syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

舎人線 日暮里から西新井大師

2013-07-21 | 気まま旅

都交通局は、1985年 都における都市高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について、都営バス里48系統の路線を中量輸送機関に置き換えるべく地下鉄7号線(南北線)の一部として計画。
財政問題や採算性などから尾久橋通り上の新交通システムに変更と財政状況などから、大幅に遅れ、一方で事業主体の決定や荒川区側の用地買収に時間がかかったこともあり、開業は当初計画されていた1999年 平成11年から2002年、平成14年、さらに2008年(平成20年)本路線は、1985年(昭和60年)7月の運輸政策審議会答申第7号「東京都における都市高速鉄道を中心とする交通網の整備に関する基本計画について」においてほぼ都営バス里48系統の路線を中量輸送機関に置き換えるべく位置付けられたものである。当初は地下鉄7号線(現在の南北線)の一部として計画されていたが、財政問題や採算性などから尾久橋通り上の新交通システムに変更された。なお、財政状況などから、軌道事業特許は1995年(平成7年)、工事施行認可は1997年(平成9年)と大幅に遅れ、一方で事業主体の決定や荒川区側の用地買収に時間がかかったこともあり、開業は当初計画されていた1999年(平成11年)度から2002年(平成14年)度、さらに2008年(平成20年)3月30日と、2度にわたって延期されている。2度にわたって延期されているが、2008年(平成20年)に開業した。

        舎人ライナーは、荒川・足立区(尾久橋通り)を二両連結で走っている


区間は、日暮里 - 見沼代親水公園 9.7km、 駅数は、13駅(起終点駅含む)、 複線、全線、 車両基地所在駅:舎人公園駅
最高速度は、60km/h、 所要時間は、20分、扇大橋 - 足立小台間勾配大、 最小曲線半径は、30mで日暮里付近という。

JR日暮里駅地上から出ている                午前10時ガラガラで空いていた
    

運賃は、大人で初乗り160円から最高320円までの4段階。

駅は、日暮里駅ー( 京成電鉄)-西日暮里駅(JR・ 千代田線)-赤土小学校前駅ー熊野前駅(都電荒川線)-足立小台駅ー扇大橋駅ー

高野駅ー江北駅ー西新井大師西駅ー谷在家駅ー舎人公園駅(中央卸売市場北足立市場)-舎人駅ー見沼代親水公園駅。

日暮里駅前バスロータリー広場                       太田道灌像が
    

舎人ライナー高台から眼下を見渡すと、太田道灌像が、江戸名所図絵や、高村光太郎は、千歩の田園を見下していたのだろう。
日暮里は、もと、新堀・日暮しの里とも云っていた。

「新堀を道灌山より臨めば春秋の景色の暮るをも忘るる心にて日暮の里と言ならはせり」(紫一本)
当事は、舎人ライナーの新井大師付近も見えていたかも。

荒川区の隅田川から区境の足立区の荒川・高速中央環状線の陸橋を渡り、進んだ。扇町、江北、、西新井と進んだ。

隅田川・荒川・高速中央環状線(荒川区から足立区に)
    

「舎人ライナー 西新井大師駅」は、区江北六丁目、駅番号 9番目下車する、高架駅。開業 2008年(平成20年)

西荒井大師駅下車 東部伊勢崎線も「大師駅」で接近し並行に


「西新井大師」は、空海 弘法大師が関東巡錫の途中、西新井を通った際に、本尊である観音菩薩の霊託を聞き、本尊の十一面観音を彫り
826年に寺院を建立したことに始まるとされる。
江戸時代中期に建立された本堂は昭和41年火災により焼亡したが本尊は難を逃れた。
本堂は昭和46年に再建され現在に至っている。

川崎大師と共に「関東三大師」の一つに数えられ、毎年の正月には初詣の参拝客で賑わう。

境内には弘法大師によってもたらされたとされる加持水の井戸がある。
この井戸が本堂の西側に所在することが当地の地名である西新井の名の由来とされている。
中野区にある新井薬師と同じ真言宗豊山派の寺院。

昔から変わらない藤棚が


文化財は、 国宝 鋳銅刻画蔵王権現像(平安時代)、 重要文化財 絹本着色弘法大師像(鎌倉時代)、 絹本着色天台大師像(鎌倉時代)
      絹本着色尊勝曼荼羅図(鎌倉時代)、 銅鐘(梵鐘)(高麗時代・遼の乾統7年(1107年)の銘あり)
     菊蒔絵手箱(平安時代)。

