syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

大月 都留 岩殿山と勝頼

2015-09-15 | 気まま旅
「都留市」-桂川上流沿岸・国道139号線・冨士の道で、郡内の中心。
16世紀に武蔵の「小山田氏」が居館を設けて、以来城下町が形成された。大月や富士吉田が発展すると都留は中間地点中心地の地位を失った。
甲斐絹は江戸時代からの伝統産業で知られている。

「富士急行」
大月線は、古くから富士登山の拠点となっていた冨士吉田ー河口湖を結んでいる。
八王子から大月まで延びて来た中央東線(中央本線)、東京からの登山客らを運ぶために敷設された富士馬車鉄道と都留馬車鉄道による馬車鉄道が前身。
両社は軌間が異なっていたため、途中で乗り換えが必要で、これを解消するため1921年に両社が合併し、
大月 - 金鳥居上(後の富士吉田)間の軌間を統一・電化して電気運転を開始した。
しかし、馬車鉄道時代からの併用軌道では所要時間もかかり、急増する旅客をさばききれなくなったため、1926年に設立された富士山麓電気鉄道へ
1928年に全線を譲渡し、1929年に新設の鉄道線に切り替えられ、馬車鉄道以来の軌道は廃止。これにより2時間かかっていた大月 - 富士吉田間の所要時間は1時間以下にと大幅に短縮され、富士山麓は東京からの日帰り観光圏内。
都留馬車鉄道は一時籠坂峠に至るまでの路線を有しており、明治から大正期まではそこから東海道本線(今の御殿場線)御殿場駅前までを結んでいた御殿場馬車鉄道と連絡していたこともあったと云う。

主な駅
大月駅ー 上大月駅ー 田野倉駅ー 桂川ー 禾生駅ー 赤坂駅ー 都留市駅 ー谷村町駅 ー 三つ峠駅 ー 月江寺駅ー 富士山駅ー↓河口湖。約1時間の乗車

                    谷村町駅下車


松尾芭蕉の新境地を開眼させた地 「都留」
思わぬ災難により江戸を離れた松尾芭蕉は谷村(都留市)でしばらくの間過ごし、江戸に比べ冬の厳しい郡内(谷村藩)の自然と霊峰富士を間近に見る
感動が、不惑の年を越えたばかりの芭蕉に大きな心境の変化を与えたと云う。
谷村逗留が契機となり、その後「笈の小文」「奥の細道」の旅を経て、「風雅の誠」を俳諧の根本とする「蕉風俳句」が完成。

東漸寺ー松風の 落ち葉か水の 音涼し 1684年・-人は寝て 心ぞ夜を 秋の昏 1683年・
円通院ー旅人と 我が名よばれん はつ時雨 1687年・山賤の おとがい閉ずる むぐらかな 1685年・馬ぼくぼく 吾を絵に見る 夏野かな 1683年
田原佐伯橋ー勢ひあり 氷消えては 瀧津魚 1683年・宝鏡寺参道ー目にかかる 時やことさら 五月富士 1694年
城南公園ー行く駒の 麦に慰む やどりかな 1685年・



「勝山城」
桂川の北西岸の城山(高さ571m)段丘上要害城で16世紀の郡内を治めた 「浅野氏重」が築城した。今でも塀石垣が一部残されている。
天文元年の1532年、小山田越中守信有は代々居住していた 中津森館が焼けたため、谷村の地に 館を移転。
信有の後、出羽守信有、左兵衛尉信茂の3代が、この谷村で郡内の支配にあたった。
「小山田氏都留郡主護」として、武田家の重臣として活躍したが、1582年、 信茂は領国維持のため武田勝頼に離反する。
しかし、織田信長により処断され、小山田氏による 郡内支配は終わる。
その後、郡内支配者はめまぐるしく変わるが、谷村の地は政治の中心として 継承され、 桂川の対岸にある城山に築かれた勝山城は、
文禄3年の1593年、に豊臣秀吉の一族 浅野長政の家老浅野左衛門佐氏重によって築城されたという。
だが、それ以前にも 小山田氏による詰城があったと考えられる。
1740年、郡内谷村藩主秋元氏が武州川越に転封した後、勝山城は廃城。 郡内は天領として谷村代官の支配下におかれている。
中央の山が勝山城で、その麓が谷村城。間には桂川が流れている。
谷村城は桂川に面した都留市街の 西半分が城域で、東半分が城下町となっていたと云う。



外堀ー水田、山裾南側の桂川から西を回って北側の桂川まで通して あったと云う。南側の桂川に繋がる一部が確認でき、泥田堀となっていたと思われる
勝山城の遺構は、「浅野氏」の時代に普請されたもので、大規模な内堀、外堀や 切り込みはぎの石垣など、戦国末期の城である。
小山田氏の時代にも小規模ではあろうが、谷村館の詰め城が、其処から約8㎞北方に、 武田の「岩殿城」が、

富士急行 谷村町駅      駅前に谷村館跡と堀と中川
      

城下町にある浄土宗 長安寺ー山号禅定山ー
寺は、天正13年・鳥居元忠の開基金蓮社生誉上人感貞大和尚の開山、創建・浄土宗寺。
感貞和尚は大永三年の1523年、小田原北条氏綱の子として生まれ幼名を亀若。母は北条家の家臣伊奈大内蔵の娘。
武田滅亡後にこの地を収めた鳥居元忠は、このお寺の前にあった谷村城主。布教の為この地に来た感貞和尚と対面し、深く心を打たれと云う。
感貞和尚は元忠の用意した宿に数日滞在しておりましたが、元忠の願いにより谷村城の前に位置していた小山田家の別荘地であるこの場所に建立。
今の山号は禅定山ですが、創建時にはこの谷村城の前にあったので、ー城前山ーと号したと云う。
武田滅亡後此の地に来た徳川家康は、感貞和尚との面会を望みますが、病の為かなわず、和尚は辞退し、 諦めた家康は、巡見来谷の記念として
和尚に茶釜一口を送り現在もここ長安寺に寺宝として残されていると云う。

    

