syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

都庁前 都心に白糸の滝

2013-07-11 | 気まま旅
光が丘から10番目、中野区と新宿区境界「西新宿五丁目」。ビルの地下道を出ると、ここはビル街であった。
新宿は、よく知っていると思いきや、どの辺に立っているのか判らない、地図を広げ歩くと、こんもり緑の一画が、
新宿総鎮守として知られている。「熊野神社」。

西新宿駅を出ると              副都心の高層ビルが林立        交差点角に熊野神社が    
    

熊野神社は、大江戸線・西新宿五丁目駅より約徒歩5分、隣の都庁駅からも5分にある。

中野長者と呼ばれた室町時代の紀州出身の商人・鈴木九郎によって1394年 - 1428年に創建されたものと伝えられている。
また、当地の開拓を行った渡辺興兵衛という人物が祀ったという異説もある。
鈴木九郎は代々熊野神社の神官を務めた鈴木氏の末裔で、現在の中野坂上から西新宿一帯の開拓や馬の売買などで財を成し、人々から
「中野長者」と呼ばれていた。鈴木九郎は当初自身のふるさとである熊野三山の若一王子を祀ったところ、商売が成功し家運が上昇したので
後に熊野三山から十二所権現をすべて祀るようになったのが始まりとされている。
付近の地名「十二社」は、これに因んでいる。
現在でも通りに、十二社通り、や新宿十二社温泉名などに見られる。

早朝神社は気持ち良い           神水で手を洗い                 本殿に参拝
    

「文化財」は、広重「名所江戸百景」に描かれた熊野十二社。十二社池が描かれている 十二社の碑 区指定史跡 1851年に建てられた。
(十二社を紹介する記念碑)。 七人役者図絵馬 区指定有形文化財(絵画)1773年に奉納された絵馬。(製作者は浮世絵師の一筆齋文調)

他に、式三番奉納額、1764年作と1847年の二つ。(江戸三座のうち、市村座における式三番の模様を描いた奉納額)、水鉢 など。
区の指定有形文化財に。

狂歌 大田南畝の水鉢                     公園から都庁ビル正面が
    

「新宿中央公園」は、隣接する熊野神社の敷地の一部であり、戦前には小西六写真工業(現:コニカミノルタ)の工場敷地などになっていた。それに戦後新宿副都心計画の一環として、淀橋浄水場の跡地と併せて、西新宿に勤めるサラリーマンなどへの憩いの場として公園として整備されることになった。
公園の北端には新宿区立環境学習情報センターと新宿区立区民ギャラリーの複合施設エコギャラリー新宿が設けられた。

広さは、8万8065m²。開園 1968年。園内には、ちびっこ広場、ジャブジャブ池、水の広場、四季折々の花、樹木が。
(ホームレスの段ボールも)

園内の白糸の滝の噴水                       犬の散歩芝にはホームレス
  

「都庁前」駅は、都庁ビル地下で中央に出られる。都庁を囲むように新宿超高層ビルが聳え立っている。
三井、住友、安田、京王、第一など。
(このシリーズ最終にまた取り上げます)

「都庁前」駅下車


昭和29年、ビル街のばい煙による空気汚染が問題に。都は都心部547のビルに対して「ばい煙抑制に協力を」求めた。
開都500年記念大東京祭が、 昭和31年開催され、大名行列パレードなど全都をあげて多彩な催しが繰り広げられた。
旧都庁第一庁舎竣工 昭和32年、都庁第一本庁舎(丸の内庁舎)が完成。

その後、都庁舎は96年ぶりに丸の内地区を離れ、新宿副都心に移転。

京王・住友・三井ビルの林立                   都庁ビル
    

渋谷初台の「ふどう通り商店街」が、甲州街道と山手通りの交差点に出て、山手通りを北上し、約4分、西新宿四丁目の交差点の先を左折した所に、「ふどう通り」のアーケードがある。
新宿よりのアーケード約約800mの小さい商店街、このへんは、渋谷区本町になる。初めての散策で期待したが。
商店街それらしい感じが無い、朝であるのか?
商店街の中央辺りに「幡ヶ谷不動 荘巌寺」が。