舎人ライナー西新井大師西駅下車徒歩20分。

本殿


正式名称は、「五智山遍照院總持寺」

門前町                                    庭園
    

弘法大師ゆらいの加持水の井戸は、大師の祈祷により、涸れ井戸から水が湧いてきたという。
その水は、病気を癒したという伝説、「西新井」の地名の由来となった伝説の井戸、(井戸が本堂の西側にある)

江戸後期に建立された山門(仁王門)。       楼門
    

「厄除け火防のお大師様」で開運の霊場として、江戸時代は、関東七ヶ寺の一つの数えられた名刹。

境内内は、池まわりの光景、弁天堂、石塔、弘法大師像、十三重の宝塔と藤棚などが

弁天堂                三重塔                  弘法大師像
    

境内は、5万平方mと広く、牡丹の名所としても知られ、春、桜と藤 で、12月納めの大師、縁日・節分には特に賑わう。

本堂前                   境内             本堂内
    

西新井の鎮守、氷川・浅間神社があった。

大師さんから舎人まで約20分歩く、途中の神社へ
      

次回は、舎人ライナー終点「見沼代親水公園」駅へ。

勝どき~門仲くろふね橋

2013-07-19 | 気まま旅

中央区の南部、月島内で埋め立て地隅田川と朝潮運河を隔てて築地・晴海に相対し、朝潮運河沿い倉庫、高層ビルが立地、隅田川最下流。
「勝鬨橋」が架かる。この橋、シカゴ跳ね橋をモデルに日中戦争勃発時 1937年の架け橋工事が始まった。
戦勝を期して名づけられて。中央部で跳開し、3千t級の船舶航行が可能であった。
現在は、東京湾埋め立て、自動車の発展、河港がら海湾の利用へと変わり開くことは無い(1970年)。
地下鉄は、大江戸線、勝鬨・月島・越中島・江東区門前仲町進行、又中央区役所から佃、豊洲の有楽町線が交差している。

築地から中央区、駅の出口は、「晴海通り」。



東京港修築計画に基づいて架けられた勝鬨橋は、国家的イベントとして予定されていた万国博覧会へのメインゲートとしても利用するために、我が国、最先端技術の粋を集めて建造。
万博自体は戦争の激化により中止となりましたが、勝鬨橋は昭和15年完成。中央が開閉する勝鬨橋は、完成当時は跳開橋として東洋一の規模を誇っていたが、隅田川を航行する船の減少、交通量の増加などによって、昭和45年の開閉を最後に、現在では開かずの橋となっている。

資料館あり、使われなくなった、変電所を改修し、この勝鬨橋をはじめ隅田川の橋について、資料や関連情報等を展示・公開している。

朝潮運河、埠頭が晴海になるが、大江戸線は「月島」-「佃」の晴海通りを江東区へ
    

15世紀に江戸城を築いた太田道灌が江戸前島の平川河口に江戸湊を開き、海上輸送を行ったのが始まりであると言われている。
17世紀になり江戸に幕府が開府してからは、江戸庶民の生活に必要な物資の輸送手段として大量輸送できる海運がそれまでより一層重視され、諸国とを結ぶ廻船の重要な寄港地として大きな役割を果たした。

幕末の1858年に結ばれた日米修好通商条約により隣の横浜港が開港(1859年)したものの、東京港が国際港として開港するのは大正時代の関東大震災を契機に日の出・芝浦・竹芝の各埠頭が整備される1941年を待つことになる。

戦後の経済成長に伴い首都直下の港湾施設の拡張が急務となり、豊洲埠頭が整備された。
1951年には特定重要港湾に指定され、間もなく晴海埠頭も整備される。
その後の世界的なコンテナリゼーションに対応するため、1967年に品川埠頭が神戸港摩耶埠頭とともに日本初のコンテナターミナルとして運用を開始し、1975年に大井コンテナ埠頭が完成、全国でも最大級の連続8バースにわたるコンテナターミナルが誕生した。
その後1985年に青海コンテナ埠頭の運用も開始。2004年には大井コンテナ埠頭再整備も完了。
戦後処理によってGHQに港湾機能の多くを接収されていた(現在も一部は接収が解除されていない)横浜港を尻目に急成長して、2000年代には横浜港を抜いて東日本最大の港となり、五大港の一つとして今日では日本の港湾物流の中心的な役割を担う。

大江戸線、晴海通り(勝鬨橋)、有楽町線(佃大橋)通る。小学区は月島第一・第二の二校・晴海に第三がある。
  

月島西仲、もんじゃ通りは、中央区月島の「西仲通り商店街」。
「もんじゃ焼きの街」の「もんじゃストリート」と呼ばれ観光客で賑わう。
現在もんじゃ屋が75店ほどあるが、歴史のある店は数店であり、他の店は1980年代後半の「もんじゃブーム」で他の商店からもんじゃ屋にくら替えしたケースが多い。
もんじゃ焼きの店舗でも、お好み焼きをも供するのが一般的である。
ここでは、「いちごみるくもんじゃ」などアレンジされたもんじゃを提供している店もある。

