syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

杉並 妙法寺 山門とあじさい

2012-07-06 | syu散歩
角川庭園講座の3回目は「妙法寺」やくよけ祖師。この地に住んで30年にもなるが、初めて訪れた。江戸時代には浅草浅草寺と並び賑わったお寺とのこと。
今でも3のつく日に種々行事があり、縁日や商店街も賑わうそう。

今日は妙法寺集合なので地図を見ながら参加。地下鉄東高円寺駅から15分、この都心にこんな静かな地域があったかと思うほど、広い敷地に大きな建物など、
緑も深く、今はあじさいが満開で綺麗だった。杉並区堀の内にある日蓮宗本山。


仁王門

元々は真言宗の尼寺であったが、1615年 - 1624年(元和年間)日逕上人は、母・日圓法尼の菩提のため日蓮宗に改宗した。
山号は日圓法尼に因み日圓山とし寺号を妙法寺とした。初めは碑文谷法華寺の末寺となったが、1698年(元禄11年)碑文谷法華寺は不受不施派の寺院として
江戸幕府の弾圧を受け、改宗を余儀なされ、身延久遠寺の末寺となった。このころ碑文谷法華寺にあった祖師像を譲り受ける。

日蓮の祖師像が厄除けに利益があるということで、江戸時代より多くの人々から信仰を集めている。現在でも厄除けなどの利益を求め、多くの人が参拝に訪れている。
古典落語「堀之内」の題材にもなるなど、街の顔にもなっている。
1926年(大正15年)妙法寺貫首により、東京立正短期大学・東京立正中学校・高等学校を設立している。


「祖師堂」
日蓮聖人の「祖師御尊像」つまり「やくよけ祖師像」が奉安されている、妙法寺では一番大きなお堂。天井や壁が金箔で覆われた堂内は豪華絢爛。


                                  鐘楼
  
  
「天明の水」
祖師堂の西前にある手水舎は、天明2(1785)年、第十七世日研上人の時、渇水のために掘った井戸で、妙法寺の水屋といわれる。
この井戸は、天明の当時から未だに涸れることなく清水をたたえています。

「有吉佐和子の碑」
「複合汚染」「恍惚の人」などのベストセラーで知られる作家の有吉佐和子さんは妙法寺のすぐ近くに住んでいた。境内を通って帰宅されることが多かったらしい。
キリスト教の信者だったが、妙法寺をこよなく愛されていたので、周囲の方のお勧めで「有吉佐和子の碑」が境内に作られた。
杉村春子、山田五十鈴の名が石碑に刻まれていた。

天名の水                         有吉佐和子の碑
   

祖師堂の屋根に金色の魔除けの像




鉄門の上


「鉄 門」
明治11年(1878)英国人コンドル博士設計による貴重な和洋折衷様式の門。鹿鳴館・上野博物館・ニコライ堂などを手掛けたコンドル氏に依頼したのは、時の住職。
当時は、斬新なデザインだった鉄門なので、ものめずらしさに来寺する人も多かったとか。日本寺院の門としては特殊なめずらしい存在。


門前はあじさいが見事




 

富士山麓 浅間神社と外川家住宅

2012-07-04 | 富士山麓日記
6月中旬、山の家に珍しく来客があったので、久し振りに浅間神社と外川家住宅に行った。

御師は富士山の神霊と崇拝者の間にたち、崇拝者に代わって祈りをあげ、お札を配り、信仰登山の際には自宅を宿泊所として提供して、富士信仰を広める
役割を果たした人々です。室町末期には御師の存在が記録の上で確認されており、その頃すでに御師か盛んに活動していたことがわかります。

江戸時代の最盛期には、約100軒ほどの御師が上吉田に居住していました。その1軒、外川家住宅を見ることができます。


中門から主屋


懐かしい火地炉の間
  

吉田の火祭り                         神棚
    

今は無い模様の入ったガラス障子           どこの家にもあった食器棚、押し入れ
    

登山の白装束、              寒い山での就寝に備えて綿入れのかいまき、これを担いで登る
  
今日の富士山


北口本営富士浅間神社 鳥居

そびえたつ富士山を背に諏訪の森に鎮座しており、冨士のお山開きは神社の鳥居に張られた注連縄を切らなければ始まらず、またお山じまいの火祭りは
神社の秋祭りであるというように富士山と北口本宮冨士浅間神社とは深く強いもので結ばれています。