「猿橋」
7世紀に渡来人の志羅呼が猿が互いに体を支えあって橋を作ったのを見て造られたと言う伝説。
鎌倉時代には既に存在していたらしい、その起源ははっきりとしていない。
古くは吊り橋だったとする推測もあり、刎橋になった時期は不明である。
「勝山記」に拠れば、戦国期の永正17年、郡内領主の小山田信有(越中守)が猿橋に架橋を行っている。
この猿橋橋架は、小山田氏の都留郡北部への支配が及んだ証拠とも評価され、1676年、以降に橋の架け替えの記録が残り、少なくとも
1756年、からは類似した形式の刎橋である。
構造の橋は猿橋に限られなかったが、江戸時代には猿橋が最も有名で、日本三奇橋の一つ。
甲州街道沿いの要地(宿場)にあるため往来が多く、荻生徂徠・渋江長伯(官遊紀勝)など多くの文人が訪れ紀行文や詩句を作成している。
1817年、には浮世絵師の葛飾北斎が「北斎漫画 七編 甲斐の猿橋」において猿橋を描いている。

桂川に架かる、橋脚を用いず谷の両岸に3本のハネ木を4段組みせり出して架ける。


1841年、浮世絵師の歌川広重は、甲府町人から甲府道祖神祭礼の幕絵製作を依頼されて甲斐を訪れ、後に、旅の記録「甲州日記」としてまとめ、
甲斐の名所をスケッチし作品にも活かしている。
小島烏水によれば現存しない日記の一部には猿橋の遠景や崖などがスケッチされていたという。
広重は、1842年頃に版元・蔦谷吉蔵から刊行された大型錦絵「甲陽猿橋図」を手がけ、明治期には富岡鉄斎が1875年と1890年に山梨県を訪れ、鉄斎は
甲府の商家・大木家などに滞在しており、大木家資料(大木コレクション)には「甲斐猿橋図」が残っている。

 日本三大奇橋・猿橋と木曽の桟橋・岩国の錦帯橋を云う


神橋(栃木県大谷川)・愛本橋(富山県黒部川、非現存)・かずら橋(徳島県祖谷)などが知られている。
    

   猿橋から下流方向の眺め、下に見えるのは八ツ沢発電所一号水路橋、高さ約31m・長さ約30m
    

「大月市」は、桂川・笹子川の合流付近の川沿いに発展した。富士山麓の入り口、甲州街道宿場、現在は、都心への通勤者が増加中。
「岩殿城」-築城年代は、16世紀頃ー
岩殿山は平安末期頃には天台宗の修験道場がおかれ、それを16世紀頃に武田、小山田氏により要害山に改築、
大月は、武蔵国、相模国の国境に近い事から武田氏の本拠地である甲府盆地の東の守り城。
武田氏による小山田領支配と岩殿城の築城とされ、岩殿城の位地する大月周辺は小山田氏の領有する所、小山田氏は、平安末期に武蔵国の小山田庄に在住した秩父党「小山田有重」を祖としている。
当初甲斐武田氏とは対立関係であった小山田氏は、武田信虎の領内への侵攻を受けて武田家に従属、しかし、従属こそはしているが、信虎の時代には
武田氏と小山田氏は対等であり同盟関係と言える程であったと云う。
武田晴信(武田信玄)の時代になると小山田氏は武田家の傘下に組み込まれ小山田氏の所領である大月周辺も武田家の直轄化が進みます。
その頃、武田家は小田原北条氏、山ノ内上杉氏など関東の有力大名との対立が激化し甲斐国の東側の国境が脅かされる様になり、それにより甲斐国東方の守りとして岩殿城が築城されたと考えられている。

「武田家の滅亡と岩殿城」
甲陽軍艦によれば駿河の久能城、上野の吾妻城と並ぶ三名城とされ何れの城も岩山を要害とした堅固な城郭。
武田信玄はその岩殿城の守りを小山田氏に委託します、
1582年、に織田信長の甲斐国侵攻により武田勝頼は拠点である新府城を放棄して岩殿城に退去し、当時岩殿城を守っていた「小山田信茂」は、
勝頼の入城を拒否して織田軍に寝返ります。
これにより勝頼は天目山に落ちて自害し武田家は滅亡、その後、武田家を滅亡に追いやった「小山田信茂」は、信長によい処刑されたと云います。



武田勝頼と小山田信茂
越後で上杉謙信の没後に上杉景勝・上杉景虎の間で家督を巡る「御館の乱」が発生する。
武田勝頼は甲相同盟に基き、北条家から上杉家に養子に入った景虎支援を要請されて越後へ出兵する。
これに対し景勝は勝頼と和睦交渉を試み、勝頼はこれに応じて景勝・景虎間の和睦を仲介する。
小山田信茂は、景勝との交渉において、武田勝頼側近の跡部勝資・長坂光堅とともに取次を担当している。
小山田氏は後北条氏との取次を担当していた点からも景勝・景虎間の調停にも携わっていたと見られている。
景勝・景虎間の和睦は一時的に成立するが、同年、徳川家康が駿河田中城(静岡県藤枝市)攻めを行うと武田勝頼は、越後を撤兵し、そのさなかに
景勝・景虎間の和睦は崩れる。
天正7年、景虎が景勝に攻められて滅亡し、これに甲相同盟も破綻する。
武田勝頼は、これに対して景勝との同盟を強化し、甲越同盟が成立する。小山田信茂は引き続き上杉方との取次を担当している。

    

「千鳥姫という小山田信茂側室の伝説」
姫は、織田家の大軍に包囲された岩殿山城から小山田信茂の次男賢一郎と赤子の万生丸を連れ、護衛の小幡太郎らと共に落ち延びたが、万生丸が泣き出したため、小幡太郎は千鳥姫から万生丸を取り上げ、岩殿山城の断崖から投げ捨てたという。(稚児落としと呼ばれて伝わっている)

「甲乱記」では信茂とともに処刑された元服前の「八歳ニナル男子」の存在を記し、高野山持明院「十輪院過去帳」では、これに該当すると見られる「幻朝童子」の存在を記している。
信茂には孫娘(養女)の天光院殿がいる。「天光院殿」は追号で、名を「香具姫(香貴姫)」とする説もあるが、確実な史料からは確認されない。
天光院殿は信茂娘と教来石左近大夫の間に生まれ、後に信茂の養女となる。
天正10年の武田氏滅亡後、信玄の娘の松姫に連れられ勝頼の娘、仁科盛信の娘らとともに、武蔵国横山村(現・東京都八王子市)に落ち延び、松姫により育てられている。
のち、磐城平藩主内藤忠興の側室となり、嫡男内藤義概らをもうけたと云う。