向かいは、築地市場                   のっぽビルが多い
  

「月島」駅下車する。
2011年7月現在の人口は、12,287人。埋め立て当時の月島は、富国強兵の国策に沿い重工業地帯とされ、鉄工所が多く造られた。
工場、商店が多かったが、最近は、高層マンションも増えてきている。面積は、2.279km2。

1892年(明治25年)の「東京湾澪浚(みおさらい)計画」に基づき、東京湾から浚渫した土砂を利用して埋め立てられた地域、
月島1号地(現在の月島一丁目から月島四丁目まで)として完成し江東区と続いて行く。

中央区は、「月島」駅で、次は江東区へ


「佃」
1590年 家康が江戸城に移り、森孫衛門を筆頭に漁民30余名も、徳川家の御肴役として移住。
今の佃地区ではなく、小石川や小網町の武家屋敷内に済むことが許され、掘り番として手当も受けていた。
家光時代、 町家と武家との居住分離が始まり、関西の佃村から移住してきた漁民たちも多くなったので、新しい土地で、武士とは別の住まいが必要になってきた。
1645年 漁業に便利な生活の場として鉄砲洲の東の干潟の使用を許可を申し出て、幕府は100間(約180m)四方を築島して郷里の佃村にちなんで「佃島」としたとある。
江戸中~末期に入り、 漁民たちは江戸前の新鮮な白魚を主に献上魚として、残った雑魚を市中で商いした。
保存食として、雑魚を醤油炊きにしておいたが、やがて白魚やハゼ、小海老も煮込んだ。大名の食膳や国許への土産となって、佃煮は全国に広がった。このころはまだ高級美味珍味だった。
雑魚を塩漬けしたものを「潮(うしお)煮」ともいわれた。

月島第二小学校正面                   昔ながらの長屋が
    

「相生橋」は、鉄骨を角型に組み合わせたトラス型の橋。
共に生きるという「相生」という名称は、長短二橋で構成されていたことから「相生の松」に由来して名づけられたという。
橋下には、「中の島公園」。隅田川唯一の水上公園。埋め立て、運河造成によって佃島は大きく工業化され、さらに近年隅田川下流はウオーターフロントということで、その変化は大きく、超モダンなビル群リバーシティ21が造られた。
月島のもんじゃ焼き、昔ながらの路地、お店が残る、なつかしい雰囲気のまちでもある。
ここから先の下流に春海橋が見える。この春海橋あたりから下流は、「晴海運河」と位置づけられるエリアとなる。
行政上は、隅田川本流から分岐しての0.9kmは隅田川派川。春海橋と、最近架けられた晴海大橋、豊洲大橋が あり、東京湾に至る。

隅田川22番目の橋、「相生橋」と橋下の左奥に春海橋が見える。1998年竣工。翌1999年全通。
3径間鋼トラス桁橋。橋長149.1m。幅員22.0m。
最初の橋は、1903年に架けられ、それ以前は佃の渡しと月島の渡しなどの渡し船であった。

相生橋渡ると江東区越中島、東京海洋大学(明治丸)に
  

「越中島公園」は、江東区越中島にある晴海運河沿いの区立公園。
北は、大島川水門、南は清澄通りまで伸びる、南北に細長い公園で、屋形船の出入りが見られる。
スロープでつながっている。足腰の不自由な人や、自転車・車椅子に乗りながらでも移動できるバリアフリー。
子どもの自転車教習の小型信号機や車線のほか、簡易な砂場や子ども用水遊びジャブジャブコーナーなどがある。
ベンチと草花に囲まれた静かだが、狭く利用する人は少ないようだ。

越中島公園                           海洋大学構内明治丸
    

「明治丸」は、明治初頭、洋式灯台の建設に伴って、その測量やメンテナンスのために灯台巡視船が日本にも登場した。灯台の増加により新鋭船が必要となったため、日本政府はイギリスのグラスゴーにあるネピア造船所に本船を発注した。
1874年に進水し、同年11月竣工。「明治丸」と命名された。1875年に横浜港に到着し、灯台巡視船の任に就いた。

日本に回航された1876年には、イギリスとの間で小笠原諸島の領有問題が生じたため、11月、日本政府調査団を乗せて横浜港を出航し、24日に父島に入港した。
新造船で船足が速く、22日に同じく横浜を出航した英国軍艦「カーリュー」より2日早く着き、調査を進められたため、日本の小笠原諸島領有の基礎を固めることができたとされている。

