syuの日記・気まま旅

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豊島園駅 練馬駅

2013-07-03 | 気まま旅
大江戸線は、三番目の「豊島園駅」、西武池袋線の練馬駅から一つの引き込み線の終点「豊島園駅」園前広場もある。近くは目白通り、
まずは、豊島園の逆を歩くと、十一ヶ寺の寺町に。

出ると道路                          十一ヶ寺



1698年 - 塔頭として、快楽院、仁寿院、迎接院、林宗院、称名院、徳寿院、本性院、宗周院、得生院、西慶院、仮宿院、九品院、長安院、受用院、宝照院があった。
1716年-1736年 - 徳川家十人衆(当時の御用商人)並びに土井家、本多家、狩谷家が各塔頭を宿坊として外護に当った。
各宿坊はそれぞれ有力な外護を持ったが、いずれも本坊の支配下にあり、各住職は本坊に輪番出勤する制度であった。
1830年-1843年 - 悪疫流行時には、門前市をなす程の盛況だったという。 途中、寺院の入れ替わりがあり、塔頭は16院。
明治維新 - 改革により、御朱印地は、国に没収され、本坊の維持が困難となり、各院は本坊より別れて、各々ひとつの寺として独立し、従来の宿坊制度の各取次檀家は、各院所属の檀家となった。

大正12年(1923年) 関東大震災により、全院が焼失。1925年 関東大震災後の区画整理に伴い、本坊の誓願寺が、現在の府中市(多磨霊園正門前)に移転。現在は、誓願寺と田島山十一ヶ寺に関係はない。

昭和3年(1928年) 塔頭寺院(現在の練馬田島山十一ヶ寺)が、田島町仮屋から現在地へ移転された。 

塔頭が左右に、                   突き当り菩薩像と墓地に
    

1698年 - 塔頭として、快楽院、仁寿院、迎接院、林宗院、称名院、徳寿院、本性院、宗周院、得生院、西慶院、仮宿院、九品院、長安院、受用院、宝照院があった。
1716年-1736年 - 徳川家十人衆(当時の御用商人)並びに土井家、本多家、狩谷家が各塔頭を宿坊として外護に当った。
各宿坊はそれぞれ有力な外護を持ったが、いずれも本坊の支配下にあり、各住職は本坊に輪番出勤する制度であった。
1830年-1843年 - 悪疫流行時には、門前市をなす程の盛況だったという。 途中、寺院の入れ替わりがあり、塔頭は16院。
明治維新 - 改革により、御朱印地は、国に没収され、本坊の維持が困難となり、各院は本坊より別れて、各々ひとつの寺として独立し、従来の宿坊制度の各取次檀家は、各院所属の檀家となった。

大正12年(1923年) 関東大震災により、全院が焼失。1925年 関東大震災後の区画整理に伴い、本坊の誓願寺が、現在の府中市(多磨霊園正門前)に移転。現在は、誓願寺と田島山十一ヶ寺に関係はない。

昭和3年(1928年) 塔頭寺院(現在の練馬田島山十一ヶ寺)が、田島町仮屋から現在地へ移転された。

武蔵野千歳烏山の寺町に似ている
    

「練馬白山神社」は、平安時代 創建。 1281年に板碑が、神社周辺から出土。神社周辺に集落が発達していたと考えられている。
1797年 境内の鳥居を建立。 1806年 水盤を造立。 1818年 狛犬を造立。1832年 灯籠を造立。 1882年神輿と台座:3尺5寸を製造。

文化財ー 練馬白山神社の大ケヤキ 境内にある、2本のケヤキの大木。国の天然記念物に指定。

白山神社囃子は、区登録無形民俗文化財に登録。
大祭などで演奏される、相模流で中間の祭囃子で、江戸の里神楽の曲調を伝えている。
現在の保持団体で、白山神社囃子連が守っている。

白山神社鳥居               神木                 拝殿
    

「成田山新勝寺泰安新省講」の堂で参拝されていた。

「阿弥陀寺」は、1352年-1355年に、遊行8代渡船上人により、当地に時宗集団が生まれ、その拠点であったといわれる。
1380年には境内仏堂として成立し、江戸時代のころには、品川の長徳寺の説教所(阿弥陀堂)として付近の信徒を集めていた。
遊行69代一蔵上人が長徳寺の住職であったころ、一寺院として独立の動きが活発となり、忍善和尚の尽力で独立。

本堂前に「ひぎり地蔵」(享保14年(1729年))がある。文化財は、 阿弥陀寺の半鐘 区登録有形文化財に。
阿弥陀寺の伏せ鉦 あみだじのふせがね。区登録有形文化財。

白山神社前に
    

駅の目の前にある。豊島氏が治めた練馬城の跡地に建てられ、「豊島園」は、豊島氏による名から、
石神井川の南側が矢野山と呼ばれた雑木林、北側は練馬城址の城山で、板橋の「なべや」が同地を所有していた土地。
後に上練馬村長の増田が入手し、 明治後期 - 練馬城跡が豊島公園となる。

