syuの日記・気まま旅

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倉敷の町 美観地区に入る

2014-05-13 | 気まま旅
JR倉敷駅、南口約800m先に倉敷紡績工場跡の赤レンガアイビースクエアのある「美観地区」。
駅前ターミナルを出ると倉敷中央通り、この先が瀬戸大橋、下津井港で、左手に倉敷川と川に沿って美観地区の観光地である。
県南部高梁川下流域児島西部と広がり商工業と観光地で、江戸時代は、備中米の集散地として「蔵屋敷」が置かれたことから「倉敷」と云う。
又、高梁川河口の物資集散地として発達され1642年幕府は直轄地代官所が置かれた。
備中の政治、経済の中心地になっていった。
1790年頃から古禄派旧来特権的門閥商人から、新録派新興商人が台頭し支配権を移していく。外港の玉島は、松山藩は瀬戸内の重要な港であり、
「塩田地」で知られている。明治に入り20年代は、紡績・重工業都市と変貌し、鉄銅・石油・化学・機械などの臨海工業都市と公害問題も発生世なる。
(水島臨海工業地帯)。

           JR倉敷南口山陽本線・伯備線・水島臨海鉄道(大原美術館・美観地区)


倉敷センター街商店街は、JR倉敷駅前の国道429号線を越えてすぐに、左手に倉敷センター街と書かれたアーケード入口の2か所がある。
商店街は、十字に交差したエリアで構成され、いずれも200m程の長さで、南側では倉敷えびす通商店街へと続き、美観地区への道筋となっている。

商店街中心部には、テレビも設置された来街者の為の休憩所施設「ビオス憩いの広場」があり、イベントが催される時には、広場をメイン会場としても利用されていると云う。

春と秋の2回行なわれる「センター街大売出し現金一割返し」が一番人気の売り出しセール、
毎月第三日曜日の朝に開かれる、大きな集客力が定着した「倉敷三斎市」では、「地産地消」をテーマに約90の農作物、魚介類、民芸・工芸品などの露店が出店し、多くの人出で賑わう。
「土曜夜市」、「倉敷雛めぐり」、「倉敷フォトミュラル」など商店街でおこなわれるイベントは数多くあり、駅やバスステーションが近くで交通の便がよく、交差した街路にファッション・雑貨、飲食などの店舗が並ぶ、今日は、平日で静かな商店街を抜け、えびす商店街の左手の鶴形山の階段を登ってみた。
 
駅正面が中央通り・センター街・えびす商店街・美観入口に沿って「倉敷川」大原邸の今橋・考古館中橋・船乗り場・アイビー、高砂橋
     

「旧阿智潟神社」-祭神八意思兼神

阿智神社略記 鎮座地 倉敷市本町、 鶴形山山頂標高43m 旧社格 県社 御祭神 主祭神 宗像三女神. 八意思兼神・ 八十枉津日神・ 神直日神
大直日神 ... えびす商店街の周囲は、阿知潟と呼ばれる海域であったが、江戸初期には陸化、倉敷代官所が 置かれ旧倉敷村の氏神として歴代代官の
崇敬厚く、石灯籠はじめ数多くの寄進を受けたと云う。
神社入口の登り階段へ。
 
      えびす通りから鶴形山公園へ                 街角の石神
    

鶴形山公園から商店街とJR倉敷駅方面                    神社境内にある阿智の藤棚へ
    

美観地区のすぐ北、鶴形山公園の阿智神社の境内にある県天然記念物「阿知の藤」。
「アケボノフジ」という珍種。根回り約1.5m、根元周囲約2.2mで、同種の藤としては全国一の巨樹とされている。
20m四方に枝を広げ、時季には淡紅色の花が藤棚に咲きほこり見応えがあると云う。

阿知の藤は樹齢は500歳とも550歳ともいわれ、寄る年波には勝てず、一時は枯死寸前に陥ったこともあったと云う。
活性剤を注射したり、せん定、棚改修など、樹勢回復に取り組んで、今日も植木職人が剪定していた。