勝頼とその嫡男の武田信勝一行は岩殿城を目前にした笹子峠で小山田信茂に攻撃され、岩殿城入城を拒まれる。
これには諸説あり、小山田信茂は武田家と主従関係でなく盟友関係にあり、郡内領を有する一大名という考え方から、戦禍を恐れる領民の反対などを受け、領地を守るためにとった行動であるという説や、実は小山田信茂が笹子峠から勝頼を攻撃したという事実は無いという説もある。

勝頼と信勝は岩殿行きを断念、勝頼主従らは武田氏の先祖が自害した天目山(大和町)を目指して逃亡した。
逃亡の際、家宝の旗・楯無鎧を塩山等の寺に隠し、難を逃れさせた。
勝頼一行は、天目山の目前にある田野の地で滝川一益隊に捕捉された。土屋昌恒・小宮山友晴らが奮戦し、土屋昌恒は「片手千人斬り」の異名を残すほどの活躍を見せたと云う。
安倍勝宝も敵陣に切り込み戦死、勝頼最後の戦となった「田野の四郎作・鳥居畑」では、信長の大軍を僅かな手勢で奮闘撃退したと云う。
衆寡敵せず、勝頼、信勝父子・北条夫人は自害し、長坂光堅、土屋兄弟、秋山紀伊守らも殉死した。
(跡部勝資も殉死したとする説もあるが、諏訪防衛戦で戦死したとも。いずれにしても「甲陽軍鑑」が記載の長坂・跡部逃亡説は史実に反する)。
これにより清和源氏新羅三郎義光以来の名門「甲斐武田氏」は滅亡した。

  

次回は、笹子峠方面へ。

甲州市石和 笛吹川 信玄堤

2015-09-12 | 気まま旅
「笛吹川」-日本三大急流の富士川水系の一級河川。深沢七郎は、この川を題材に小説「笛吹川」を。

水系ー一級水系 富士川 ・延長ー46.5 km・水源の標高ー2,592 m・流域面積ー1,040 km²・水源ー甲武信ヶ岳・国師ヶ岳など 。
「信玄堤」
国中地方では平野部である甲府盆地を有し、盆地底部は笛吹川と釜無川両河川の氾濫原であったため、古来から大雨による水害が発生する地域で、
安定した定住は困難であった。
信玄堤の所在する甲斐市竜王・竜王新町付近では縄文時代にわずかな定住痕跡が見られ、古墳時代には信玄堤の南方に位置する赤坂台において赤坂台古墳群が造営された。平安時代後期には篠原荘が成立する。
平安時代の927年、に成立した「延喜式」では甲斐国は河内国(大阪府)・伊賀国(三重県)と並び朝廷から「堤防料」が支出されていたと記している。水に関わる伝承として、近世初頭に原本が成立した「甲陽軍鑑」ではかつて甲府盆地が湖であったとする甲斐国湖水伝承を記し、釜無川は支流の御勅使川とともに盆地西部において水害をもたらし、戦国時代から江戸時代初期に信玄堤の築造・御勅使川の治水が行われるまでは両河川とも盛んに流路を変更し、釜無川の東流路は甲府(甲府市)へも水害を及ぼしていた。
甲斐国守護である武田氏は盆地東部を拠点としていたが、戦国時代に国内統一を果たした武田信虎期は甲府に居館を移し武田城下町の整備を行う。
1542年、に信虎を追放し国主となった晴信期の初期には信濃侵攻を本格化している。
川除工事の開始時期は不明であるが、「明治以前日本土木史」では信濃侵攻と平行して天文11年に堤防築造が着工したとされている。
川除場で行われる夏御幸の開始時期が弘治年間であることから、着工時期をそこまでに遡るとする説もあると云う。
笛吹川は、奥秩父山塊の南側を太平洋に向かって下る斜面にある急峻な暴れ川で、広瀬ダムや発電所などで雨量にあわせて流量を調整。
最上川、球磨川とともに日本三大急流のひとつで、地形が急峻なため、梅雨、台風の季節に洪水が起こりやすくなっている。
中でも明治40年、からの大雨で発生した水害は、
笛吹川流域を中心に洪水による被害を引き起こし、笛吹川本流の流路が約7kmに渡って変化。
それまでの笛吹川は甲州街道(現国道411号)、笛吹橋の少し上流付近より西方向に流れ、現在の石和温泉街を西に流れた後、石和町と甲府市の境界を流れる今の「平等川」を経由し、旧中道町の北東部にある白井河原橋付近で現在の笛吹川本流につながっていたが、この洪水による土手決壊及び旧河川敷の土砂堆積により南西方向へ流路を変えた。その結果、多数の農民や住民が新河川流路整備の土地収用のため、農地・住居等の移転を余儀なくされた。現在の笛吹市役所庁舎前や国道20号付近を流れる部分の笛吹川は、100年ほど前までは存在していなかったと云う。



「展望の差出磯大嶽山神社」

祭神ー大山祇神 大雷神 高?神 金比羅神
古来の人々は、山や川や岩など、自然のものを信仰の対象にしている。
「差出の磯」は、山に囲まれた盆地の中で、 海辺の磯に見えたことから信仰され、平安時代の古今和歌集を始め、 松尾芭蕉・与謝野晶子など四十首余りの歌に詠まれ、県では富士山に次ぐ和歌の多い聖地。
海神様の金毘羅神を祀っている。明治19年に大山祇神・大雷神・高
春まつりには一万人以上の人々が訪れ、 山梨市最大のお祭りがある。
       平安時代の古今和歌集
        「しほの山差出の磯に住む千鳥君が御代をば八千代とぞ鳴く」と歌われ、
内陸部でありながら海辺の磯の様に見えたことから古来より聖地として信仰されてきた。
松尾芭蕉や与謝野晶子などを始め40首以上の和歌がが詠まれている。
室町時代の文安5年には甲府盆地で大規模な干ばつが起きた時に、この地で雨乞いの神事をしたところ車軸の如く雨が降り喜んだ人々が塔を寄進した。
表参道の笛吹川沿いの道は旧青梅街道・秩父往還道が交差し賑わっており山梨の主要街道であった。