不動商店街に


光明山真言宗 荘厳寺(幡ヶ谷不動尊)城南20ヶ寺第11番。

境内に入ると本堂、山門前に石造の狛犬が一対、創建は、1561年、開山有悦法印と伝わる。
江戸名所図会1836によると、不動明王像は、三井寺再興の智証大師円珍の作と云う。像は、平将門を討つた平貞盛と藤原秀郷後武田信玄
北条氏政と武将たちによって各地に安置されており江戸中期1747年ここ荘厳寺に安置したと云う。
奥書院には、芭蕉の句 暮おそき 四谷過ぎけり 紙草履。

荘厳寺                     山門                 本殿
    

江戸近郷の三不動(成田山、光明山、高幡山)の一つとして広く尊崇を集めたと云う。
「江戸名所図会」には、「幡ヶ谷不動明王」の条を立てて紹介されている。
また寺の前の道路は、「不動通り」と呼ばれ、古くから不動尊への参道としてにぎわい、現在は商店街 「不動通り商店街」となっている。

恥ずかしいが、食べる葡萄と勘違いしていた。

道しるべ                       古い石塔
    

次回は、新宿駅は、通過し「代々木方面」に。
      

東中野・中野坂上駅

2013-07-09 | 気まま旅
JR中央・総武線の「東中野」駅は、各駅停車、キロ程12.8km(東京起点)・ 千葉から48.9km。開業 1906年。
都営地下鉄「東中野」駅は、開業 1997年。出口はJR改札に繋がる。



ここは、山手通り、早稲田通り、大久保通り、に囲まれ、JR中央線に沿って桜並木、山の手通りを渡ると、「銀座商店街」に入る。
商店街には、中スーパーや薬局や専門店と惣菜・とんかつ・豆腐・串焼き等、喫茶店のコヒーの香りが、面白そうな商店街

山手通りを真珠方面に歩いてみた。中野区と新宿区の境。

JR・地下鉄「東中野」駅          駅前商店街            氷川神社鳥居     
    

「氷川神社」は、東中野一丁目にある、旧中野村の総鎮守社。

祭神  須佐之男命、 奇稲田姫命、 大巳貴命。

1030年、源頼信が平忠常討伐の際に武蔵国一宮・大宮氷川神社より勧請し祠を建立したことに始まるという。
1477年、太田道灌が豊島泰経・泰明兄弟討伐の際に当社で戦勝祈願し、凱旋後社殿を造営したとも伝わる。

氷川神社
    

江戸時代には総護摩行が行われ、湯立神楽をあげ、淀橋・上宿・下宿・西町・仲宿・打越・囲・原の氏子がそれぞれの地区の幟や提灯の美を競い、豊年には、獅子舞・相撲・力石くらべなども行われて、近在をあげての盛大な行事になっていたという。
拝殿にある中世の石の狛犬をはじめ、境内には中野の歴史を語る多くの遺品が残されいる。「中野区教育委員会掲示より」

境内                     拝殿                    狛犬
    

「中野坂上」駅は、

東京メトロ丸ノ内線と、都営地下鉄の大江戸線が乗り入れ、接続駅。
各路線の駅番号は丸ノ内線がM 06、大江戸線がE 30。
丸ノ内線については、当駅で本線と方南町支線が分岐しており、折り返し運転を行っている。



「宝泉寺」二度目になる。

真言宗豊山派の寺院、中野区でも屈指の広大な寺院で、千年近くの歴史を誇る古刹。
山号は明王山、戦前は、中野町役場も置かれていた。

後三年の役の時、護持していた不動明王像を安置するために寛治年間に源義家によって現在の杉並区・阿佐ヶ谷にて開かれた。
寺は、同じ杉並区の大宮八幡宮の別当寺、本尊は鎌倉時代には秘仏になった。
室町時代になり、現在の位置に移転し、1429年。 江戸時代には、優れた僧を出し、歴代の将軍から厚い保護を受けた。
寺院の僧侶が将軍の御前論議に参加することもあったと云う。
将軍家が鷹狩りに出た際の休憩所としても利用され、明治期以降、境内には中野町(現在の中野区)の役場が置かれていた。
戦災を被ったものの、戦後再建され、三重塔や本堂を見ることができる。

