では、祭神となった戦没者の写真や肖像画の一部を見る事が出来た。

                    拝殿    



日本国民は、軍事強化を選んでいく。

  「兵隊さんありがとう」である。子供の頃歌った。

             肩を並べて兄さんと、今日にも学校へ行けるのは、兵隊さんのおかげです、
             お国の為に、お国の為に戦った、兵隊さんのお蔭です。



            神社境内の軍犬と軍馬像



2.26事件が起き、翌年中国盧溝橋において、日・中両軍がぶつかり日中戦争が始まった。昭和13年国家総動員法が公布された。
翌年になるとアメリカが日米通商条約を破棄。ソ連との間では、ノモンハン事件が起きている。

1939年ヨーロッパでは、ドイツがポーランドに侵攻、ソ連との間で全面戦争となっていった。第2次世界大戦の火ぶたがいよいよ切られたのである。


日本兵攻撃像             陸士像             戦闘機乗り像


私は、今でも隅田川に向かい黙とうを続けている。特に昭和20年3月の東京大空襲で一夜のうちに10万人もの人が死んでいる。
私はその頃、家族と共に秩父に疎開していた。

多くの人々は、猛火に追われ、追い詰めれて隅田川に飛び込み亡くなられた。その時の、苦しさによる悲鳴が遠く10キロ離れた大森海岸まで聞こえてきたという。
隅田川には、男子は下向きに、女子は上向きに列を作りながら死体が東京湾方面に流れ出していた。

 
我が国自慢のゼロ戦闘機                高射砲



「太平洋戦争」
日本は、昭和16年12月8日真珠湾奇襲とマレー半島上陸作戦で米・英と戦争に入って真珠湾作戦は、宣戦布告が外務省の手落ちにより、アメリカへの通告が遅れ
「だまし討ち」と云われている。心ならずも残念なことだ、肝心の敵航空母艦が湾に不在だったことが悔やまれる。
マレー半島作戦は、2か月で1100KMを突破、翌年2月15日シンガポールが陥落させた緒戦の勝利には目を見張るものがあった。
昭和14年9月欧州でドイツが破竹の勢いでポーランドを攻め、ドイツ有利に戦いを展開し攻めている中。3国同盟を結んだ。

このことが対米戦争にまで至ったのは、一部の政治家、一部の軍隊の独走によるという解釈がよく言われるが、事実は、国民大半がこの決定に共感していたのだ。
その後の戦いが不利に転じ、ついに無条件降伏となる。

当時の世相を見ると、終戦の8月末、マッカーサーが上陸して、9月2日ミズーリ―艦上で降伏文書調印され、国民は、占領軍を迎える不安、東久邇皇族内閣の
一億総ざんげを訴え無政府状態、今までの日本伝統体制はどんどん崩れ、戦犯容疑者が続々逮捕されていった不安、食べる物がなく、職もなく、
野宿を求め全国から人人が続々東京に集まってきた。さらに疲れ切った引揚兵も次から次に東京を目指して集まった。東京に行けば何とかなるという人々
の町となり、特に上野では、戦場で傷を負い、白い病衣の負傷兵がハーモニカ、アコーデオンなどの楽器で悲しげな軍歌等の曲を奏でていた。
目が見えず、片腕、片足がない人、道行く人々に頭を下げ、胸に下げた箱の中にわずかな同情の寄付を集めているのだ、彼らは、時には電車の中にも現れた。
誇りを失い、みじめさ、みすぼらしい姿・・・彼らが本当に勇敢な日本兵だったのかと信じがたかった。
共産主義者が解放され、地下活動から日の下へと這い出し、待ち望んで革命の時と声高い高に活動しだした。
かつての静かで落ち着いた東京は、もう永久に戻らない寂しさを少年ながら思った。


社の奥にある「遊就館」遺品展示


「軍艦行進曲」
         守も攻めるも黒鉄の  浮かべる城ぞ頼みなる  浮かべるその城日の本の  皇国の四方を守るべし
         真鉄のその艦日の本に  仇なす国を攻めよかし。



マンハッタン計画により開発中であった原子爆弾の使用対象として日本が決定。
1943年5月であった。広島市が目標と決定されたのは1945年5月10日、長崎市は投下直前の7月24日に予備目標地として決定された。
京都市や新潟市や小倉市などが候補地とされていた

我が軍隊は、最後に手段、組織的特攻として陸軍は本格的な検討が1944年2月頃に始まったと推定され、海軍も計画が同年2月26日特攻兵器人間魚雷の試作から始まる。
特攻の実行は1944年レイテ沖海戦において、海軍が"神風特別攻撃隊"として1944年10月25日に実行し、陸軍は特別攻撃隊"富嶽隊"によって11月7日から実行された。
以降特攻隊は終戦まで次々編成され出撃していった。

 
館内の模型船 航空母艦など



午前8時15分、B29爆撃機エノラ・ゲイがウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を人類史上初めて広島市に投下。市中心部の広島県産業奨励館(原爆ドーム)
近くの上空約600メートルで爆発した。
爆心地の地表温度は3千~4千度に達し、熱線や爆風で市内の建物の90%以上が壊滅。推計人口35万人のうち、同年末までに14万人が死亡したとされる。
原爆死没者名簿登載者数  263,945名 (平成21年現在)


兵士が、大事に持ち、身に付けていた日章旗          戦闘機


その他に、人間魚雷 回天、家族あて御遺書、軍服など遺品、記録映画など鑑賞できる。先輩たちの英霊が聞こえて來る空間でもあった。


民族の間違った驕りが戦争に、その2に続く。

妙法寺 御成りの間と発掘

2012-07-07 | syu散歩
たまたま見学した日は、御成りの間の横に倉庫があり、3.11の大震災で少し傾いたので、取り壊し庭園にすることになった。
明治時代に一度改築しているが、倉庫に地下があり、当時でも数少ないので発掘した、それも終わり埋めることになったので、急遽講座の日に
見学することになった。
  


御成の間  東京都指定有形文化財 昭和40年指定

江戸時代後期、堀ノ内村は徳川将軍家の鷹場の中にあり、妙法寺は将軍の休息をとる御膳所として使われていた。
『御成の間』は、将軍が野遊の際に妙法寺に立ち寄った折り、その御座所として使用した座敷。
境内の東奥の庭に面した妙法寺書院の奥にあり、現在では千部会や御会式など行事の際に「お経頂戴の間」として活用されている。

将軍の座る上段の間は一段高くなっていて、天井・床の間・腰障子には狩野幽玄常信の筆により、それぞれ雁・山水・草木を主題とした水墨による
障壁画が描かれています。
建立より数度の移築・改修がなされていますが、江戸後期の書院造りのようすを伝える貴重な建築です。





御成りの間から見える発掘現場


書院庭園 
御成の間諸大名の使者が来寺の際、応接間として使った座敷「使者の間」との間には書院があり、ここから手入れの行き届いた庭園があります。




彫刻が多い建築
  

多様な釘隠し
  

  

 

天井絵画


妙法寺は今回で終わります。