          県峡東地域最大のお祭りとして知られている「春まつり」
  

「石和・白鬚神社」-猿田彦命 ・猿田彦大神、総本社 琵琶湖畔鳥居 近江の厳島 分社ー

国史に「比良神」と見える神名を指すとされ、元々の祭神は比良山の神であるともいわれる。
人格神が猿田彦命とされた由来は、(不詳)
猿田彦命は水尾神社(高島市拝戸)の縁起「三尾神社本土記」にも見えることから、両社の密接な関係が指摘されるている。
比良山は、社伝では、垂仁天皇(第11代)25年に倭姫命によって社殿が建てられたのが創建であるという(一説に再建)。
また、674年、には、天武天皇の勅旨により「比良明神」の号を賜ったとも伝える。
「比良神」から、元々の祭祀は、「比良山」に対するものであったとする説。
白鬚信仰の多く分布する 武蔵国北部や近江・筑前には渡来人が多いことから、それら渡来人が祖神を祀ったことに始まるという。

(山中に横穴式石室(現・末社岩戸社)が残るほか、山頂には磐座と古墳群が残っているー琵琶湖)

                神殿前には、立派な狛犬が
    

            「医王山・正林寺  浄土宗本願寺派」
    

「七日子神社・日下部の里」
赤ちゃんが生まれて7日目に当たる日 お七夜が行われる。
多くの場合、この日に内祝いを兼ねて赤ちゃんの名前を披露する命名式を行うと云う。この時に振る舞われる粥を「七彦粥」と今でも言う。
神社の由緒書きに依れば「第二十九代欽明天皇(540)の御代、皇后堅塩媛命が御懐妊の御時に天皇は勅命を以て甲斐国に七日子の神
「祭神 木花開耶姫命 大山祇命 彦火火出見尊」を祀られ御神田による貢米を宮中に召された。
皇后御出産に当たり貢米を御粥に炊いて差し上げるといと安らかに皇女を御出産せられた、これは七日子の米粥の御徳と思し召され、御名を豊御食炊く屋媛尊と崇め奉った、この御方が後の方三十三代推古天皇である。
この時摂政の聖徳太子は、神慮を仰ぎ泰幤を厚くされた、以来七日子の米粥の神事は宮中の産養の吉例として行われたことが平安期の長秋記・玉海等に記録されている。
神殿の床下には巨大な磐座(いわくら)があり、その周辺は御砂が敷き詰められている。神社の周辺一帯は石器時代の住居跡が密集し縄文時代より奈良朝に至る文化遺物の伴出により、山梨県の七日子遺跡として史跡指定されている。」と云う。(磐座の確認が出来ないのでいったいどんな物か不明)

    

「県社ー菅田天神社」-祭神 五男三女神・菅原道真ー
山梨県甲州市塩山上於曽にある神社。県中東部、甲府盆地の北東縁に位置している。
塩山は恵林寺や向嶽寺などの古刹が集中し、武田氏の保護を受けた寺社も多い地域。

    

「甲斐国社記寺記」
承和9年の842年、甲斐国司の「藤原伊太勢雄」が勅命により少目飯高浜成に命じて創建。
1004年には、相神に菅原道真を祭っており、これが「菅田天」の由来となっている。
古くから甲斐源氏の鎮守と位置づけられ、特に甲斐武田氏の篤い保護を受け、神主は府中八幡宮への参勤を免除された。
甲府の鬼門にあたることから、武田信光のころ御旗(雲峰寺所蔵)とともに武田氏の家宝として相伝されていた楯無が安置。
鎧は於曽氏が管理し、甲斐国志によれば、1561年、武田信豊から、1564年には板垣信安からそれぞれ社領寄進を受けている。
「国志」によれば、武田氏滅亡に際しては楯無鎧が塩山向嶽寺の杉下に埋められ、後に徳川家康により再び当社に安置されたとする伝承を持つが、
鎧の詳細調査では埋められた形跡は確認されていないと云う。
1583年、徳川氏から社領安堵を受けて、1603年、禁制を下されている(社記による)。
慶長7年と正徳3年には社殿造営が行われ、宝物殿には「楯無」と比定される小桜韋威鎧(国宝)を所蔵。(これは現代に至るまで秘蔵であった)
江戸時代には幕命で甲州の古記録調査を行っていた青木昆陽が見聞し、「甲陽軍鑑」の流行もあり多くの参拝者が往来した。
昭和40年、の火災で社殿を焼失するが、昭和44年(1969年)に復興した。

   「小桜韋威鎧 兜・大袖付」始祖新羅三郎義光以来、甲斐武田家代々の重宝。
    

次回は、都留市・大月市へ。

樋口一葉と塩山

2015-09-09 | 気まま旅

「塩山」高さ553mは、塩山市内にある。四方山が訛って塩山になったと云い、武田家と関係が深い街・甲州の鎌倉と呼ばれ、繭の取式では全国三大市場の一つである。
平安時代後期には甲府盆地各地でも荘園が立荘されるが、市域では牧荘が藤木・小屋敷から旧牧丘町域に及ぶ地域に立荘され、平安後期・甲斐源氏の一族安田義定が本拠に勢力を持ち、藤木に放光寺を建立。
安田義定は源頼朝の挙兵に参加して活躍し、安田氏の没落後には古代豪族三枝氏の系譜を引く於曾氏が勢力を持つ。
市域には古寺が多く、鎌倉時代後期の1330年、に牧荘主二階堂貞藤が鎌倉から夢窓疎石を招いて恵林寺を建立。
多くの著名禅僧が入山し甲斐国における臨済禅の中心地となり、1380年、に武田氏の寺領寄進で抜隊得勝が建立した向獄寺と古刹が集中。

江戸初期には幕府直轄領、伊丹氏の徳美藩領や旗本領に属した諸村もある。
1705年、全村が甲府藩領となり、柳沢藩主家時代に分知された甲府新田藩に属する諸村、1724年、甲斐一国が幕府直轄領となり、市域の全村が石和代官支配となる。
生業は市域の地理的特徴から北部諸村は畑作が中心、南部諸村は稲作が中心となったほか、東郡地域で盛んであった養蚕や甲州煙草のひとつである萩原煙草の栽培、柿など果樹栽培も行われた。
萩原山の入会地での山稼ぎが行われ、黒川金山での採掘は近世初頭まで行われた。
市域には、江戸時代に整備された甲州街道が通るほか、青梅往還や秩父往還など武蔵国へ通じる街道が通り、口留番所が置かれたほか、助郷を務める村々もあった。
江戸時代の甲斐国では大規模な一揆も発生しているが、寛政4年の1792年、太枡騒動では市域の諸村でも参加者がおり、天保7年の天保騒動では一揆勢が押し寄せて打ちこわし被害を受けた。