1916年 樺太工業(後の王子製紙)専務であった藤田好三郎が自身の静養地として、石神井川南側の12,000坪を入手。
景勝地だったため、この間には家屋を建てず自然のままで、休日ごとに家族で訪れていたという。

1925年- 藤田好三郎が、石神井川北側の18,000坪を入手、当時石神井川北側は悪田で、川の南北で土地の価値に大きな隔たりがあったという。藤田は悪田に池を掘って埋め立てをすれば、立派な土地になると見込み、2年がかりで入手した。
時勢が変わり、大邸宅を構えるのは不謹慎と藤田は考え、景勝地を公開して大衆と娯しむ遊園地に。

西武駅                       遊園地前                     園内
    

「練馬駅」環七通りに出る。近くに区役所がある。
練馬と云う所は、、武士の棟梁として関東の大武士団を形成したのが「桓武平氏」。 平氏は、東国の国司となって地盤を築き、
その子孫は各地の豪族となって発展した。
桓武天皇の曾孫平高望の土着にはじまり、その子国香・良兼・良将・良文・良茂そして孫の貞盛・将門の頃までには、一門は東国に地盤を築き大きな勢力を張った。
練馬と関係の深い豊島氏・葛西氏は、この良文の流れをくむ、平良文の孫、将常が秩父郡中村郷に土着として秩父氏を名のって以来、
その一統は、武蔵国一円にひろがり地方武士団として大きく成長していく。
系図によると武常が豊島・葛西両氏の祖となっている。
武常は秩父を出て、早くから利根川や荒川河口の周辺を開発し、豊島・葛西地方にまたがる荘園を領し、その子孫は在名によりそれぞれ豊島氏や葛西氏を名のった。

西武練馬駅前に出た                                 駅前商店街
    

「練馬区立文化センター」駅から1分
1920年 現在地に大日本紡績練馬工場が、 1970年 現在地にあった鐘淵紡績練馬工場が廃場。 1983年 昭和58年 開場している。
文化センターの建物を囲んで整備された区立の公園になっている。家族連れでお弁当を。

    

大江戸線は、環状7号線豊玉陸橋から新江古田駅へ、練馬区から新宿区に入る。


駅前は、区民の憩いの公園に
  


次回は、落合南長崎・中井と進行。

大江戸線 光が丘から

2013-07-01 | 気まま旅
今回「都営地下鉄の大江戸線」を一駅一駅、散歩してみた。10回余りとなる予定。まず光が丘から・・。
光が丘駅は団地の大型スーパー店の地下になる。

都の陸の孤島と云われた「練馬区・光が丘」、武蔵野台地に位置し、石神井川と1696年多摩川用水の千川用水が開かれ、その後灌漑用水とされ、江戸に出荷する野菜を供給する近郊農村であった。練馬大根は全国的に知られている。
戦後は、キャベツと宅地化と基地の混在区。

大戦中は、陸軍の成増飛行場があり、その跡地に米軍が使っている。1973年返還、地名も光が丘になり大団地が建てられた。
光が丘は、区のやや中央に位置し近くは、高松・谷原・土支田・田柄・春日町に囲まれている。

グラントハイツ跡地(光が丘地区)に大規模住宅団地建設をはじめとした再開発を行うことが決定され、交通網整備の必要性が高まった。
そのため、都が1982年に策定した「都長期計画」の10ヵ年計画において、地下鉄12号線を建設することが決定。
特に、この時点で需要の見直しや建設費用の見直しを行い、小型地下鉄車両(16.5m車両による8両編成)によるトンネル断面の縮小、駅設備を縮小され、運行形態 は、全線で開業当初よりワンマン運転を実施し、保安装置にATC装置を使用、列車の自動運転機能を有するATO装置を使用しているという。
1991年光が丘―練馬間開業。

「大江戸線」の路線番号が「12号線」と仮称され、1996~1997年あたりの開通を目指していたとか。
色々な事情で工事が延長され、全線開通日が平成12年(2000年)の後半あたりになりそうだとわかってからあえてこの日にちに開通、
開通日が平成12年12月12日という、また、12時12分にも記念行事が行われ、「都庁前」を特別列車が発進したという。


8両編成分137mのホームを列車のモニター画面で運転士が監視をしている。
列車停止時の監視ならびに列車発車時においては列車最後部がホームを抜けるまでの間、運転士がホーム監視モニター画面でホーム上を監視し、触車事故などの場合には運転台の非常停止スイッチで列車を停止させる方式を採用。
2013年4月27日には全駅でホームドアの整備が完了している。

まず、光が丘駅からスタートする。練馬区には、練馬春日町・豊島園・区役所のある練馬・新宿区の境,新江古田と続いていく。

車内は少々狭いが乗りごごちは悪くない


新宿線・埼京線・湘南新宿ライン・中央線・中央・総武線・山手線・小田原線・京王線・ 丸ノ内線

新宿ー都庁前駅ー西新宿五丁目駅 (清水橋)ー中野坂上駅( 丸ノ内線)ー東中野駅(JR中央・総武線(各駅停車))-中井駅(西武鉄道:新宿線)
落合南長崎駅ー新江古田駅ー練馬駅(西武鉄道:池袋線・西武有楽町線・豊島線)-豊島園駅(西武鉄道:豊島線)-練馬春日町駅ー光が丘駅。