旧商船大学ー海洋大学に                     明治天皇も乗船した。
    

「東京海洋大学の前身」は、内務郷 大久保利通は, 明治政府の自立的な海運改革を進めるにあたり, 船員教育の急務を提唱し,
三菱会社長 岩崎弥太郎に命じて, 明治8年この地に商船学校を開設させた。
当初の教育は, その頃隅田川口であり, 海上交通の要衝でもあった永代橋下流水域に,「成妙丸」を係留して校舎とし 全員を船内に起居させて行われたが, これが近代的船員教育となった。
船員教育の成果は, 我が国近代化の礎となった海運の発展に大きく貢献してきたが, その歴史的使命は幾変遷をへた今日, 江東区越中島にある現東京商船大学に継承せられているとある。               船員教育発祥の地より。

煉瓦造り校舎                     校内
    

「海王祭」は、 越中島キャンパスで毎年6月の第一土曜・日曜日に開催される。
前日には宣伝のため越中島周辺の運河でカッターパレード。
模擬店や研究室(海事、船舶、機械、物流など)の公開、ミスネプチューン(女装大会ー海王寮寮生の伝統行事として位置づけられている)や浴衣コンテスト(海洋科学部女子学生が参加する。
大学の船である「やよい」の試乗会(東京湾クルージング)は人気で毎年整理券の入手の列ができるほど好評と云う。

レンガ八角型の平家造り「観測台」                            奥深い校内
     

「門前仲町の火の見櫓」は、(鉄骨造地上二階建築面積23.45m2 高さ9m)
深川の南部に、佐賀町下の橋際(佐賀二)・富吉町(永代一)門前仲町などに火の見櫓が立てられている。
門前仲町の櫓は今の門前仲町の交差点付近かつての富岡八万宮一の鳥居近くにあり、周辺は永代寺富岡八幡宮三十三間堂といった江戸名所が集まり現在同様に門前町としておおいににぎわっていた場所。
この櫓は深川の繁華街を守ると云う大きな役割をはたし、「災害のない街」を願う気持ちは今も昔も変わらない。

稲荷神社、                 黒船橋                江戸時代火の見櫓
    

永代通りと清澄通りが交差点に「門前仲町駅」が



次回は舎人ライナーを歩きます。

築地市場駅 増上寺 大門

2013-07-17 | 気まま旅

東麻布から芝公園(桜田通り)に出た。「赤羽橋」駅である。赤羽の名は、土器を作る家が多く、土が赤かったことから赤埴と呼ばれていたが、いつの頃からか赤羽となったという。
近くには、芝公園、増上寺、、東京タワーがある。

芝公園「赤羽橋」駅に


「港区登録有形民俗文化財のお竹流し板・お竹如来の縁起」

寛永年間、江戸大伝馬町の名主佐久間勘解由家のところの下女お竹は荘内(山形県)出身にして生れつきいつくしみの心が深く、朝夕の自分の食事を貧しい人に施し、自らは水盤の隅に網を置いて、洗い流しの飯が溜ったものを食料としたという。
信仰厚く常に念仏を怠らず、大往生をとげたというこの噺を聞いた5代将軍綱吉の生母桂昌院は、いたく心を動かされ、金欄の布に包まれた立派な箱にお竹さんが当時使った流し板をおさめて「増上寺別院」であった「心光院」に寄進され、その徳光を顕彰された。
(江戸名所図絵)、三緑山志等に出つ。桂昌院御詠歌に  ありがたや光と共に行く末は
                           花のうてなにお竹大日
                  一茶の俳句に
                           雀子やお竹如来の流し元
                           雲の日やお竹如来の縄だすき
 
                                                 浄土宗 心光院
この交差点、五差路交差点で、交通量は多いが、比較的スムーズに流れている。

東京タワーが


「妙定院の 災除地蔵尊」は、江戸南方四十八所地蔵尊参 第二十七番。

開創から境内に地蔵堂があり、木造寄木造丈六金箔置の大地蔵尊坐像が安置。延命子育・利益広大と言い伝えられている。
「江戸南方四十八所地蔵尊参」(寛政六年(1794)撰)の第二十七番に列せられ、多くの参拝者でにぎわいました。

妙定寺は、赤羽橋すぐ          地蔵尊              幹線道路


「妙定院」は、1763年、徳川九代将軍家重公を開基と仰ぎ、三縁山増上寺四十六世妙誉定月大僧正によって開山。寺号は増上寺、
増上寺の別開蓮社また別院として位置付けられて、六時勤行・念仏不断の道場であり、また当時山内五十一ヵ寺中、明蔵(一切経)を有し仏典研究の中心的存在、浄土宗の准檀林の寺格を持った、念仏道場・学問研究の名刹として知られ、