1872年の明治5年、山梨県庁による大小切税法の廃止に対して起こった反対運動である大小切騒動には市域の24か村が参加し、県庁側による鎮圧後に首謀者は断罪された。
1875年、には県令・藤村紫朗の主導した青梅街道(青梅往還)改修工事が行われ、従来の大菩薩峠越えに代わり新たに柳沢峠越えの新道が開発された。
明治期には養蚕業が振興され、明治36年、中央本線の塩山駅が開設されると繭市場として発展し、甲州街道・勝沼宿の宿場町として栄えていた勝沼に代わり東山梨郡の中心となる。
明治14年、林野官民有区分により萩原山が官収されると、養蚕の木材需要があり、乱伐や盗伐など人的要因により林野の荒廃が進む。
明治40年、に発生した大水害では重川流域で堤防が決壊し、甚大な被害が出た。
県は小作地率が高く、養蚕業によって支えられた寄生地主制が成立していたが、大正9年の霜害により起こった七里村の下於曾農民組合の闘争は全県的な小作争議に発展する。
戦後には養蚕が衰退する一方で葡萄など果樹栽培が増加したほか、大菩薩峠など自然資源や武田氏に関係する古刹や史跡など歴史的資源を利用した観光業へ移行。



「慈雲寺」
山梨県甲州市塩山中萩原にある臨済宗妙心寺派の寺院ー山号は天龍山ー本尊は聖観世音菩薩。甲斐百八霊場10番札所。

推定樹齢300年超のイトザクラの巨樹と、樋口一葉の文学碑があることで知られている。
    

南北朝時代の暦応年間(1338年 - 1342年)に、夢窓疎石が開山となって創建。
夢窓疎石は、甲斐・平塩寺(市川三郷町)で修行した臨済僧で、甲斐では浄居寺(山梨市)や恵林寺(甲州市)などを創建している。
江戸時代末期、当時の住職である白巖和尚により寺内に私塾ー寺小屋、が設けられ近隣の子供たちに開かれた。
1887年の明治20年、に本堂内に学校が開かれ、明治40年、には私立山梨里仁学校となり、その後、市内の千野地区に移転し太平洋戦争終了時まで存続していた。

この寺子屋では樋口一葉の父・則義が学ぶなど、寺院であると同時に教育施設、明治から昭和にかけ地域の人材育成に貢献した寺。
    

「一葉と塩山」
東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋で生まれる。
本名は樋口奈津。父は樋口為之助(則義)、母は古屋家の娘多喜(あやめ)の第五子で、一葉は二女。
姉のふじ、兄に泉太郎、虎之助がおり、後に妹くにが生まれた。
樋口家は甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現ー山梨県甲州市塩山)の長百姓。
祖父の八左衛門は一葉が生まれる前年に死去しているが、学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物で、江戸の御家人真下晩菘(専之丞)から江戸の情報を知り、横浜開港に際しては生糸輸出の事業にも着手している。
一葉は後に「にごりえ」で、八左衛門の教養や反骨精神を主人公お力の祖父に重ねて描いている。
父の則義も農業より学問を好み、さらに多喜との結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出たという。
則義は蕃書調所勤番であった晩菘を頼って同所使用人となり、1867年、同心株を買い、運良く幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたが、1876年に免職。
1877年の明治10年、には警視庁の雇となり、明治13年には、勤めのかたわら闇金融、土地家屋の売買に力を入れた。
職権などで入手した情報などをもとに、不動産の売買・斡旋などを副業に生計を立てていたと云う。

一葉が没して26年後の1922年・一葉を偲んで境内に一葉女史碑が建立された。
題額は東宮御学所御用掛杉浦重剛、撰文は芸術院会員幸田成行(露伴)、書は宮中御歌所出仕岡山高蔭によるもの。

石碑の裏側には、佐藤春夫、田山花袋、坪内逍遥、森鴎外、与謝野寛、与謝野晶子など日本を代表する近代文学者の名前が刻まれている。
  

「大本山向嶽寺」
山号ー塩山と称し、塩ノ山南麓に所在するー臨済宗向嶽寺派の大本山、開山ー抜隊得勝禅師(恵光大円禅師)、
開基はときの守護武田刑部大輔信成。

抜隊禅師は、永和4の1378年、に甲斐に入り、市内竹森の地に草庵を結んだが、1380年、武田信成から寺地の寄進を受け、向嶽庵を命名し創建。
寺名は「富嶽に向かう」からきていると云う。

禅師の門下には俊英が輩出し、武田家歴代、特に晴信の厚い保護を受け、寺領が安堵され法度・禁制が出された。
江戸時代に入るとたびたび火災に遭い、天明6の1786年、大火で仏殿以下を焼失。
近年では大正15年に天明の大火以降再建された大方丈を焼失しているが、復旧事業によりかつての隆盛が甦りつつある。
明治5年に輪番住職制を改め独住制となり、京都南禅寺の所轄となったが、別派独立の大本山となった。
創建以来600年の歴史を持つ当山の有する文化財は国宝以下24件を数える。 (看板資料より)

    

「塩の山」
平地にポツリとあるので「四方からみえる山:しほうのやま」からきていると云われている。
1380年、年抜隊得勝禅師が向嶽寺(当時は向嶽庵)を開山した際、「しほのやま」に「塩山」の字を充て、音読みである「えんざん」を山号とした。
現在、重要文化財向嶽寺中門に架かる扁額に、抜隊禅師書の「塩山」を見ることができる。
「古今和歌集」に「志ほの山差出の磯にすむ千鳥君が御代をば八千代とそなく」という歌がある。この歌は「賀部」に含まれ、めでたい歌としてよく知られていた。そのため、宮廷歌人にとって塩ノ山と差出の磯(山梨市)は「桃源郷」のような理想郷のごとく扱われ、多くの歌人が好んで引用した地名となりその後の賀部の和歌にたびたび登場することとなった。
さらに室町時代になると、京都から遠く離れたまだ見ぬ理想郷の風景を空想・具現化し、「塩山蒔絵」のように美術工芸品の意匠にまで発展した。
この意匠では、差出の磯は荒波が立つ海辺、塩ノ山は海上に突き出す急峻な岩として表現されている。
全山を覆っているアカマツは天然のもので、学術上価値が高いものである。このアカマツ林をぬってハイキングコースが設けられており、四季折々の風景を楽しめる場となっている。(看板資料より)

    

天正10年(1582)田野で武田勝頼、信勝が滅んだ後、この向嶽寺の大杉の根元に楯無の鎧が埋められ、その後、徳川家康によって掘り出されて
「菅田天神社」に納められたといわれている。