全て自動で、先端を


路線距離:全長 40.7 km 光が丘 - 新宿間(放射部) 12.9 km。
            新宿 - 都庁前間(環状部) 27.8 km。

ホームも明るく清潔


運輸政策審議会は「鉄道空白地帯である大泉学園から武蔵野方面への延伸を検討すべき」と答申。
2000年には「光が丘~大泉学園町は2015年までの整備着手が妥当」と、具体的な時期まで示している。どうなるか?。

案内板も見やすく解り良い


光が丘駅前、大型スパーの地下になる
    

大型スーパー地下、光が丘団地の中央に出たのか?住宅マンション以外団地の公園があるだけで次の「練馬春日町駅」へ

団地。団地また団地
  

練馬春日町駅前「練馬大根の産地」環状八号線口にでる。

ふじ大山道

大山は、雨乞いに霊験のある山として昔から農民の間に関心が寄せられ、大山阿夫利神社は、農民から五穀豊穣や雨乞いの神としての信仰を受け、日照りが続いて飢饉が多くなると、多くの農民達が参詣。
江戸時代に関東地方各地で「大山講」が組織され多くの参詣者を集めることとなり、大山講の中でも江戸日本橋小伝馬町の「お花講」の人たちが夏山祭りの初日に大山頂上への中門を開くのが元禄以前からのしきたり。
道中の参詣者は、白の行衣、雨具、菅笠、白地の手っ甲、脚絆、着茣蓙という出で立ちで腰に鈴をつけ、「六根清浄」の掛念仏を唱えながら、5 - 6人、多い時には20 - 30人が一団となって、7 - 9月を中心に大山へと向かった。
また、盆・暮れの借金の回収時期に「大山参り」をしていれば、借金は半年待ってくれるという恩典もあった。最盛期の宝暦年間には、年間約20万人の参詣者を数えている。
こうしたことから、関東各地から大山への参詣者の通る道が次第に「大山道」と呼ばれて定着化し、道標にも記されるようになっていった。大山道は大山を中心に放射状に広がり、関東地方の四方八方の道はすべて大山に通ずると言っても過言でない状況。
大山道沿道や相模川の渡船場などでは、宿場として栄える所もあった。大山からの帰路は江ノ島、鎌倉などの観光も行われ、大山参詣は一種のレジャーとしての要素も兼ね備えていた。古典落語の「大山詣り」もそうした背景から。
富士講による富士山への参詣者も同じ道筋を通ったことから、一部の道には「ふじ大山道」という名称も見られた。富士山への参詣者も必ず大山にも参詣するのが通例となっていたという。

練馬春日町駅は、交差点に
    

海老・谷戸馬頭観音・道しるべが(練馬青少年会館脇に)

古道・大山道の道しるべ道標、道祖神が、 現在、江古田、豊島 、長崎(豊島区)、下谷坂本(台東区)、木曽呂(埼玉県川口市)の4基の富士塚が知られている。

古道なのか石塔が
    

又六庚申塔も並んであった。
徳川綱吉公右馬頭たりし時、偶々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、時の陰陽頭をして、卜せしめしに、城の西北に方り、馬の字を附する地を択び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、病漸次癒え、徒然を慰むるため、蘿蔔(だいこん)の種子を尾張に求め、試みに字桜台の地に栽培せしむ。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得たり。
公病癒えて帰城するや、旧家大木金兵衛に培養を命じ、爾来年々献上せしめ、東海寺の僧沢庵をして、貯蔵の法を講ぜしむ。
とある。これが、練馬大根誕生伝説の一つである綱吉説の重要な文献になっている。

この辺は、練馬大根で知られている
    

「練月山 愛染院 観音寺」は、練馬区春日町四丁目にある真言宗豊山派の寺院。
愛染明王を単独の本尊とする珍しい寺院であり、また「観音寺」の名称にもかかわらず観世音菩薩が本尊として迎えられた記録がないという不思議な寺名の寺院でアルトいう。

江戸時代頃の造形とされる本尊愛染明王像は秘仏であり、像の厨子は正月三が日のみ開帳されるが、本堂の正扉が開かれて外部に一般公開されるのは元旦午前0時から新年法要が行われている数時間のみであり、また本堂内での一般公開も行っていないため、拝観することは極めて困難である。

真言宗の寺、参道・総門
    

永享5年の1433年に 創建。1789年 - 1800年に 火災により焼失され、 昭和3年(1928年) 再建されている。

鐘楼                       青銅燈籠                         本堂
    

江戸時代には12石1斗の朱印地を拝領した御朱印寺で、若宮八幡(現高松八幡神社、8石の朱印地を拝領)の別当寺、
第17世亮意は豊島八十八ヶ所霊場を開いています。豊島八十八ヶ所霊場26番札所。

お堂                          南無大師像
    


次回は、豊島園・練馬駅へ。