宝泉寺                        仁王門


三重塔(江戸六塔の一つで江戸時代に創建されたが戦災により焼失。現在のものは戦後に法起寺三重塔を模して飛鳥様式で再建)
中野町役場跡の石碑、 山門の仁王像、 堀江家の墓(檀家総代でもある堀江家は平安時代から代々中野一帯を開拓していった草分け地主)

中野町役場碑                   本殿


「鷺ノ宮囃子を楽しむ会のイベント・茅葺民家」に参加しました。
茅葺民家で鷺ノ宮囃子を楽しみました。

目的は、区内の建物を大切に思う気持ちを共有し、これからの中野のまちづくりに活かしていく方法を探っていきたいと云う会でした。

約180名参加。

             中野鷺ノ宮、茅葺民家


江戸時代の建築様式で貴重な「たてもの」

昔の奈良漬けの製造跡(瓶など)、作業着の半纏、母家を開放して「鷺ノ宮囃子」を。
鷺宮囃子は、江戸の末期頃から鷺宮の地域に伝わるもので、1982年に中野区の登録 無形民俗文化財の指定を受け、 鷺宮の伝統行事であり、地域で大切にされて いる。
お囃子は、笛・太鼓、小太鼓、鉦の5人で演奏される。

               古い看板や作業半纏など


「庚申塚・塔」は、村境などに、青面金剛を祭ってある塚で、三猿(さんえん)を石に彫ったものなどを一緒に立てる。
中国より伝来した道教に由来 する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。庚申講を3年18回続けた記念に建立 されることが多い。
塚の上に石塔を建てることから庚申塚、塔。

鷺ノ宮は、鎌倉街道が横切り、小さな塔を見ることができる。

「鷺宮八幡神社」は、1064年 陸奥守源頼が東国征伐の後鎌倉街道に面した当地に源氏の隆昌を祈願して創建したと伝えられ、当地には鷺が多く生息していたことから、鷺宮八幡、鷺宮大明神と称された。
1648年には、江戸幕府より社地7石余の御朱印状を拝領している。

           鎌倉街道に近い庚申塚                     鷺ノ宮八幡神社


祭神は、応神天皇。境内社に、稲荷神社、御嶽神社、八雲神社、北野神社、粟島神社、疱瘡神社の拝殿
祭日は、例大祭8月 (旧上鷺ノ宮村・下鷺ノ宮鎮守)

神社入口                    拝殿                     狛犬


鷺ノ宮「福蔵院」

鷺宮の旧家で、大野家は1381年に、早舩家では1558~70年に、ここ鷺宮に移ってきたと伝えられ、「白鷺山福蔵院正幡寺」も、
「鷺宮八幡神社」もこの時代に開山創設されたといわれている、
鎌倉時代中期から室町時代にかけて、人々の信仰のよりどころとしてつくられた板碑(石板でできた塔婆)が、
鷺宮からも発見されている。板碑は、必ず年号が入っているので大切な歴史の資料となる。
(板碑 1360年頃のもの 福蔵院より出土など)

福蔵院                            楼門


山号 白鷺山、 本山は、長谷寺(奈良)、 開山1501~1520年頃という。 本尊は、不動明王、 宗祖・弘法大師 開山・頼珍和上。

、開山・頼珍和上は、当院過去帳によれば大永元年寂したと記録されている。その後、江戸時代の宝暦12年に火災に遭い、堂宇すべて灰塵に帰したと言われている。現在の本堂、庫裡は第29代住職・星野俊英が住職在世当時の、昭和35年に落慶したもの。

本堂右手の鐘楼堂は昭和38年に完成した。当院はもともと旧野方村、上鷺宮、下鷺宮の農民たちの菩提寺としてその役割を果し、戦後の都市化により鷺宮が変貌するにしたがい、発展、鷺宮地区の地元民を中核として教化・活動をしている。