東京名所四十八景の一として人々に親しまれ、近くには東京タワーはじめ近代的な高層建築や高速道路がある一方、芝公園内にあって濃い緑に囲まれた環境の中、境内にも、多くの保護樹木などでおおわれた庭園も持ち、都心の安らぎの地となっている。

本尊は、安阿弥(快慶)の作と寺伝の伝える、稀少な「裳かけ阿弥陀如来像」。

山門                                   本殿


「大門」は、港区の北東部、芝公園付近の通称であったが、現在は、芝大門地区を言っている。増上寺の表門である「大門」、江戸の中心
市街の南端に位置し、芝大神宮(神明宮)の門前町として賑わっている。
都営浅草線・大江戸線とビジネスの街として発展。

赤羽橋から「大門」へ


この付近の町名(芝大門)や地下鉄の駅名(大門駅)に使われている「大門」(だいもん)は、増上寺の総門のことを指す。現在の総門は昭和12年に作られた、コンクリート造のものである。

増上寺の 三解脱門は、重要文化財 - 戦災をまぬがれた建物の1つで、1622年建立の二重門(重層で、各層に屋根が付く門)。
この門をくぐると、三毒(3つの煩悩、即ち貪、瞋、癡)から解脱できるとされる。
内部には釈迦三尊像と十六羅漢像が安置されている。
大殿は、 昭和49年(1974年)の再建。徳川家霊廟で、増上寺には、徳川将軍15代のうち、6人(秀忠、家宣、家継、家重、家慶、家茂)が葬られている。

増上寺の                           大門


寺には、檀林(学問所及び養成所)がおかれ、関東十八檀林の筆頭。
1680年に行われた将軍徳川家綱の法要の際、奉行の一人で志摩国鳥羽藩主内藤忠勝が、同じ奉行の一人で丹後国宮津藩主永井尚長に斬りつけるという刃傷事件を起こしている(芝増上寺の刃傷事件)。
また元禄14年(1701年)に江戸下向した勅使が増上寺を参詣するのをめぐって畳替えをしなければならないところ、高家の吉良義央が勅使饗応役の浅野長矩に畳替えの必要性を教えず、これが3月14日の殿中刃傷の引き金になったという挿話が文学作品「忠臣蔵」で有名。
畳替えの件が史実であるかは不明。なお、長矩は内藤忠勝の甥。

              江戸時代の増上寺冬景色


「芝大神宮」は、港区芝大門一丁目に鎮座する神社。一時期准勅祭社とされた東京十社の1社で、旧社格は府社であった。

祭神は、天照皇大御神、 豊受大御神。創建は、古く1005年、本殿の様式は、神明造。別名に芝神明宮・飯倉神明宮・関東のお伊勢様

例祭ー9月16日、神事ー半鐘祭(2月3日)、 だらだら祭り(9月11-21日)、 貯金祭など。

芝大神宮                  狛犬                  拝殿


光が丘から20番目の汐留駅は、高層ビル街の地下


「汐留」は、港区北東部浜離宮庭園(中央区)と国道15号線に挟まれた地域で、東新橋にあたる。
江戸時代は、潮の寄せる葦の沼地、汐留川隔て武家屋敷が、汐留川は赤坂見附が源で物資輸送で活躍した川。
1872年日本初の鉄道が開通し大きく発展(烏森駅)し、JRの敷地で占められていた。

大門ー汐留駅


汐留ビルディングが、東急不動産、三菱地所、三井物産、平和不動産から開発資金を集め、東急不動産と 三菱地所が共同して開発したビル、巨大再開発地区「汐留シオサイト」として再開発が

変貌した汐留ビル街


「築地市場駅」


築地市場マグロ卸売場の見学は、見学者の安全等を考慮し、見学方法を定めている。
見学者数(定数)120名(先着順)、 見学者数が定数に達し次第受付を終了。見学者受付は、「おさかな普及センター」1階 (勝どき門入り口横)。)受付時間 午前5時より、見学者受付は、当日、受付時間に「おさかな普及センター」1階に来られた方のみ。

外人客が増え人気。
                                         築地市場


「浴恩園跡」は、築地中央卸売市場の地に、天下の名園といわれた浴恩園があった。
園は、1792年 白河楽翁公(松平定信)が1万7千余坪の土地を得て隠居した地で、園内には春風池、秋風池、池を囲む築山などがあり、まさに塵外の別天地といわれている。
旧園の跡は、関東大震災で消滅し、その面影を刻んだ銅版画のみが市場内に保存されている。