  

「秋葉神社」
塩の山の南東に向嶽派の大本山である向嶽寺ーこの向嶽寺の境内に秋葉神社がある。
神社は、元文四の1739年、に始まり、火伏せの神を勧請し、向嶽寺の鎮守として祭られている。
    

「真下晩菘」     1799ー1875、江戸時代後期の幕臣・明治初期の教育家。
甲斐国山梨郡中萩原村向久保(山梨県甲州市塩山中萩原)に生まれ、父は、百姓の鶴田(益田)仙右衛門。1825年に江戸へ出府し、幕臣小原氏の下僕となり、その後、甲斐国の石和代官所・谷村代官所の手代を経て、1836年に幕臣である真下家の家禄を買い、名を専之丞と改めている。
蕃書調所調役勤番衆、調役肝煎となり、慶応2年の1866年、陸軍奉行並支配となる。
明治維新後は、江戸を離れて武蔵国南多摩郡原町田(東京都町田市)、丹後国久美浜(京都府熊野郡久美浜町)、駿府などへ移り、現在の神奈川県横浜市野毛町で私塾「融貫塾」を開いた。
晩菘の縁戚である原町田の渋谷仙次郎宅には融貫塾の出張所があり、自由民権運動が盛んな多摩地方において多くの民権運動家を輩出した。
晩菘は、上京した甲州人に対しても支援を行って、晩菘と同郷の中萩原村には百姓・「樋口八左衛門」がおり、

         八左衛門の孫に女流小説家の「樋口一葉」がいる。
  

「樋口家ー甲斐国山梨郡中萩原村重郎原(現・山梨県甲州市塩山)の長百姓」
祖父の八左衛門は、一葉が生まれる前年に死去しているが、学問を好み俳諧や狂歌、漢詩に親しんだ人物で、江戸の御家人真下晩菘(専之丞)から江戸の情報を知り、横浜開港に際しては生糸輸出の事業にも着手している。
一葉は後に「にごりえ」で、八左衛門の教養や反骨精神を主人公お力の祖父に重ねて描いている。
父の則義も農業より学問を好み、さらに多喜との結婚を許されなかったため、駆け落ち同然で江戸に出たという。
則義は蕃書調所勤番であった晩菘を頼って同所使用人となり、1867年(慶応3年)には同心株を買い、運良く幕府直参となり、明治維新後には下級役人として士族の身分を得て東京府庁に勤めたが、
1876年の明治9年、に免職。明治10年には警視庁の雇となり、明治13年、には、勤めのかたわら闇金融、土地家屋の売買に力を入れた。
職権などで入手した情報などをもとに、不動産の売買・斡旋などを副業に生計を立てていたと云う。



「高野家住宅」
塩山駅前にある一重三階・切妻造の民家、江戸中期の建造物で甲州民家特有の突き上げ式屋根・棟持柱となっている。
高野家は、村の長百姓を勤め屋敷内地で「薬草・甘草」を栽培し、幕府に納めていたので

                  「甘草屋敷」


                  甲州民家特有


                  江戸時代が忍ばれる
    

高野家住宅は、重要文化財に指定。
主屋ー巽蔵ー馬屋ー東門ー文庫蔵ー小屋等。宅地 4932.07㎡ー地実棚、裏門、屋敷門
    

江戸時代初期頃より薬草である甘草の栽培を始め、八代将軍徳川吉宗治世の1720年、徳川幕府の採薬師であった丹羽正伯により同屋敷内の甘草を検分され、その結果幕府御用として栽培と管理が命ぜられ、一反十九歩の甘草園は年貢諸役を免除され、その後同家が栽培する甘草は、
幕府官営の小石川御薬園で栽培するための補給源となり、また薬種として幕府へ上納を行ったと云う。

  

塩山資料館では、 民俗資料、樋口一葉資料、幕末から明治初期にかけての主屋・附属屋等の屋敷構えと子ども図書館が併設されていた。
  

次回は、石和方面へ。

夏も終わる富士山麓

2015-09-06 | 富士山麓日記
8月最後の富士山、酷暑の8月上旬から中旬には一気に秋の気配。ずっと雨模様の富士山。


明見湖の蓮の花。


今年はブルーベリーがこんなにたくさん。


富士桜ゴルフ場では雨の中「FUJISANKEI CLACCIC」開催中  

 


毎日雨 とうとう帰ります。渋滞を避けて暗いうちに出発。




朝焼けが美しい。


次第に明るくなります。でも曇り空なので暗いですね。



武田信玄と山本勘助・恵林寺

2015-09-03 | 気まま旅
馬は、遠隔地の交易を促進し、軍事的な遠征を可能にし、古代オリエント世界においては幾多の帝国を産む要因。紀元前4000年頃から人間は家畜としている。東アジアにおいては中国で殷朝後期に馬が伝来し、朝鮮半島においても衛氏朝鮮の時代に馬が飼育され、日本列島には、古墳時代の4世紀から5世紀にかけて馬が伝来し、大型古墳を造成した首長層に受け入れられたと考えられているが、山梨県(甲斐国)では4世紀後半代の馬歯が出土しており、山梨を含む中部高地には西日本に先行する古い段階で馬が渡来したと見られている。

「甲斐の黒駒」-記紀に見える黒駒伝承ー
甲斐黒駒に関する伝承は、「日本書紀」雄略記に記され、「書記」雄略天皇13年の479年、「9月条の歌物語」によれば、
雄略は不実を働いた木工・韋那部真根を処刑しようとするが思い直し、韋那部を赦免する際に刑場に駿馬を使わした。
このときの駿馬が「甲斐の黒駒」であるという云う。
雄略朝には、同様の逸話が数多く存在し、「書記」においても「雄略12年10月壬午条」に、「黒駒伝承と類似した話があることが指摘されており、
必ずしも雄略朝にあたる5世紀後半期の史実を反映しているとは考えられていないが、書記編纂時の歴史的事実が反映されている可能性が考えられている。
高橋富雄は、書記編纂時に甲斐国産の馬が都で早馬として使われていた可能性を指摘し、平川南は東山道と東海道の交差する古代甲斐国に早馬が配されていたと指摘している。
「続日本紀」731年、-甲斐国司・田辺史広足が朝廷に神馬を献上した瑞祥を伝えている。
このため田辺史は恩賞を受け甲斐では庸・調が免除され、全国的な大赦が行われたという。
田辺史氏は馬飼技術をもった渡来系氏族であると考えられており、天平勝宝2年の750年、御牧が設置される上毛野君に任じられている。
「書記」に拠れば天武天皇元年の672年、には、上方で大友皇子に対して大海人皇子(後の天武天皇)が挙兵した壬申の乱が発生する。
壬申の乱においては大海人皇子方の軍平として姓名不詳の「甲斐の勇者」の活躍が記されている。
「甲斐の勇者」は甲斐国の郡司階級の地方豪族の一族であるとも考えられているが、壬申の乱では騎馬で大友皇子方の武将・廬井鯨を射ったという。
この逸話から、古代の甲斐は馬産地であるだけでなく、馬を扱う騎馬兵も擁していたと考えられ、「武田軍の騎馬隊」と続いている。