花の見頃 4月下旬~5月上旬と云う。

                 地元の職人が大事に剪定し見事な藤棚
    

鶴形山は、「倉敷城の城山、稲荷山と呼ばれるた。城郭であり、伝承によると「天慶の藤原純友の乱」の頃、征討使として西下した
小野好古が拠点として築いたとされ、以降、中世末期まで小野氏の居城となった。
建武2年(鎌倉幕府滅亡の1333年頃)、福山合戦の前哨戦といえる戦いがあり、小野浄智房が目代として荘・真壁の両氏等足利勢を備中福山城に攻めて敗れた。この時、倉敷城を拠点としていたとされる。
明応2年(東海道大地震1498年頃)、当時の城主小野好信が小野家の氏神として伏見稲荷神社を勧請、城山稲荷神社(城山稲荷大明神)とした。
江戸時代には倉敷村は大半の時代が江戸幕府領となっており、この頃には倉敷城は廃城となっている。
城のあった小丘(城山)には幕府代官の陣屋が建てられ、倉敷陣屋。
延享3年(1746年)には、倉敷陣屋が廃止され、倉敷城・陣屋のあった城山の南側に丘を取り込む形で倉敷代官所が建設され、倉敷代官による一帯の幕府領の支配の拠点となている。

                          城山稲荷社
    

「阿智神社」
倉敷の総鎮守。倉敷市中心部、倉敷美観地区の北にある鶴形山と呼ばれる小高い山の上に鎮座している。古代、「亀島」「鶴形島」などと呼ばれていた現在地に住み着いた阿知使主の一族が作った庭園が元となったといわれている。

    石段と山門                  拝殿              神木
    

岡山平野は吉備の穴海と呼ばれる海域で、現在の倉敷市鶴形山周辺は交通の要衝であったといわれ、そのため海上交通の守護神である宗像三女神を祀ったと考えられている。

境内には鶴亀様式とよばれる古代庭園がある。また「天津磐境」をはじめ磐座が多数有り、「斎館」と呼ばれる館の庭には陰陽磐座や水琴窟がある。

          手水舎                    高台の境内               鐘楼
    

主神ー多紀理毘売命・多岐都比売命・市杵嶋比売命

相殿ー 応神天皇・約三十柱神「商売繁盛・交通安全」

祭事ー5月5日 - 藤祭り・5月第3土・日曜日 - 春季例大祭・10月第3土・日曜日 - 秋季例大祭「素隠居祭」。

       観龍寺本堂                          境内から
  

「観龍寺」は、山号ー宝寿山、真言宗御室派・別格本山、創建年ー985年の古寺、開基ー尭勢津師、札所ー備中西国第29番霊場・ 倉敷八十八カ所霊場

この鐘楼からは倉敷美観地区が一望できる。
    

室町時代に鶴形山の麓で、寛永元年(1624年)現在の地に再移転し、宝寿山観龍寺と改称されたと云う。
江戸時代中期の1740年代に2度にわたり伽藍が焼失、本堂は、1749年に再建以降時代に整備し現在に至る。

同じ鶴形山の妙見宮(現在の阿智神社)は室町時代末期に倉敷村の鎮守として現在の観龍寺の場所に祀られ、
1594年に、移転。
1624年に観龍寺が妙見宮別当となったが、明治2年神仏分離令により妙見宮は分離され阿智神社に改称している。

再建された本堂の屋根瓦は古い物で約250年前のものとされ、三つ巴やリンドウ、菊などの紋が刻まれている。鐘楼は昭和時代末に再建され、瓦は様々な紋様が使用された。 
    

1866年、江戸幕府崩壊前、天領だった倉敷は長州藩の配下にあった第二奇兵隊の脱走兵約100人が攻め入り、現在の倉敷アイビースクエアにあった
「倉敷代官所」を襲撃し、観龍寺に陣を張ったと云う。
脱走兵は兵糧と軍資金を調達し翌朝には出て行ったが、左手鴨居門には槍の傷跡が現在も残っていると云うが探せなかった。

            寂厳和尚供養塔
  

次回は、倉敷川河畔美観散策。

岡山後楽園

2014-05-11 | 気まま旅
旭川をあさんで岡山城の対岸にある「特別名勝・岡山後楽園」
水戸の偕楽園・金沢の兼六園と共に日本三大名園。岡山藩主「池田綱政」が「津田永忠」につくらせたもので、1687年から14年間かけて完成した。
菜園場・茶室屋敷・後園などと呼ばれ1871年命名されたと云う。
遠州流池泉回遊式庭園。面積約13万m2。城を背景に築山・池・芝・茶室などが配されている。庭内には、曲水(640m)と散策路・桜・梅・蓮池・菖蒲などが、独特の景色を生み出している。