祭神は木花開耶姫命、彦火瓊々杵命、大山祇命です。
現在の本殿は1615年(元和元年)に再建、1688年(貞享5年)に社殿を造修、本社殿は桃山時代の高荘な建造物として重要文化財に指定されています


左右に燈籠が建ち並ぶ


境内駐車場にある浅間茶屋

津川と麒麟山酒造

2012-07-03 | 気まま旅
「津川」東蒲原、県北東部、福島県に接している。阿賀野川支流と常浪川が合流する位置にある。津川船道と呼ばれる「舟運」の中継地として発達した。
名も船着場のある川で津川と呼ばれてきた。鎌倉時代からの築城の「山平城・津川城跡」は、県史跡で1帯が麒麟山公園になっている。

会津~越後を結ぶ「若松街道」国道49号線で、その宿場町として栄えた。1886年までは、福島県に属していた。
明治時代、イギリス女流紀行家イザべラ・バードは、「日本奥地紀行」で津川を、ライン川ように景観と形容している。
80%が山林で林業が盛んである。

「磐越西線、津川駅」は、五泉・新津方面(SLばんえつ物語) 会津若松と、野沢・喜多方・会津若松方面~五泉・新津方面(津川駅始発)がある。

JR津川駅                                        麒麟山橋と阿賀野川
    

「住吉神社」は、津川町の市街地に鎮座。 敏達天皇九年 580年に摂津国(住吉大社)から勧請したとも伝える。
当初,別の場所に鎮座したが,1362年に現在地に遷って以来,産土神として崇敬を集めた。
1873年には郷社。 鳥居の額束に「明治七年甲戌七月建」と刻されている。石碑に、本殿は、大正10年新築したとある。

住吉神社 一の鳥居                    二の鳥居と拝殿                神輿の社
    

「津川の狐嫁入り」は、麒麟山にはかつて狐が住んでおり、戦国時代には「津川城」がおかれていたが、「狐戻城」(あまりの険しさに狐も登る事を諦め戻ってしまう)
とも呼ばれる程の険しい山であった。
この山には古くから狐火と呼ばれる光が見られた。現在は殆ど見られなくなったが、津川の狐火は出現率が世界一とも言われ、麒麟山及び狐火にまつわる
数多くの話が残っている。


    

「狐の嫁入り行列」という言い伝えがあった。かつてこの地域の「嫁入り」は夕方から夜にかけて行われたため、提灯を下げて嫁入り先に行列していった。
この行列が麒麟山の峠を越えていく際に、堤灯の明りと狐火が平行して見えたりしたことからこの言い伝えが生まれた。

阿賀野川船着き場に碑がある
  

民話を下地とし、1989年に新潟県が企画した「デスティネーションキャンペーン に乗って1990年に第1回が開催された。以降、その幻想的な祭の構成に
注目が集まり、現在では津川地区以外で、5万人以上にも及ぶ観光客が訪れ年々増えている。毎年5月上旬。

郷土館庭園                          展示場
    

「新善光寺」の創建は、1190年、に沙門定尊聖人が開山、本尊は善光寺の本尊を定尊聖人が模して刻み込んだものだと言われている。
福海観音堂に祀られている石造観音菩薩像(阿賀町指定文化財)は、1693年に新潟沖で沈没したもので、上半身と下半身別々の場所で引き上げられ祀られていたもの。

正面には大きな鐘楼門があり、境内には会津白虎隊士 藤森八太郎の墓や津川姿見著者 田崎留右衛門富修の墓などがある。


    


白虎隊士、藤森八太郎の墓、山門を入ってすぐ右手、本堂手前にある。標柱あり。右隣りに3体の地蔵菩薩、左に福海観音菩薩に挟まれて眠っている。
1868年に、押し寄せる西軍を撃破し追い返した、白兵戦では敵わないと判断した西軍は、大砲到着を待って砲撃を開始、被弾し戦死、母成破れるの報で撤収。
新善光寺は、津川最大の寺院、京都、知恩院の末寺。