オフイスビル街に               浴恩園跡地、、、、、、、、江戸時代松平定信



次回は、勝どき方面へ。

麻布十番駅  赤い靴とアメリカ公使館

2013-07-15 | 気まま旅

「六本木」は、外苑東通りと高速三号線通りの交差点を中心に四方に散って発展、赤坂9丁目に防衛庁と若者の街で、にぎあうのは、夕方から
ブテック・インテリア・喫茶店・スナックなど、オーップン店舗が多く、高層ビルで、自分の移置が判らない。

国立競技場・青山一丁目・六本木へ


縁深い武蔵野の東南に年経た六株の松が聳える小高い丘があった。
その松はどこからでも見えたのでいつとはなしに人々はこの土地を「六本木」と呼び慣れ それがそのまま地名になったと言い伝えられる。 もとはわびしい叢に道行く人も稀であったが、寛永年間 佛寺五院が創立されるとその門前に商家も集い やがては瓦もいかめしい大名屋敷が立ち並ぶようになった。
延宝から大正迄幾度となく行った道路拡張で交通が便利になると、このあたり一帯は人馬の通いも繁くなり おのずから賑わいを増していった。
そして明治の代 隣地に兵営が置かれるに及んで土地の繁栄は一層めざましくみなぎる活気のうちに昭和に入ると 山の手でも指折りの盛区に数えられれるようになった、、、。
私の知っている「六本木」は、都電が通り寂しい街。

駅の周りは、オフイス高層ビルでどこに立ってるのかウロウロ
     
            
六本木から初めて降りる「麻布十番」駅


赤い靴は 履いってた 女の子の童謡の「麻布十番」はここ。「麻布十番」駅下車、江戸時代から続く古い商店街、下町の浅草仲見世・山の手の麻布十番と称されていた。
 

赤い靴の少女の「歌」は、大正10年野口雨情作詞の童謡、、モデルの女の子は、アメリカ宣教師夫妻の養女に、異人さんの国には渡らず
結核で、9歳で亡くなっている。麻布十番商店街と地元で募金を始め、可愛い像が立っている。

お昼時で大使館の外国人で一杯
 

「十番稲荷神社」は、末広神社(旧坂下町鎮座)および竹長稲荷神社(旧永坂町鎮座)両神社を、昭和20年戦災に遭い焼失、
昭和25年復興土地区画整理により、両社境内地を現在地に換地、隣接指定された。

小さいが地元鎮座する「お稲荷さん」
    

七福神めぐりの祀る神社で、ここからスタートお参り、その年の開運招福・家内安全を願う、お宝神社で、港七福神をお祀りする各社寺7カ所に加え、宝船の巡拝所であるここで合計8ヶ所お参りするのが特徴となっているという。

麻布十番には、心光院(浄土宗)・瑠璃光寺(曹洞宗)・日蓮宗宝山教会(日蓮宗)などと、廃寺になった空き地もあった。

「龍澤禅寺」                 本殿                        旧麻布区役所跡
     

鳥居坂交差点の鳥居坂を上る。麻布は、 坂の多い街である。

墓地が見当たらないお寺が
    

永井荷風も好きな街「麻布」坂で知られ、芋洗坂・永坂・暗闇坂・大黒坂など。荷風は、西洋の都市においてもニュ―ヨークの平坦なる所より
コロンビアの高台に上る石級を好む、巴里の大道よりもモンマルトの高台を愛した、、、、。

空き地に石像が
    

昔は、お寺、墓地の多い所
    

江戸幕府は、この一帯、来日した外国人を集めている。その為各国の大使館が多い。警備上のことらしいが。
アメリカ公使館は、1856年安政3年「善福寺」境内にあったと云う。

「柳の井戸」坂の多い麻布、今でも湧水が、この井戸、都環境局が指定する「東京の名湧水57選」の1つということ。

都23区内では、板橋区 不動の滝 、大田区 多摩川園ラケットクラブ跡地、清水窪弁財天、田園調布本町緑地六郷用水、六郷用水沿い洗い場跡、北区 赤羽自然観察公園、新宿区 おとめ山公園、渋谷区 清正の井(明治神宮)、杉並区 善福寺川御供米橋下流、世田谷区 等々力渓谷・等々力不動尊 、烏山弁天池 、岡本静嘉堂緑地、練馬区 清水山憩いの森、文京区 関口芭蕉庵、目黒区 目黒不動尊、ここ。

麻布山 善福寺                          柳の井戸(東京湧水57選)
    

「善福寺」は、824年に弘法大師・空海によって開山されたと伝え、当初は真言宗の寺院であったという。
その後、鎌倉時代になって越後国に配流になっていた親鸞が当寺を訪れ、浄土真宗に改宗したとされ、
その後、各時代の天皇や幕府などの保護を受けて発展を遂げた。