13列の石仏                               本殿


次回は、西新宿五丁目・都庁駅方面へ。

中井駅と林芙美子記念館

2013-07-07 | 気まま旅
「中井駅」は、新宿区。
西武新宿線で高田馬場から2駅目に、周辺には商店街や住宅地があるだけといった、ローカル駅なのだが、西武線中井駅プラットホームは山手通りの橋の下になる。
山手通りと交わるところで、駅の上には、現在、その橋の架け替え工事が行われている。

大江戸線は、商店街のほぼ中央に出られる。山手通り方面に歩いた。



新宿区は、武蔵野台地の東端に位置し、淀橋台・豊島台とに細分されて呼ばれている。
神田川は、落合付近を南北に分けて流れて、やがて神田川に合流する妙生寺川を中心にして、樹枝状谷地が分布している。
落合周辺、 落合の地名は妙正寺川と神田川とが合流するところ所で落ち合うところから名前がつき、このへんは、落合台地。
山手通りの方から西の「一の坂~八の坂」まで番号順に並んでいる。

四の坂左手の日本家屋に「林芙美子」が住んでいた。
林宅の庭園の入り口に、「男坂」と「女坂」がある。
八の坂を上りきったところに「中井御霊神社」があり、ここは昔の落合中井の鎮守で、その年の豊作と安産を願う神事が室町時代から行われていたと云う。

                        商店街通り出口    住宅街にある喫茶店ら・ら・ら
    

神田川の架かる「みなか橋」戸西武線を渡ると「林芙美子記念館」がある。

「林芙美子」1903-51 山口県生まれ、貧乏で各地を放浪し、働きながら尾道高等女学校卒業、画家手塚緑敏と結婚。「清貧の書」結婚生活
「牡蠣」「泣き虫小僧」「晩菊」「浮雲」、出世作「放浪記」、戦中は、従軍作家として活躍、過労で倒れ後「めし」連載絶筆となった。

1930年ここ落合に移り住む、1939年土地を購入している。芙美子は、建築で、設計・大工と共に京都の民家を見学、材木なども選ぶと云う思い入れと云う。
庭一面に孟宗竹にしていたと云う。

神田川に架かる「みなか橋」      林芙美子記念館はこの角に、      玄関
    


玄関・客間は、原稿取りの記者が入れ替わり立ち替わり待たされ、朝10時に開けていたという。親しい記者のみ茶の間に通されていた。

茶の間、堀りごたつ、吊戸棚、収納式神棚など暮らしやすさの一家団欒の場であった。芙美子の母・キクは、大きな座布団を敷いて座っていたという。

                    居間から見る庭園
  


庭、孟宗竹は、次第に切られ客間の一部に、今は、寒椿、ざくろ、かるみや、紅葉、又カタクリ・サフランなど草花が、

アトリエは、現展示室に、年4回展示替えが(芙美子が夫の為に作られた)

書斎は、芙美子は熱中すると強度の近眼用眼鏡をはずし、顔を机に付けるようにして執筆していた。

                  客間              孟宗竹が
  

寝室、書斎が明る過ぎと云い、奥の寝室に移し、親子3人揃ってここで朝食していたと云われている。

小間、客間や書生達が                   入館料 ¥150、

玄関                 落ち着いた庭園           涼風が
    


真言宗豊山派 高天山 「大徳院 最勝寺」は、弘法大師 御府内八十八ヶ所霊場第二十四番霊場。


本尊 釈迦牟尼如来、開創は、 鎌倉時代 北條時頼(1250年代)と伝えられている。総本山 長谷寺 奈良県桜井市初瀬
 
祖師 宗祖  弘法大師(空海)、中興祖 興教大師(覚鑁)、派祖  専誉僧正。

大徳院 最勝寺              お堂                 工事中の本堂
    

真言宗は、全てのものの存在を肯定する曼荼羅思想や、全ての人間にやどる仏性の光明を見つめる即身成仏思想をもとに、世のため人のためにお報いしようという「四恩酬答」の教えが基本となっている。