                 岡山城を出ると旭川月見橋を渡ると岡山後楽園南門
    

「池田綱政」1638-1714 備前岡山第二代藩主 父光政の長男、弟に(政言・輝録)新田4万石分与、2支藩をたてる。

昔は、旭川の上流5kmから用水を引き、対岸からサイホンの原理を応用して園内に水を引きいれていたと云う、池と滝に利用し曲水の景色を。

                茶室・亭舎・池など園内各所池田藩主の思いが込められている
  

我が国に広く自生している野芝を使い、明るく広々とした庭園に。

                紅葉100本以上・梅紅白・一重・八重など100本以上が
  

300年の歴史い築く能舞台・茶室・四季折々の花や茶畑(古種)・樹木と歩きながら景色を眺めるこたが出来ると云う。

              2000年の時を経てよみがえった「大賀ハス」見頃は6月
    

園は、かって藩主の静養の場と賓客接待の場として使われ、日を定め藩内の人々にも観覧が許されたと云う。
明治17年県に譲渡、一般公開された。文化保護法に指定され文化遺産として維持管理にあたっている。

                   旭川と池、豊かな水量、舟遊びが
  

正面入り口から能舞台・大立石・四天王堂・御舟入跡・花葉の池・庵など。公園中央に沢の池と中島・松並木・茶畑・井田・神殿・稲荷宮・弁財天堂
桜・梅林・花交の池・花菖蒲畑・南門、、、、。

御舟入跡は、城主が船で渡ってくる時の舟着き場であった。今は竹林に。

                      園内の神殿
    

慈眼堂は、池田綱政が藩内の平定と池田家の安泰を願って建立したお堂で茶畑近くにある。「鶴舎」には、中国からのタンチョウが。

                      沢池・奇岩・芝と樹木バランスに良さ
    

花葉の池に架かる「栄唱橋」            入口近くの鶴鳴館玄関          園内の見取り図旭川が
    

「犬養 毅」氏は、号を木堂と称し、1855年、この地に生まれ、明治23年(1890)36歳で衆議院議員に初当選、
以後、憲政擁護運動の先頭にたった。

昭和6年(1931年)76歳のとき第29代の内閣総理大臣となり、満州事変の解決にあたったが、翌年の5月15日首相官邸において凶徒に襲われ、「話せばわかる」の言葉を最後に志なかばにして没した。(5・15事件)

犬養家は、代々庄屋や藩の要職を勤めた農家で、この生家は江戸時代中期に建てられ、近世民家の代表的なものとして価値が高く、国の重要文化財に指定

1979年、解体復元したと云う。

           吉備津神社前の像                  犬養前首相の実家(案内板)
    

五・一五事件を伝える大阪朝日新聞

1932年(昭和7年)5月15日はよく晴れた日曜日だった。犬養は総理公邸でくつろいだ休日を過ごしていた。夫人、秘書官、護衛らも外出していた。犬養は往診に来た医者に鼻の治療を受けていた、、、、、。
                             近くの神社と民家
  

syu散歩4月下旬に紹介した。東京武蔵野「滄浪泉園」を。
                            生家の見取り図
   

「犬養 毅」 1855-1932 政治家、岡山県、慶応義塾で学び、豊川良平と東海経済新報を発刊、保護貿易論を主張、統計院に入る。
大隈重信と立憲改進党に加わる、才一回総選挙以来当選18回、雄弁家、満州事変阻止、五・一五事件で殺害、政党政治終息する。
                            
