国道411号・滝山街道は、都八王子市から東京都西多摩郡奥多摩町を経て山梨県甲府市に至る一般国道。「甲州裏街道」と呼ばれる。
ー 都八王子市左入町(国道16号左入町交差点) -都青梅市(吉野街道・友田町交差点)
吉野街道ー都青梅市友田町 -都青梅市畑中 - 山梨県北都留郡丹波山村大菩薩ライン山梨県道路。
山梨県丹波山村鴨沢(東京都との県境) - 笛吹市石和町ー甲府市。
八王子市左入町・国道16号からー首都圏中央連絡自動車道あきる野インターチェンジ付近まで西進。新滝山街道と並行
あきる野ICー北にーあきる野市街を通過・市街地を抜け、新満地トンネルで満地峠を越えて、青梅市に入る。
ー御嶽駅を過ぎて西多摩郡奥多摩町に入ると谷沿いを進むようになる。鳩ノ巣駅を過ぎ、新氷川トンネルを抜け、奥多摩の玄関口である奥多摩駅。
奥多摩湖畔の北側を西進し、国道139号と接続し、山梨県に入る。
路線延長ー118.7 km (1982年)
「法林禅寺」ー臨済宗南禅寺派の寺院ー神護山と号し、
法林圓融禅師(康応元年の1389年寂)が開山・創建、江戸期には寺領25石の御朱印状を拝領したという。
本堂
「新編武蔵風土記稿による法林寺の縁起」(小川村)法林寺
境内、千二百坪、御朱印地内、村の東寄にあり、禅宗臨済派、同郡山田村廣園寺の末山、神護山と號す、開山法林圓融禅師康應元年三月六日寂す、
本尊釋迦立像長一尺五寸、客殿六間に九間、東向、寺領として御朱印廿五石の地を賜ふ。
鐘楼。客殿の傍にあり、九尺四方。(新編武蔵風土記稿より)
銀杏の巨木が境内に二本
「宝清寺」-日蓮宗・山号は水谷山。
日蓮宗身延山久遠寺の末寺。
開山は法清院日億上人、開基は青木勘左衛門(武田勝頼の縁者)。甲州武田勝頼の滅亡後、その青木勘左衛門は、八王子城落城後、関東に入国した
徳川家康に見出されてこのあきる野市小川の地を賜った。
勘左衛門は、戦国時代に滅んだ武士達の霊を弔うために出家し、元和年間の(1615 - 1624年、 故郷甲斐国雨利郷(甘里)にあった東照山教林寺を
この地に移し東照山法清寺と号し創立。境内地は武蔵七党の1つである西党の小川氏の居城・小川城の跡とされている。
最初は、東照山と号し、1704 - 1711年、 九世圓妙院日亮上人の代に、東照山とは徳川家に対して畏れ多い山号だとして、
領主水谷信濃守より身延山に申し出て、寺禄等を寄進して祈願処としたことにより
水谷山・寶清寺と改められた。
潤いある草花丘陵の一角に ある約四百年前に創建された由緒あるお寺。
市名木・巨木百選指定の枝垂れ桜が、本尊ー十界曼荼羅
「宝清寺」から見た滝山・都立滝山公園・滝山城跡。
滝山城跡は、国史跡に指定され、有数の中世城郭跡。今年の5月で掲載していますので、この後に続けました。
丘陵上に築いた丘山城となり、形態は自然の地形と堀・土塁などで構築
「野辺八雲神社ー天王祭と神楽」(7月25日直近の土,日曜日)
牛頭天王を祭神とする野辺八雲神社は今から約550年前の創建という古い歴史を持つ神社。
祭礼は毎年7月25日直近の日曜日で午前9時から式典が行われ、子供神輿、山車が午前10時から、大人神輿は午後1時に宮出しされて氏子町会を
巡幸し、また、祭礼には野辺の神楽が奉納される。
この祭り、中断の後、昭和48年、祭礼で復活し野辺地区の人だけで伝承しているが、農村地域に残る「村祭り」の雰囲気が味わえると人気が。
野辺 八雲神社
「普門禅寺」-臨済宗建長寺派・神護山と号し、心源希徹(応永10年1403年寂)が開山・創建。
天正19年の1591年、徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領したという。
「野邊村ー普門寺」
境内、五百坪、御朱印地内、禅宗臨済派、鎌倉五山の内壽福寺の末山なり、神護山と號す、開山心源希徹應永十年十月十三日寂す、本尊千手観音木の坐像、長一尺五寸許、客殿八間に九間半、南向、天正十九年十一月村内に於て御朱印寺領十石の地を御寄附ありと云。