              

「狐戻城・麒麟山城」は、 平山城、築城 1252年、築城  藤倉(金上)氏、城主。  
 
津川城は会津芦名氏の越後への進出口となり、しばしば越後菅名荘に侵攻、長尾為景も津川城を攻撃するなど互いに隣国への勢力拡張を図った。
上杉謙信が津川口からの芦名軍の侵攻に備えて菅名荘に築いた神戸城、雷城は、1564年、芦名勢によって一時占領されている。
1578年から1580年にかけての御館の乱でも両城は攻撃されている。

麒麟山の城跡頂上                    狐も戻った急な山道
    

 
    

1590年、会津に蒲生氏郷が入封すると、津川城には北川平左衛門が七千二百石で城主に任ぜられたが、1598年、上杉景勝の会津移封後は藤田能登守信吉が
一万一千石で城主に任ぜられた。信吉は関ヶ原の役直前の1600年、徳川家康に通じて脱国騒ぎを起こしている。
藤田信吉が去った後の津川城主には鮎川帯刀が津川城主となり、堀氏の入封した越後の旧臣を煽動して越後旧臣一揆を起こさせる役目を負った。

    

関ヶ原の役ののち、上杉景勝は米沢へ移封となり、会津に蒲生氏が入封すると、津川城主には岡半兵衛重政が配置されたが、寛永四(1627)年、
伊予松山城より加藤嘉明が会津に入封、加藤氏は江戸幕府の命により津川城を破却、廃城となった。

津川の地は、新潟県東蒲原郡に属しているが、古くから会津領であった。

                       麒麟山トンネルを出ると麒麟山温泉街
    

「麒麟山酒造」は、歴史は古く、安政年間の初め(約150年前)に創業。木炭業を主にしながら酒造業を行い、2代目より清酒「福の井」銘柄となって
現在の基礎を築いている。

4代目より酒造り一本に賭け、津川のシンボルである名峰麒麟山からその名を因んだ、清酒「麒麟山」銘柄となる。
創業以来‘酒とは辛いもの’との一貫した信念の下に辛口の酒造りを通し、清酒麒麟山は、軽快で喉越しスッキリした味わいが多い。
程よい香りと酷、飲み飽きしない、妥協のない酒造りと、伝統の手造りの味わいを・・・・。(蔵人記す)

    麒麟山酒造 工場
    

銘柄は、 麒麟山伝辛(でんから)、日本酒度+6/15-16度、五百万石/精米65%、辛口の中にも爽やかさを与えてくれる、適度な酸が有る。
軽快でスッキリした味わいを持つお酒。
1800ml....1838円・720ml......819円

麒麟山酒造全景                    麒麟山橋と阿賀野川 
  

本醸造 ブラックボトル 、日本酒度+5/15-16度、五百万石/精米60%、適度な酸味があり、辛口、でなめらかな口当たり。口の中で広がる旨味が心地よく、
食事が進むお酒。 燗もお勧め。 
1800ml....2100円・720ml......998円

純米 グリーンボトル、日本酒度+4/15-16度、五百万石/精米60% 、ふくらみのある味わいと、キレのある喉越しが特徴、辛口のしっかりとした旨味を堪能できる。
燗も味わい豊かでよい。
1800ml....2310円・ 720ml.....1050円         

その他、限定品などあり。

麒麟山事務所                     貯蔵タンク
  


「酒造りの話」  調合、火入れ、貯蔵、瓶詰め、出荷

オリ引きされた新酒を、きき酒、原酒でアルコール分普通で18~20℃、生酒を蛇管・プレート式熱交換器で殺菌し貯蔵タンクに。
タンク内65℃以上で管理、火入れ貯蔵後、夏の間静かに熟成を続けます。

新潟の旅で、「酒造りの話」を書いて来ましたが、あくまでも一般的な話です。我が国の先人たちが考え生み出した、日本酒造りの技法に驚きます。  以上         
                                            

湯沢、新潟、新発田、村上のコースはこれで終わり、津川ICに入り東京へ戻りました。ご訪問いただいていた皆さま有難うございました。