                            国道より細い道に入る
    
                           残念ながら本日休館日
  

                              生家と記念館
  

次回は、倉敷市方面に。

宇喜多直家 築城の岡山城

2014-05-09 | 気まま旅

中國・四国の交通拠点「岡山」、第三次産業の就業人口が三分の二を占め、岡山城下の町人町として歴史がある町、駅を中心に、電器・出版印刷など
都市型工業が盛んである。
農業は、米作中心であるが、白桃など果樹園芸も盛ん、鉄道も、JR山陽本線・新幹線・宇野線・津山線・吉備線・赤穂線・1988年本州ー四国の
瀬戸大橋が完成しJR瀬戸大橋線・自動車道が開通し、空の便も新岡山空港、山陽自動車道と交通拠点の地位も高まった。
岡山は隣兵庫の「赤穂城」があり、次に、備前市(陶器備前焼)で全国に知られ岡山の特産品になっている。

東口を出るとタミナールに桃太郎像が出迎えてくれる。正面が「桃太郎大通り」緑地公園に市電で東山行の四つ目が「城下」前方に「旭川」
市民会館・音楽ホール・林原美術館・県庁・公園などがあり川に沿って「岡山城」が聳え立つ。
城を出ると旭川に架かる月見橋、渡ると後楽園南門と続いている。
今日は朝から上天気通称「烏城」へ徒歩で向かう。

市内を南北に流れる西川、川の両サイドは、綺麗な花々。
    

「法華宗・本行寺」は、1611年に、一音院日円上人が、姫路城主で備前国(岡山)を兼ねて領していた「池田輝政公」の外護により、
以前の岡山市野田屋町の地に日蓮宗妙満寺派(現在・顕本法華宗)の寺院として創建。

山門(昭和20年岡山大空襲時の焼け跡)                     本堂
    

徳川時代の後半に全焼し、再建、明治維新の大変動により荒廃、その後、本行寺中興の祖というべき28世住職・能仁日統上人の時、
本堂を大修理し、布教の道場として戒壇を整えたと云う。

昭和20年、戦災のため山門のみを残して全焼している。昭和37年、本堂が落成。
戦災時の焼夷弾の跡の残る山門は現在も岡山市被災建築物に指定され、戦災のあとを物語っている。
    

「陶器・備前焼」

平安時代に作られた須恵器から発展し、鎌倉時代初期には還元焔焼成による焼き締め陶が焼かれる。
鎌倉時代後期には酸化焔焼成による現在の茶褐色の陶器が焼かれ、水瓶や擂鉢など実用本位のもので、「落としても壊れない」と評判が良かった。
この当時の作品は「古備前」と呼ばれ珍重される。

室町時代から桃山時代にかけて茶道の発展とともに茶陶としての人気が高まるが、江戸時代には茶道の衰退とともに衰える(安価で大量生産が可能な磁器の登場も原因)。
備前焼は再び水瓶や擂鉢、酒徳利など実用品の生産に戻っている。この当時のものは近郷の旧家にかなりの数が残されている。

明治・大正に入ってもその傾向は変わらなかったが、昭和に入り金重陶陽らが桃山陶への回帰をはかり芸術性を高めて人気を復興させる。
陶陽は、重要無形文化財「備前焼」の保持者(人間国宝)に認定され、弟子達の中からも人間国宝を輩出して、人気は不動に。 

備前焼陶器平井本店   城下筋通り
  

後楽園正面入口と博物館を抜けると旭川、川添に桜並木と川に架かる「鶴見橋」に。(後楽園は次回)
    

市電は、駅から四つ目の「城下駅」、石山公園・市民会館と旭川の間に城がある。城と後楽園南門に架かる橋が「月見橋」
    

「岡山城」は、市の中央部旭川岸にある平城、天守閣の下見坂が黒いので「烏城」とも云う。
1573年「宇喜多直家」が築城。その子秀家が城郭を拡大させている。
「関の原の戦い」以後、小早川氏を経て、「池田氏」31.5万石の居城となり明治まで続いった。
3層6重の天守閣、35棟の櫓と21棟の城門を持っていた。昭和20年の空襲で焼失、月見櫓・西手櫓のみ、残ったと云う。
現在の展望台は、資料館。

伏見城を模したと云う。


「宇喜多直家」 1529-81 策略で駆け上がった大名
備前・美作国の大名。長男浦上宗景に仕え、松田・金光氏などを滅ぼし、後浦上氏放逐、梁間の一部を支配する。
岡山城築城。信長に帰属して秀吉の中国攻略に協力する。直家は、牛飼いから大名になり謀略を用いて大大名にのし上がる。
義父、酒宴に招き刹殺・主君の弟謀反の罪を着せて打ち取る・浦上氏滅ばす・部下を巧妙に潜入させ暗殺(最所氏)・敵の三村氏鉄砲で射殺
家臣も信用してなかったと云う。