鐘楼。門を入て右にあり、銘文に明徳應永の間、北條氏照開基せしよしをのす、氏照は天正十八年に死せし碑とて、年代はるかにたがへり、されど元禄の銘文なればそのまま左に記せり。(銘文省略)(新編武蔵風土記稿より)
1269年、「北条時宗」によって、二宮神社の廃社跡地に建てられ、山号もこれに由来して「神護山」と名づけられたと伝えられている。
鎌倉の寿福寺末でしたが、明治初年に建長寺末となっている。
2015年5月23日掲載。
「甲州裏街道・滝山街道」
国道411号。八王子市からーあきる野ー青梅ー西多摩ー奥多摩ー山梨県北都留ー甲州ー終点甲府、全長118.7KM、山梨県甲府市に至る一般国道である。
八王子 - 甲府間を通る国道20号(甲州街道)に対し、途中の青梅市から、甲州裏街道と呼ばれる。
都南西多摩地区の中心、市名は、城山に牛頭天王の8人の王子を祀った「八王子権現・八王子城・守護神」に由来する。(次回は、八王子城址へ)
多摩川の支流「浅川」に沿う八王子盆地の段丘上、その北、加住丘陵・南は多摩丘陵・南西部が高尾山・その北に景信山・陣馬山などで自然公園に。
「大石 定重」1467ー1527
戦国時代の武将。大石氏は武蔵国の国衆で、山内上杉氏の有力宿老。
定重は、遠江守家の五代目、父は大石憲儀。母は矢野範泰の娘で、定重は庶子。
伯父に四代目の源左衛門尉、子に六代目の道俊(顕重か)・遠江守・信濃守がいる。高月城ー滝山城城主となる。
武蔵国守護代。
室町時代初期、
「大石為重」は、初代関東管領の上杉憲顕に仕え、男子がなく、1334年に、縁戚関係にある木曾義仲の血筋を引くとされる「大石信重」(木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、源姓木曾氏の庶家となったという。
大石信重は、1351年、挙兵した南朝方の「新田義宗」との笛吹峠の合戦で先陣を勤め、戦功として、1356年、武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)に館を構えた。
また、「武蔵国目代職」にも任じられた。1384年、信重は浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城。
応永年間には叔父(養叔父)の大石能重(為重の弟)が武蔵・上野・伊豆各国守護上杉能憲に仕えて守護代を務めている。
1458年、大石顕重(信重の玄孫)が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から「滝川城・本拠地」を移したと云う。
15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、漢詩文集「梅花無尽蔵」巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国守護の家臣に、木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。
1521年、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転したとある。
1546年,関東に進出した後北条氏の「北条氏康」が河越夜戦で大勝。
その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、関東管領山内上杉氏は武蔵国から排除され、越後国の長尾景虎を頼って没落する。
主家上杉氏の没落により、大石定久は、北条氏康の三男・氏照を娘・「比佐」の婿に迎えて、自らは戸倉に隠居。
領地支配を守護上杉氏に頼りすぎた大石氏は、ほかの守護代のように領域支配に失敗し、戦国大名への脱却をできなかったという。
小田原征伐により後北条氏が没落すると・
大石定久の実子大石定仲と養子大石定勝は徳川氏に仕えた。八王子千人同心としてその子孫は明治時代を迎えている。
城郭構造は、連郭式山城 (天守構造なし)