般若理趣経・般若心経・観音経・光明真言など、大宝篋印塔は、古く1759年建立されたもの。

鎌倉時代、北條時頼の開基と古寺、境内には歴史を物語る石仏、石造品が多い。特に門前の標石(江戸時代の道しるべ)や、十一面観音菩薩像、正観音菩薩像など。

古寺の石仏                                 本堂
  


次回は、東中野駅方面に。

新江古田・落合南長崎駅

2013-07-05 | 気まま旅

光が丘ー春日町ー豊島園ー練馬ー新江古田駅、「江古田」は、中野区・練馬区で中野よりに哲学堂公園になる。
江古田の獅子舞は有名、氷川神社と練馬区側と云えば西武池袋線江古田駅になる。
中世の太田道灌ゆかりの古戦場「江古田ヶ原沼袋」がある。
西武線方面に向かう。

江古田銀座商店街に、西武線「江古田」駅南口に広がる商店街で、線路を隔てた「江古田ゆうゆうロード」とは踏切付近でつながっている。
飲食店をはじめ、300近い専門店などが並ぶ。
学生街らしく弦楽器の専門店もある。午後には多くの買い物客であふれる活気ある商店街。

大江戸線は環七通りに                    商店街は西武線江古田駅
    


「中野区江古田の森公園」は、1919年東京市の療養所があり、後の国立療養所中野病院。 1971年 都市計画により、国立療養所中野病院に隣接してあった野方苗圃の部分を公園として整備し、都立北江古田公園として開園され、当事は、面積約16,000m²と小さかった。
1987年 北江古田公園の管理が中野区に変わり、中野区立の公園に、 1993年 国立療養所中野病院が、新宿区の国立国際医療センターへ組織統合され移転。 2007年 病院跡地が公園と福祉施設として整備され、北江古田公園の部分と併せて、全体で「江古田の森公園」として開園。
面積:58,911m²と広い。

江古田は、練馬・中野区の境に、                    新宿区の西落合も近い
    


主な施設は、 芝生広場、球技場、遊歩道、 ビオトープ池、 ハナミズキの丘(かつて野方苗圃だった時に当地でアメリカハナミズキの栽培をしていたことにちなむという。保健福祉事業団による福祉施設など。

広大な園内
    

江古田獅子舞巡行絵巻 (江戸後期)区登録有形文化財

獅子や四神・お囃子などの一行が、舞を奉納する江古田の氷川神社へ行列をする様を、多少姿を変えてはいるが、現在も行われる巡行である。中野区内旧名主家の伝世品からと云う。

江古田獅子舞絵巻が
  

将軍吉宗は鷹狩が好きで度々中野にやってきますが、その時代にこのあたりに桃の木が植えられ、それ以前は、綱吉将軍のあのお犬様のお囲い跡です。
五代将軍綱吉と八代将軍吉宗は、間に二代の将軍をはさんでいるものの対照的。
桃園は庶民の行楽地にもなり、最初の国立公園だという人がいます。
「桃園」という地名があったという。

徳川家鷹狩ゆかりの地
  

「練馬 東福寺」は、真言宗豊山派の寺院、金峯山世尊院と号す。
寺の創建年代は不詳、1573-1593年 江古田村の村民が開基となり、村内御嶽山に創建したと伝えられている。
江戸時代には3代将軍家光が鷹狩りの際に休息し、3代将軍吉宗は御膳所に指定している。
豊島八十八ヶ所霊場2番札所です。

東福寺                 突き当りが本堂                お堂
    

新義真言宗にて中野村「宝仙寺」の末寺。
此寺元は村内御嶽山の邊にありしを、年月詳ならず此処へ移したりと云。本堂は8間半に7間。本尊不動の立像長1尺2寸。開山詳ならず。法流の祖を法運と云。享保7年示寂。開基は村民次郎右衛門が先祖にて、天正年中に起立といへど其詳なることを傳へず。

鐘楼。本堂の西にあり。鐘は宝永7年の銘を彫れり。(新編武蔵風土記稿より)