城門                        基礎土台石
    

天下人となった豊臣秀吉に身内並みに厚遇されて大大名となった宇喜多秀家が、秀吉の指導を受けて大改築の城に。
8年の歳月を費やして建造、1597年に完成した岡山城。
西向きの城構えのため、旭川を城の東背後を流れるように改修し、天然の外堀に活用している。
天守閣の壁に黒漆塗りの下見板を取付けるこの時代の特徴から外観が黒く、後の時代には「烏城」とも呼ばれた。
秀家はこの城を戦の施設としてだけでなく、領国内の商人や職人を集めて治世の府とし、城下町の整備を行っている。
関ヶ原合戦で敗軍の将となった秀家は、流配先の八丈島で、余生を過ごしたと云う。

多門櫓(当時の写真)                      月見櫓
    
 
[岡山城歴代城主]

宇喜多直家-秀家-小早川秀秋-池田忠継-忠雄-光政-綱政-継政-宗政-治政-斉政-斉敏-慶政-茂政-章政。

城門で普段閉めている門を「不明門」             城門
  

「小早川秀秋」 1582-1602  徳川家康に天下を取らせた。
北政所の兄木下家定の子、秀吉の養子。後、早川隆景の養子に、筑前国33万石を継承、秀吉没後、関ヶ原の戦いで東軍に寝返った。
戦後、備前・美作国57万石に、が21歳で没し家は断絶する。

旭川の面が堀に、堀割                        天守閣から見た市内方面
    

「池田光政」 1609-82 父利隆の死後8歳で姫路42万石の領主となり、鳥取32万石に転封、親族の光仲と領地交換し岡山城主に
新田・殖産興業等推進、名君の一人に。自ら学問に親しみ、家臣や領民たちにも積極的に教化。
岡山藩の教育行政は日本一を誇った。「閑谷学校」は、現在青少年教育センターに。

家紋                                 石垣                天守閣階段
    

次回は、隣接の「後楽園」へ。

岡山・最上稲荷

2014-05-07 | 気まま旅

「最上稲荷」は、市北西部、龍王山、高さ287mの南麓で最上稲荷教の総本山になる。
高松最上稲荷・妙教寺とも云い神仏混淆の霊地で、山号ー最上稲荷山。
京都伏見稲荷・愛知豊川稲荷と並び日本三大稲荷の一つ。

                      最上稲荷の大鳥居
    

吉備平野で、1200年間、人々の営みを見守ってきた最上稲荷。
数多くの伝説とロマンを秘め、古代から豊かな文化を花開かせてきた吉備の国。
雄大な造山古墳に代表される古墳群や、桃太郎伝説の舞台としても知られ、備中国分寺・国分尼寺など数多くの寺社が点在し、戦国時代には
羽柴秀吉の備中高松城水攻めの舞台となるなど、数多くの歴史物語に彩られた吉備平野。
今なお豊かな野山が広がり、その風景は訪れる人々の郷愁を誘う。

 正面が拝殿              神社前入口二の鳥居     参道にお店が並ぶ
    

高さ27メートルにも及ぶ巨大な大鳥居が出迎えてくれる最上稲荷。
明治の神仏分離令の際、特別に「神仏習合」の祭祀形態が許され、仏教の流れを汲む貴重な稲荷。
そのため、お寺でありながら鳥居をそなえ、神宮形式の本殿(霊光殿)があるなど神仏習合時代の形態を数多く残した。

                   約1200年前「報思大師」の創建
    

歴史は、今から1200余年前にさかのぼり、 天平勝宝4年 752年、報恩大師に孝謙天皇の病気平癒の勅命が下り、龍王山中腹の八畳岩で祈願を行い、
すると白狐に乗った最上位経王大菩薩が八畳岩に降臨。
大師はその尊影を刻み祈願を続け、無事天皇は快癒されたという。
785年、桓武天皇ご病気の際にも、大師の祈願により快癒。
これを喜ばれた天皇の命により、現在の地に「龍王山神宮寺」が建立された。