山号 麻布山。宗派 浄土真宗本願寺派。本尊 阿弥陀如来。創建・天長元年824年。開基は、伝・空海。
文化財ー木造了海坐像(重要文化財)、ハリス記念碑(アメリカ公使館跡)、逆さいちょう(天然記念物)福澤諭吉の墓・越路吹雪の碑。

善福寺勅使門                    本殿
    

安政5年の1859年には、日米修好通商条約に基づき当寺院内に「初代アメリカ合衆国公使館」がもうけられ、タウンゼント・ハリスらが在留した(当寺院に墓所がある福澤諭吉も出入りしていた)。
その後21世紀になった現在でも、由緒ある寺院としてその名で知られている。
 
通訳のヘンリー・ヒュースケン殺害などの不幸な出来事が続き、アメリカ公使館は、明治8年 1875年まで存続した港区明石町にあった
外国人居留地から移転。
公使館を境内に、ハリスのレリーフを刻んだ初代アメリカ公使館跡の碑が建てられている。

寺にはもう1つ、江戸時代からの名物がある。枝が地に向かって伸びているように見える「逆さイチョウ」である。
親鸞が植えたとも伝えられる樹齢700年を超える老木で国の天然記念物となっている。
石碑によると、最初のアメリカ公使館は1859年7月7日設立とある。

鐘楼                 初代アメリカ公使館跡
    


次回は、赤根橋、大門方面に。

代々木~青山 国立競技場 乃木神社

2013-07-13 | 気まま旅

明治公園は、新宿区霞ヶ丘町・渋谷区千駄ヶ谷にある都立公園。明治神宮外苑に隣接、同神宮の管轄ではない。
国立競技場が東京オリンピックのメーン会場に決まった際に整備され、1964年に開園したしている。
公園用地は外苑西通りを挟んで東西に分かれる。西の渋谷区側には東京体育館、陸上競技場などがあり、東の新宿区側は霞岳広場がある。
明治神宮野球場(神宮球場)、国立霞ヶ丘陸上競技場(国立競技場)、日本青年館、秩父宮ラグビー場、聖徳記念絵画館、神宮外苑、東京体育館、新宿御苑などがある。
国立競技場に隣接するため、同競技場で多数の観客が訪れる試合が開催される場合は霞丘広場などが観客の待機場所として利用される。

「都庁前~新宿駅」の次が「代々木駅」下車。


代々木の、この二寺は、以前訪ねている。

御府88ヶ所、第10番 観谷山 「聖輪寺」は、本尊  如意輪観世音菩薩、創建 726年、開基 行基菩薩、 真言宗豊山派の寺。
所在地 東京都渋谷区千駄ヶ谷一丁目13-11 (地図表示:マピオン)
御詠歌 欲心をただ一筋に切幡寺 後の世までの障りとぞなる
メモ 寺伝によれば行基菩薩の開創とされ、本尊の如意輪観音も行基菩薩の作と伝えられる。御府内八十八ヶ所の中でもっとも古い由緒を伝える札所である。ただし、本堂は現代風の建築である。

境内に、庚申塔 身守不動尊

「聖輪寺」は、二度目                     開祖行基の古寺
    

行基は、3尺5寸の如意輪観音像を彫刻し、それが本尊、1469年頃渋谷氏一門は、黄金長者と呼ばれ(青山長者丸は、跡地になる)
1573頃、国中疱瘡が流行し、その本尊を川へ運び童達が水遊びしたところ、里人は、疱瘡から免れたとある。
1598年頃盗賊が双眼を黄金と思い、くり抜いたが、自刃で身を刺して自殺したと云う。それ以来、観音を「目玉の観音・千駄ヶ谷観音」
と云う言い伝えが。

狭い境内に                    貴重な石像等が
    

法雲山「仙寿院」日蓮宗寺院、は、1644年 紀伊の太守徳川頼宣の生母お萬の方(法名養珠院妙紹日心大姉)の発願により里見日遥(安房の太守里見義康の次子)を開山として創建したといわれ、本尊 阿弥陀如来。
江戸期は、紀伊徳川家、伊予西条松平家の江戸表における菩提寺祈願所として、十万石の格式をもって遇せられ、壮大な堂宇と庭園は江戸名所の一つに数えられ、新日暮里とも呼ばれていた。
お萬の方は、徳川家康の側室で紀伊徳川家の祖、頼宣水戸徳川家の祖、頼房の生母でもあり、また法華経の信仰篤く日蓮宗門の大外護者として知られている。
開山里見日遥(一源院日遥上人)は、後に飯高檀林へ招かれ多くの法弟を育成し、更に越後村村田妙法寺へ瑞世した。日遥を祖とする千駄ヶ谷法類は、当山を縁頭寺。