江古田森の公園に隣接                 本堂                    鐘楼
    


「落合南長崎」駅下車。ここは、新宿区北西部で、善福寺川、妙正寺川の合流点で落合に。駅は、他に営団東西線・西武新宿線で南部側に都
の水道処理場がある。地上は、中央公園。

「自性院」は、真言宗豊山派寺院、猫寺、豊島八十八ヶ所霊場24番札所前に出る。
西光山自性院無量寺は、弘法大師空海が日光山に参詣の途中で観音を供養したのが自性院の草創といわれている。
地蔵堂には秘仏の猫地蔵が祀られており、2月の節分会に開帳される。
江古田ヶ原の戦(1469~1486)で太田道灌が一匹の猫に救われたことから猫寺という愛称で親しまれ毎年2月には猫地蔵まつりが開催される。

江戸時代の明和4年(1767)に貞女として名高かった金坂八郎治の妻(覧操院孝室守心大姉)のために、牛込神楽坂の屋弥平が猫面の地蔵像を石に刻んで奉納しており、猫面地蔵と呼ばれている。二体とも秘仏となっており、毎年二月の節分の日だけ開帳されている。
毎年二月三日の午後に行われる節分会は、七福神の扮装姿の信徒らの長い行列が町内を練り歩く珍しいもので、秘仏開帳とあわせ、参詣客で賑わうという。区の文化財より

落合南長崎駅を出るとバス通り車の大渋滞                   渡ると静かな自性院
    

「落合野鳥の森公園」は、 新目白通りから一歩入ったところにある 薬王院と隣接した静かな区立の森公園。
池のほとりにあるモミジを中心にケヤキ、コナラ等たくさん の落葉樹が植えられており、時期になると競い合うように真っ赤な姿を見せる。

雨が少ないのか池は枯れていた。

野鳥の森公園は住宅街に                      緑一杯 
    

真言宗豊山派 瑠璃山 「薬王院」   下落合4丁目 野鳥の森公園となり

公園隣が薬王院              楼門                   高台に本堂
    


薬王院ー通称「東長谷寺」は、鎌倉時代の創建と伝えられ、その後江戸時代に中興され、本堂は昭和40年に、奈良-長谷寺と京都-清水寺とを模して建造で奈良の長谷寺の末寺になる。
本堂、参道、境内、山門など素晴らしい。

新目白通りを北へ渡ると、閑静な、落合の住宅街に入る。この家並みの中にひっそりと山門があり、ここからつづく細い参道の奥に、威風堂々とした"清水の舞台"が姿を現し、この周辺は、やや急勾配の斜面が続くところで、"清水の舞台"は、その斜面を利用するようにして造られていいる。この寺の舞台は南面しているので、天気が良い日には、その姿が一層引き立つと云う。

境内に数多いボタンが植えられ、「ぼたん寺」とも呼ばれている。


書院                  長い階段途中に石仏                   お堂
    

開山は鎌倉時代、相模国の大山寺を中興した「願行上人」、1673~81年に「実寿上人」が中興している。
1736~41年には火災によって焼失。明治11年 再興
江戸時代初期の墓石など境内には石造品が多い。
中世の板碑が8点保存されている。そのうち、徳治2年(1307年)、建武5年(1338年)、貞治6年(1367年)の3枚は、保存状態もよく大変貴重な資料と云う。
「ボタン寺」とも呼ばれ、見頃は、4月末から5月上旬。

本堂                                 総門彫刻
  


次回は、中井駅(西武線鷺ノ宮まで散歩)。

実山椒の収穫

2013-07-04 | 富士山麓日記
富士山が世界遺産に登録されて、7月1日は山開きでした。5合目あたりは大混雑、御来光を目指して大勢の人達が登ったようです。

私たちは毎年この頃、実山椒の収穫をします。 
この状態からゴミや小枝を除いて実だけにする作業をします。そして1年分の量のあくぬきをして冷凍します。

友人たちにも大人気でいつも「ちりめん山椒」を作ります。


この頃の富士山の庭、これは「あまちゃつる」

いんげんの花が咲きました。

ノコギリソウ