               日本三大稲荷の一つ  京都伏見・愛知豊川
    

備中高松城水攻めの際、戦火によって堂宇を焼失し、本尊の「最上位経王大菩薩」のお像のみが八畳岩の下に移され難を免れ、お像をもとに
慶長6年(1601)、新たに領主となった花房公が関東より日円聖人を招き、霊跡を復興。
寺名も「稲荷山妙教寺」と改めて、今日の興隆の礎を築く。

                           拝殿


本尊の「最上位経王大菩薩」は五穀豊穣、商売繁盛、開運など多くの福徳をそなえ、脇神として、水の神さま「八大龍王尊」、開運を招く
「三面大黒尊天」が最上尊とともに本殿に祀られ、最上三神と呼ばれている。
全国、広く信仰を集め、「不思議なご利益をお授けくださる最上さま」として、今なお多くの人々に親しまれていると云う。

                          高松城から徒歩15分
  

国・有形文化財ー山門・仁王門・本堂・客殿及び庫裏・寒松軒・太鼓楼及び渡廊下・宝光閣・御厩舎・御水舎・鐘楼等多数。

  神社回廊               末社              吉備の田園と街並みが
    

1950年・昭和25年、 山火事が発生、仁王門を焼失、1958年、再建した。

                        境内から見た拝殿


市指定重要文化財ー霊応殿本殿。
民衆の崇敬を集め、初詣には毎年、県下最大の参拝客(約60万人)で賑わうと云う。

                      歴史と重みを感じる社殿


天王社約20社ー五社天王社・朝日天王社・日車天王社・ 荒熊天王社・妙正天王社・六社天王社一富天王社・六社天王社大元鬼天王社など。

吉備平野を展望できる景勝の地にあり、 戦国時代には、寺域が2町(約2万㎡)余に及び、 1 院と10の坊が立ち並ぶ大寺院。
    

「吉備津神社」は、吉備津彦神社と同じ中山に西麓に鎮座している。
祭神も同じ、吉備津彦命、備中国一の宮・吉備国総鎮座として創建され、「延喜式」には、名神大社として登録されている。

                         吉備津神社参道


本殿は1425年に再建されたもので、比翼式母屋造の特異な構造を持ち、これを吉備津造と呼ばれ、京都八坂神社に次ぎ全国第二の規模と云う。

                       「彦」が無い吉備津神社


本殿の西側斜面を長さ300mの回廊があり歴史を感じる。
                 
                          総鎮座


回廊途中に「鳴釜殿」があり、神事で知られている。

                         入母屋造りの拝殿


国宝ー本殿・拝殿
重文ー北・南隋神門と御釜殿

「桃太郎お伽話」

吉備津神社の北西の方角には、実際に鬼の城と呼ばれる朝鮮式の山城の石積が存在し、現在も調査発掘が行われている。
しかし、鬼城山は、標高約350~400mのけわしい山の頂上付近に城壁をめぐらした7世紀後半から8世紀前半の古代山城である。
温羅が居城にしていたという時代とは合わない。
また、桃太郎のお伽話では、鬼退治に鬼の城へ向かったのではなくて、海上の鬼ヶ島へ行ったことになっている。

                         長い回廊が続く


「桃太郎」

一、桃太郎さん 桃太郎さん  お腰につけた 黍団子(吉備だんご)  一つわたしに くださいな

二、やりましょう やりましょう  これから鬼の 征伐に   ついて行くなら あげましょう

三、行き(いき)ましょう 行きましょう  あなたについて どこまでも 家来になって 行きましょう

四、ねそりゃ進め そりゃ進め 一度に攻めて 攻めやぶり  つぶしてしまえ 鬼が島

五、おもしろい おもしろい  のこらず鬼を 攻めふせて 分捕物を えんやらや

六、万々歳 万々歳 お伴の犬や猿雉子は 勇んで車を えんやらや。

                     吉備国平野が一望できる


「青龍山 金剛寺 普賢院」      本尊ー 普賢延命菩薩              高野山真言宗備中寺院

古代、大和や九州とも交流を持ち、それらに劣らぬ一大文化圏を築き上げた吉備路。
伝統と伝説が息づく東の玄関口・吉備津に、古刹・青龍山金剛寺普賢院がある。
吉備津神社の西側、御手洗池の側に御所塀に囲まれ、仁王門、本堂、客殿、聖天堂など伽藍が。