築城主ー大石定重(築城年、大永元年・1521年)・主な改修者ー北条氏照 。廃城・永禄12年(1569年)から元亀3年(1572年)頃
遺構は、土塁、堀、井戸。
1569年、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、
これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。
しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。
「なお、近年、1561年、春に上杉謙信が小田原城を攻めた際に滝山城下を経由した形跡があるのに合戦が起きていないこと、
同年7月に北条氏康が三田氏を攻めた際に滝山城よりも遠い由井城(浄福寺城とみられる)に本営を置いていることなど、滝山城が存在していれば起こり得ない事例を挙げて、同年当時滝山城はまだ存在していないとした説もある。
小田原城から由井の北条氏照への棟別銭免除の指示を示した朱印状が出された1563年4月より北条氏照が滝山城への年貢納入を命じた「発給文書」が
出された1567年9月までの4年余りの時期に上杉謙信の南下に対抗するために滝山城が築城されたとする説もある。」
現在、都立滝山公園。
滝川城は、多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇ったとある。
現在、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っており、国の史跡に指定されている。
「北条氏康」 1515-1571 北条家を発展に導いた名将・小田原北条三代目・氏綱の長男
扇谷上杉氏・山内上杉氏を河越で破り、古河公方を傀儡年、関東の南半を支配した。武田信玄・上杉謙信と抗争・同盟を繰り返し領土拡大。
税制改革・検地を推進していく、「河越城では、上杉・古河連合軍8万に囲まれ、8千を率いて援軍の向かうが、その都度退却している。
日本三大夜戦「河越の奇襲夜戦」で、北条氏関東支配を決定的にした。
遺言に、上杉謙信頼りにならず、武田信玄と同盟を結べ、、、遺言している。
多摩川を見下ろす加住丘陵上、戦国時代の山城の遺構がよく残されている。
城跡一帯は、「滝山都立自然公園」桜の名所・面積約81万m2ある。
「引き橋」
中の丸の木橋が、深い堀の上に架かっているこの橋は、本丸と中の丸を結ぶ引き橋であるが、当時はもう少し下に架けられて、全長も短かく、
引き橋は、曳橋とも書き、戦の時には橋を曳けるようにしている。
本丸・中の丸・二の丸・空堀などから、上杉謙信・武田信玄猛攻を受け、特に信玄・勝頼父子の1569年10月の戦いは、熾烈を極めたと云う。
後の北条氏照時代に、攻撃に備えるため、南西約9kmに、次回掲載する「八王子城」を築城移転している。
「金比羅社再建之碑」
由来は、1781年〜、に滝村が造営したと武蔵風土記に記載されている。
江戸時代から本丸一帯は麓の滝村に年貢の免税地として受け継がれており、水田の米、豊富な薪炭、川魚を産物として豊かな村は栄え、多摩川の漁場で捕れた鮎は将軍へ献上されていました。農閑期には多摩川と秋川が合流する地の利を生かし、江戸の繁栄に伴う需要増から森林材の中継地として材木筏を組み、物資を乗せて多摩川を下り、江戸への輸送を村ぐるみの生業としていました。
村人たちは水運の安全と事業の繁栄を願って、多摩川を一望できるこの場所に海運(開運)の神様として名高い金比羅様を祀った。・・・・。
「あきる野市に造り酒屋・中村酒造―千代の鶴がある」
1804年200年前創業の清酒「千代鶴」を醸す中村酒造は、あきる野の今でも鮎釣りの盛んな清流 秋川の流域に位置し、仕込水は、秩父古生層によって
磨かれた清冽な水を地下170メートルより汲み上げたものを使用していると云う。見学もできる。 ℡042-558-0516
次回は、JR武蔵五日線・熊川駅方面へ。