法雲山・仙寿院」            日蓮宗の寺でここも二度目
  

江戸期において隆盛を誇った当山も明治維新の変革によって衰微し、火災によって全山焼失、その後、里見日玞により復興されるも、
昭和20年戦災で再び全山焼失し、昭和39年東京オリンピックの道路工事などによって寺観は一変したが、
昭和40年には本堂・書院を再建、昭和59年には書院・客殿を増改築し、昔日には遠く及ばずながら復興し現在に。(境内掲示より)

本堂                           境内の石仏など
    

「国立競技場」駅


国立競技場は、1964年の東京オリンピックの競技会場として建設された。
現在でも各国立競技場にはオリンピックマークと"Tokyo 1964" を合わせたエンブレムが残っており、東京オリンピックの会場であったことを偲ばせている。
国立競技場の競技は、 メインスタジアム(国立霞ヶ丘陸上競技場)、陸上、サッカー(決勝戦、3位決定戦)、馬術(大賞典障害飛越)
秩父宮ラグビー場-サッカー場、開催時は、人混みであるが競技の無い時は静かな公園。

第一体育館-水泳・ 第二体育館-バスケットボール・西が丘会場(国立西が丘競技場)-サッカー場にも近い。

                    国立競技場正面                  246・319号交差点
    

「青山一丁目駅」は、港区になる。東京地下鉄(東京メトロ)・東京都交通局(都営地下鉄)の駅。

東京メトロの銀座線と半蔵門線、都営地下鉄の大江戸線が乗り入れており、接続駅となっている。
各路線とも駅番号が付与されており、銀座線がG 04、半蔵門線がZ 03、大江戸線がE 24。

「青山一丁目」駅に


「赤坂消防署発祥の地記念碑」、区南青山に建つ石碑。碑は火消しの纏の形をしている。
赤坂の消防暑は、 1894年 消防規則公布により設置、 1899年に消火栓を設置された。 1948年に、自治体消防制度発足している。

「青山通り」は、江戸時代、「厚木街道」と呼ばれていた。
五街道に次ぐ主要な街道と1つで、明治時代に入ると、急速な交通機関の発達により大規模な道路改正計画が公示されるも、日清戦争の影響で計画は頓挫し、1904年には市電が青山通りの三宅坂から青山四丁目(現在の外苑前付近)まで開通、明治末には内堀通りから渋谷までが路面電車で結ばれている。
大東亜戦争末期の昭和20年5月、アメリカ軍による東京大空襲(山の手大空襲)により、赤坂地区(赤坂・青山)は激しく被災、
被害率は98.3%にも達する焼け野原となった。

                     新宿ー青山ー六本木 青山通り
    

「乃木邸跡・神社」は、再掲載。

乃木は、日露戦争における自責の念で、日露戦争において多くの兵を失ったことに自責の念を感じていた。
時間があれば戦死者の遺族を訪問し、「乃木があなた方の子弟を殺したにほかならず、その罪は割腹してでも謝罪すべきですが、今はまだ死すべき時ではないので、他日、私が一命を国に捧げるときもあるでしょうから、そのとき乃木が謝罪したものと思って下さい」と述べた。
東郷平八郎や上村彦之丞とともに長野における戦役講演に招かれた際、勧められても登壇せず、その場に立ったまま、「諸君、私は諸君の兄弟を多く殺した者であります」と言って落涙し、それ以上何も言えなくなってしまったという。

外玄関                邸宅                               子供と乃木大将
    

全国「乃木神社」は、相次ぎ建立され、乃木神社建立、乃木邸の保存、新坂の乃木坂への改称等を希望するとの意見が示され現在に、その後、京都府、山口県、栃木県、東京都、北海道など、日本の各地に乃木を祀った乃木神社が建立された。

馬小屋、白馬もここに                        庭園から乃木神社へ
    

乃木は、楠木正成を深く崇敬し、尽忠報国は正成を見習ったものという。
乃木は正成に関する書物をできる限り集め考究した。正成が子の正行と別れた大阪府三島郡島本町の史蹟桜井駅跡の石碑の「楠公父子訣別之所」という文字は乃木によって書かれたもの。
楠木正成について次のような歌を詠んでいる。

           いたづらに立ち茂りなば楠の木も いかでかほりを世にとどむべき

           根も幹ものこらず朽果てし楠の薫りの高くもあるかな

神社前を乃木坂と云う。
 
                              拝殿                    乃木坂
    


次回は、六本木方面。