               回廊を下ると、金剛寺。神社入口に 


寺伝によると、行基によって草庵が結ばれたのが草創の始まりとされているが、年代は不詳である。場所も現在地でなく西へ約300m行ったところだとされており、吉備津神社の別当職を担い、「金剛寺」と称していたという。
 
山門(金剛力士像が)                    鐘楼          寺院から吉備津神社が


吉備津は、旧山陽道の宿場町、門前町として発展した町である。
文人墨客の往来も多く、同院に足跡を残している。
山門横に建つ頼山陽筆になる戒壇石や「護花鈴図・並笛図」(六曲一双・作者不詳)、森徹山筆「秋草鹿図」(二曲屏風一双)、森一鳳筆「鶴図」(襖八面)など優れた作品を残し、東西文化交流の歴史を秘めている寺院と云う。

                           本堂


「栄西禅師」1141-1215 臨済宗の僧、延暦寺と対立を避け鎌倉へ、北条政子の寺「寿福寺」住職・京都「建仁寺」住職で延暦寺の末寺とした。

建仁寺を創建した栄西禅師は、岡山吉備津宮の神官の出身であったと伝えられている。
このためか、禅師は仏門に帰依されながらも、日本古来の神を信仰されていて、建仁寺の建立にあたり守護神として「恵比須神社」(寺の西側に)を建立し、そして、その後、建仁寺の建立が始まっている。
この関係の証として、禅師は自らの墓所を恵比須神社の真正面に向かい西向きに建てるよう遺言し、その遺志のとおり、開山堂は恵比須神社の真正面東に当たる位置に建てられている。
こうした関係から、当初は建仁寺と一体であったが、明治時代の神仏分離によって分けられた。交流の途絶えた建仁寺と恵比須神社とであったが、今日では交流がある。

                       茶祖・栄西禅師


次回は、岡山市へ。

岡山・高松城

2014-05-05 | 気まま旅

「高松城跡」
岡山市西部の高松にあった城跡、戦国時代に毛利氏の名将「清水宗治」の居城で、1582年の羽柴秀吉の水攻めで有名。
清水宗治の首塚と云われる塔や水攻めの時,築づいた堤防の一部が残されている。(現在地域の公園に)

羽柴秀吉が1か月の水攻めをした「備中高松城址」黒田官兵衛(黒田孝高)軍も。


「清水宗治」 1537-82  秀吉の水攻めに屈した備中高松城主
毛利の家臣。備中国賀陽郡の土豪、高松城主「石川久孝」の女婿、後城主ー毛利氏に従い小早川隆景の幕下に属して織田軍と戦う。
備中高松城は、堅城。秀吉は、短期で城4kmにわたり堤防を築き、足守川をせき止めた。世にいう「高松城の水止め」である。
梅雨時で城は水没寸前となり、清水宗治は、「己の死を持って城兵の助命を」願い出る、秀吉は認めると、宗治は小舟で湖中に漕ぎ出し、秀吉軍の
目の前で切腹して果てたと云う。
「浮世をば今こそ渡れ武士の 名をば高松の苔に残して」という辞世を残している。

平城の高松城                        三方に囲み「舟橋」で水攻め
    

「備中高松城の戦い」は、1582年に織田信長の命を受けた家臣の羽柴秀吉が毛利氏配下の「清水宗治」の守備する備中国高松城を攻略した戦い。

水攻めの中に主君である織田信長が「明智光秀」に討たれる本能寺の変が起き、その報を聞いた秀吉はただちに毛利方と和睦を結んで、城主清水宗治の切腹を見届けた後、明智光秀を討つために軍を京のある山城国へ返した。

                高松城の見取り図


毛利氏と信長とは、毛利元就の代においては友好的な関係であったが、その後継の毛利輝元は義昭を庇護し(鞆幕府)、さらに最大の反信長勢力である
石山本願寺と同盟し、信長への敵対の態度を強めていった。
信長にとって石山本願寺を滅ぼすためにはその背後の毛利氏を屈服させる必要があったため、1578年、家臣の羽柴秀吉を総大将とする中国地方への侵攻戦(中国攻め)を開始した。