「武田信虎」ー武田信玄の父ー
戦国時代ー1494・1498ー1574。改名ー信直 → 信虎・墓所ー大泉寺 。甲斐守護ー武田氏。父母 武田信縄、母、岩下氏、妻 正室・大井の方
子ー竹松、晴信(信玄)、犬千代、信繁、信基、信廉、信顕、一条信龍、宗智、松尾信是、河窪信実、信友、勝虎、定恵院

「武田信玄」 1521-73 信虎の長男 甲斐国大名、父を追放し家督に、今川氏・北条三国同盟、上杉謙信と数度対決し、その後大軍を率いて上洛
陣中で病死した。

武田信玄の言葉「甲陽軍艦」

甲斐の山々 陽に映えて
われ出陣に うれいなし
おのおの馬は 飼いたるや
妻子につつが あらざるや
あらざるや
          祖霊まします この山河
          敵にふませて なるものか
          人は石垣 人は城
          情けは味方 仇は敵  仇は敵
                   疾如風ー徐如林ー 侵掠如火ー 不動如山
                                     つつじケ崎の 月さやか
                                     うたげを尽くせ 明日よりは
                                     おのおの京を めざしつつ
                                      雲と興(おこ)れや 武田武士  武田武士
          信玄は、甲斐国に一つも城を築かなかった。


城を築けば、兵は弱体化する。領土の拡張に専念、領土の土木に力を入れた。
信玄は,周辺諸国と戦いながら、領地の治水事業を積極的におこなった武将の一人。
代表的な治水事業に、甲府盆地を流れる「釜無川」と「御勅使川」の合流部の改修工事があげられる。
この工事は、一般に信玄堤と呼ばれ、「自然の力を利用して川をおさめよう」とする考えのもと、堤防、分水、霞堤、遊水機能などをもつ総合的な治水技術が用いられた。
堤防上に神社を設け、祭りを開催し人を集め、堤防を踏み固めさせるなどの工夫をおこなったとも言われている。
信玄堤以外にも、「笛吹川」の万力林の整備など他にも治水事業を残している。



「恵林寺」-塩沢駅北西に約3km・武田信玄の菩提寺-

臨済宗妙心寺派の寺。山号ー乾徳山。
夢窓国師 開山(1330年)
織田勢の焼き討ちの時「快川国師の偈」ー安禅必ずしも山水を須いず 心頭を減却すれば火も自ら涼し・は有名

                 四脚門ー重要文化財
    

鎌倉時代の1330年、甲斐国の守護職であった「二階堂貞藤(道蘊)」が笛吹川上流の所領牧荘を寄進し、五山派の夢窓疎石を招き開山。
二階堂氏邸を禅院としたのが始まりとされる。もとは円覚寺派に属し、関東準十刹の寺格を有していた。
恵林寺は、甲斐における臨済宗の中心となり、絶海中津や龍湫周沢らが住持となる。
応仁の乱で荒廃するが、甲斐武田氏の菩提寺に定められて復興し、京都から高僧が招かれる。
1541年、武田晴信(信玄)が臨済宗妙心寺派の明叔慶浚・鳳栖玄梁を招いて再興し、1564年、武田氏により寺領が寄進され、1564年、美濃崇福寺から快川紹喜を招く。
1576年、快川を大導師に、嫡男の勝頼を喪主として信玄の葬儀が行われた。
                
    

「寺の門前市」
寺周辺は秩父往還・金山道が交差する交通・流通の要衝地で、金峰山へ向かう参詣客も多く、このため古くから市場が存在。
1563年、「恵林寺領御検地日記・恵林寺領米穀并諸納物日記」によれば、恵林寺の寺領には「三日市場」「九日市場」のふたつの市場が存在しており、定期市として開かれていたとある。
三日市場は、恵林寺が所在する塩山小屋敷南に塩山三日市場の町名として残されている。
「九日市場」については寺領内のいずれかに存在していたと見られているが、地名・伝承いずれも見られず正確な所在地は不明。
双方とも戦国時代に門前市として、恵林寺創建年代の鎌倉時代末期から室町時代初期には成立していたと考えられ、「三日市場」に関しては
明応8年(1499年)時の存在が確認されると云う。

  

「伽藍と庭園」
明治38年、の出火で焼失した後、再建。本堂・庫裡、桃山様式の四脚門(国の重要文化財)や夢窓作といわれる庭園(国指定の名勝)がある。
本堂・明王殿・庫裡・開山堂・柳沢廟・佛舎利宝塔(三重塔)・重要文化財(国指定)

石庭恵林寺四脚門・太刀 銘来国長・短刀 銘備州長船倫光 応安二年と県指定有形文化財等多数。

    