現在は公園に                    清水宗治は、城兵の命と引き換えに切腹した。
  

宇喜多直家は当初は毛利氏の傘下として行動し、織田寄りであった主君の浦上宗景を追放して下剋上を果たしていたが、織田氏と秀吉の力を知ると毛利氏を見限り、秀吉に降参を申し入れた。
直家は、1581年に病没し、子の宇喜多秀家が跡を継ぎ、備前もまた秀吉の傘下におさまった。
備中高松城の戦いはこのように秀吉(織田氏)が優位を築いた状況において勃発したものである。

                          悲話の首塚


備中高松城は当時数少なかった低湿地を利用した平城(沼城、ぬまじろ)であり、鉄砲・騎馬戦法にも強かった。
城を守るのは清水長左衛門尉宗治で、3,000〜5,000余りの兵が立てこもり、容易には攻め落とせる状況ではなかった。
そのため、秀吉は周囲の小城を次々と攻め落とし、4月、秀吉方は宇喜多勢を先鋒に3万近い大軍で城を包囲し、2回にわたって攻撃を加えたが、城兵の逆襲を受けて敗退。

浮世をば 今こそ渡れ 武士の 名を高松の 苔に残して(辞世の歌)
  

城内では水攻めという奇想天外な戦法に動揺し、物資の補給路を断たれて兵糧米が少なくなったことと、小早川隆景、吉川元春ら毛利氏の援軍が来ないことも相まって兵の士気も低下。
城内まで浸水したため、城兵は小舟で連絡を取り合わなくてはならなかったとされる。
毛利輝元は、5月になって猿掛城に輝元の本陣を置き、高松城に近い岩崎山(庚申山)に元春、その南方の日差山に隆景が着陣した。
しかし、既に堤防は完成しており、秀吉の築いた湖を前にして身動きがつかず、さらに信長の援軍が送られてくることから、秀吉との講和を決意した。

                  城を囲んだ秀吉軍
  

毛利方は軍僧の安国寺恵瓊を黒田孝高のもとに派遣し、「五国割譲と城兵の生命保全」の条件で和議を提示した。
しかし、秀吉はこれを拒否して「五国(備中・備後・美作・伯耆・出雲)割譲と城主清水宗治の切腹」を要求したため、交渉はいったん物別れに終わった。
毛利方は清水宗治に対して救援の不可能なことと、秀吉に降伏するべきという旨を伝えたが、宗治は自分の命を城とともにしたいとしてこれを拒否する。毛利方は安国寺恵瓊を高松城に送り込んで説得を試みたが、宗治は主家である毛利家と城内の兵の命が助かるなら自分の首はいとも安いと述べ、自らと兄である月清と家臣の難波伝兵衛、末近左衛門の4人の首を差し出す代わりに籠城者の命を助けるようにという嘆願書を書き、安国寺恵瓊に託した。

                  城を囲んだ秀吉軍
  

織田軍は、 羽柴秀吉・黒田孝高・蜂須賀正勝・加藤清正・杉原家次・羽柴秀長・山内一豊・石田佐吉・堀尾吉晴・花房職秀・宇喜多忠家・津田信任。

    「黒田 孝高」は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。 実名は、一般には通称をとった黒田 官兵衛 、出家後は、黒田 如水。

毛利・ 清水軍は、中島元行・毛利輝元・吉川元春・小早川隆景・桂広繁・日幡景親・小田孫兵衛・井上有景。

                 重臣花房家菩提寺「星友寺」川沿いに
    

「ごうやぶ遺跡跡」は、高松城三の丸総門のわきにある。
羽柴秀吉の高松城水攻めにより、1582年6月に高松城主「清水宗治」が切腹するため船出、その船を追って、宗治の僕七郎二郎と月清の馬の口取與十郎が「一足先に三途の川でお待ち申します」とお互いに刺し違えて殉死したところといわれている。

                          ごうやぶ遺跡跡
    

次回は、最上稲荷と彦の無い吉備津神社へ。