「二十四将」
一般的には次の武将をさす。五十音順、生没年・出自・死因
秋山信友(秋山虎繁) 1527年-1575年 秋山氏 刑死(岩村城の戦い)・穴山信君 1541年-1582年 穴山氏 戦死(本能寺の変)
甘利虎泰 1498年?-1548年 甘利氏 戦死(上田原の戦い)・板垣信方 1489年?-1548年 板垣氏 戦死(上田原の戦い)
一条信龍 1539年?-1582年 武田氏 戦死(甲州征伐)・小畠虎盛(小幡虎盛) 1491年-1561年 甲州小幡氏 病死
小幡昌盛 1534年-1582年 甲州小幡氏 病死・飯富虎昌 1504年?-1565年 飯富氏 自害(義信事件)
小山田信茂 1539年-1582年 小山田氏 刑死(甲州征伐)・高坂昌信(春日虎綱) 1527年-1578年 百姓・春日氏 病死
三枝守友(三枝昌貞) 1537年-1575年 木原領主 戦死(長篠の戦い)・真田幸隆(真田幸綱) 1513年-1574年 真田氏 病死
真田信綱 1537年-1575年 真田氏 戦死(長篠の戦い)・武田信繁 1525年-1561年 武田氏 戦死(川中島の戦い)
武田信廉 1532年?-1582年 武田氏 戦死(甲州征伐)・多田満頼 生年不詳-1563年 多田氏 病死・
土屋昌次(昌続) 1544年-1575年 金丸氏 戦死(長篠の戦い)・内藤昌豊 1522年-1575年 工藤氏 戦死(長篠の戦い)
馬場信春 1515年-1575年 教来石郷領主 戦死(長篠の戦い)・原虎胤 1497年-1564年 原氏 (千葉氏族) 病死
原昌胤 1531年-1575年 原氏 (土岐氏族) 戦死(長篠の戦い)・山県昌景 1529年-1575年 飯富氏 戦死(長篠の戦い)
山本勘助(菅助) 1493年?-1561年 未詳 戦死(川中島の戦い)・横田高松 1487年?-1550年 未詳 戦死(砥石崩れ)
(小山田信茂の代わりに、武田勝頼が入っているものもある)

                    山本勘助 1493?-1561


「山本勘助」 ~1561 軍師・家臣 名 晴行、甲陽軍艦には、天才的軍師。
川中島の戦いで、勘助は「啄木鳥戦法」進言ー啄木鳥は木をつついて虫を驚かし穴から出てくるところを補食するとよい。
一軍を迂回、敵陣の背後を突く・本隊は、敵が撤退しと時撃退する戦法・上杉謙信は事前に読んでいたと云う。謙信が、武田本陣が突撃したのは有名
勘助は、責任を取って敵陣に突っ込み討死しと云う。



「山本勘助不動尊」
山本勘助不動尊のお堂は三日市場と小屋敷の人たち20数戸の家が4戸1組の輪番制で守り、祭りの当番を行っていると云う。
堂内には総高40cmの勘助を模した不動明王像と矜羯羅・勢多迦の2童子が安置されている。
明治23年、お堂を再建したときに恵林寺の円応老師揮筆による「勘助不動尊再建有志名簿」には、1573~1592年、勘助を慕う信心深い仏師が像を刻んで安置したと伝え、毎年1月28日と7月28日の2回の祭典を行ってきたが、今は1月のみ行われている。
盛時には幟を立て縁日も出て近郷近在からも多くの人がお参りをした。祭りには「山本不動尊」とある御札と、勘助不動尊のお姿を版木で刷った2枚の御札が配られる。

川中島の合戦で用いたと伝える「法螺貝」が伝わり、以前は、この法螺貝の音を合図に祭りは行われていたと云う。
  

「大井俣窪八幡神社」ー山梨市北にある神社である。通称窪八幡神社ー
窪地に移したため大井俣窪八幡神社、窪八幡神社とも、別当寺に普賢寺。
由緒に拠れば清和天皇の勅願により、貞観元年の859年、宇佐八幡宮が勧請されたのが始まりといわれ、当初は笛吹川の中島の大井俣の地に建立。
後に現在地に遷座した。
一帯は、中世に八幡郷が成立。戦国期には甲斐国守護武田氏の崇敬を集め、現在の本殿は、1410年、甲斐守護「武田信満」が再建した。
1516年、駿河国今川氏が甲斐西郡の国衆大井氏に加担し甲斐国内に侵攻し、この際の兵火により社殿の多くを消失し、現存する建造物の多くはこの後に再建されたものが多いと云う。
窪八幡神社本殿は、1519年、甲斐守護武田信虎により造営された。
1522年に、造営された山梨市大工の天神社本殿と一連のもので、両社は古代条里制を利用した東西中軸線によって結ばれ、建築様式にも共通性が見られると云う。



「武田 信満」  ?-1417、室町時代前期の守護大名。甲斐国・安芸国守護。甲斐武田氏の第13代当主。
第12代当主・武田信春の嫡男。息子に14代当主武田信重・武田信長(上総武田氏祖)、武田信景、今井信経。官位は安芸守。通称は武田二郎。
1413年、父の死により家督を継いで当主。
室町時代に甲斐国は関東8か国を支配する鎌倉府の管轄下に置かれていたが、1416年に鎌倉で鎌倉公方と前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立から
禅秀による反乱が起こったとき(上杉禅秀の乱)、氏憲の縁者(小舅)に当たる信満は氏憲側に与した。
しかし翌年、将軍・足利義持の命を受けた上杉房方や今川氏を中心とする幕府軍が鎌倉に攻め入ると、信満は氏憲らと共に懸命に戦ったが敗れ、
氏憲は自害して乱は鎮圧された。
信満は本国に敗走したが、やがて上杉憲宗の追討を受け、山梨・都留郡木賊山(山梨県甲州市)で自害する。
又、木賊山は後に織田信長の追討を受けた第20代当主武田勝頼が自害して、武田氏滅亡の地となる天目山の旧名であり、実は両者は同じ山中で自害した事になる。墓所は甲州市の棲雲寺。
信満期の発給文書は皆無であるが、わずかに1400年、に「窪八幡神社(山梨市)」を再建したことや、1412年、に「大八幡山宮天神宮(北杜市)」
に鰐口を寄進した記録が残る。

主祭神ー誉田別尊・足仲彦尊・息長足姫尊、県社。創建ー貞観元年の859年。例祭ー10月15日。

    

「重要文化財」-(国指定)拝殿・鳥居・摂社若宮八幡神社本殿・若宮八幡神社拝殿 ・武内大神本殿・高良神社本殿・末社比三神本殿
神門、 石橋1基・神社正面の小川に架橋された石橋で、1535年、高遠石工による造立の銘を持つ。花崗岩製で反勾欄付。
戦国期の高遠石工の作例であるとする銘に関しては、江戸時代の元禄期以降に高遠石工により修復されたとする説もあるが、神門と同時期に造立されたと考えられている。
県指定文化財、鐘楼・如法経塔 ・紙本墨画淡彩窪八幡神社境内古絵図 等多数。

    

西の武田八幡、東の窪八幡
創建は平安時代にさかのぼる。八幡社は、源氏の守護神、・甲斐源氏武田氏の崇敬を受けた神社。
武田信満建立と伝わる本殿は武田信虎により改修。拝殿は信濃の村上義清を駆逐した信玄によって造営され、日本最古の木製の鳥居などが。

    

次回は、塩山方面へ。