syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

東京の雪・ゆき・ゆき

2016-01-18 | 諸々日記
天気予報で昨夜から雪とは聞いていましたが、今朝起きてビックリポン。
我が家の周り、


都心は、この程度の積雪で、交通機関が乱れます。







明日は、多摩川散歩に戻ります。

東秋留と滝山城-多摩川散歩(10)

2016-01-18 | syu散歩
国道411号・滝山街道は、都八王子市から東京都西多摩郡奥多摩町を経て山梨県甲府市に至る一般国道。「甲州裏街道」と呼ばれる。

ー 都八王子市左入町(国道16号左入町交差点) -都青梅市(吉野街道・友田町交差点)
吉野街道ー都青梅市友田町 -都青梅市畑中 - 山梨県北都留郡丹波山村大菩薩ライン山梨県道路。
山梨県丹波山村鴨沢(東京都との県境) - 笛吹市石和町ー甲府市。

八王子市左入町・国道16号からー首都圏中央連絡自動車道あきる野インターチェンジ付近まで西進。新滝山街道と並行
あきる野ICー北にーあきる野市街を通過・市街地を抜け、新満地トンネルで満地峠を越えて、青梅市に入る。
ー御嶽駅を過ぎて西多摩郡奥多摩町に入ると谷沿いを進むようになる。鳩ノ巣駅を過ぎ、新氷川トンネルを抜け、奥多摩の玄関口である奥多摩駅。
奥多摩湖畔の北側を西進し、国道139号と接続し、山梨県に入る。

            路線延長ー118.7 km (1982年)
  

「法林禅寺」ー臨済宗南禅寺派の寺院ー神護山と号し、
法林圓融禅師(康応元年の1389年寂)が開山・創建、江戸期には寺領25石の御朱印状を拝領したという。

                       本堂
  

「新編武蔵風土記稿による法林寺の縁起」(小川村)法林寺
境内、千二百坪、御朱印地内、村の東寄にあり、禅宗臨済派、同郡山田村廣園寺の末山、神護山と號す、開山法林圓融禅師康應元年三月六日寂す、
本尊釋迦立像長一尺五寸、客殿六間に九間、東向、寺領として御朱印廿五石の地を賜ふ。
鐘楼。客殿の傍にあり、九尺四方。(新編武蔵風土記稿より)

                 銀杏の巨木が境内に二本
    

「宝清寺」-日蓮宗・山号は水谷山。
日蓮宗身延山久遠寺の末寺。
開山は法清院日億上人、開基は青木勘左衛門(武田勝頼の縁者)。甲州武田勝頼の滅亡後、その青木勘左衛門は、八王子城落城後、関東に入国した
徳川家康に見出されてこのあきる野市小川の地を賜った。
勘左衛門は、戦国時代に滅んだ武士達の霊を弔うために出家し、元和年間の(1615 - 1624年、 故郷甲斐国雨利郷(甘里)にあった東照山教林寺を
この地に移し東照山法清寺と号し創立。境内地は武蔵七党の1つである西党の小川氏の居城・小川城の跡とされている。

最初は、東照山と号し、1704 - 1711年、 九世圓妙院日亮上人の代に、東照山とは徳川家に対して畏れ多い山号だとして、
領主水谷信濃守より身延山に申し出て、寺禄等を寄進して祈願処としたことにより

               水谷山・寶清寺と改められた。
    

潤いある草花丘陵の一角に ある約四百年前に創建された由緒あるお寺。

       市名木・巨木百選指定の枝垂れ桜が、本尊ー十界曼荼羅
    

「宝清寺」から見た滝山・都立滝山公園・滝山城跡。
滝山城跡は、国史跡に指定され、有数の中世城郭跡。今年の5月で掲載していますので、この後に続けました。

     丘陵上に築いた丘山城となり、形態は自然の地形と堀・土塁などで構築


「野辺八雲神社ー天王祭と神楽」(7月25日直近の土,日曜日)
牛頭天王を祭神とする野辺八雲神社は今から約550年前の創建という古い歴史を持つ神社。
祭礼は毎年7月25日直近の日曜日で午前9時から式典が行われ、子供神輿、山車が午前10時から、大人神輿は午後1時に宮出しされて氏子町会を
巡幸し、また、祭礼には野辺の神楽が奉納される。
この祭り、中断の後、昭和48年、祭礼で復活し野辺地区の人だけで伝承しているが、農村地域に残る「村祭り」の雰囲気が味わえると人気が。

              野辺 八雲神社
    

「普門禅寺」-臨済宗建長寺派・神護山と号し、心源希徹(応永10年1403年寂)が開山・創建。
天正19年の1591年、徳川家康より寺領10石の御朱印状を拝領したという。

    

「野邊村ー普門寺」
境内、五百坪、御朱印地内、禅宗臨済派、鎌倉五山の内壽福寺の末山なり、神護山と號す、開山心源希徹應永十年十月十三日寂す、本尊千手観音木の坐像、長一尺五寸許、客殿八間に九間半、南向、天正十九年十一月村内に於て御朱印寺領十石の地を御寄附ありと云。
鐘楼。門を入て右にあり、銘文に明徳應永の間、北條氏照開基せしよしをのす、氏照は天正十八年に死せし碑とて、年代はるかにたがへり、されど元禄の銘文なればそのまま左に記せり。(銘文省略)(新編武蔵風土記稿より)

1269年、「北条時宗」によって、二宮神社の廃社跡地に建てられ、山号もこれに由来して「神護山」と名づけられたと伝えられている。
鎌倉の寿福寺末でしたが、明治初年に建長寺末となっている。
      




2015年5月23日掲載。
「甲州裏街道・滝山街道」
国道411号。八王子市からーあきる野ー青梅ー西多摩ー奥多摩ー山梨県北都留ー甲州ー終点甲府、全長118.7KM、山梨県甲府市に至る一般国道である。
八王子 - 甲府間を通る国道20号(甲州街道)に対し、途中の青梅市から、甲州裏街道と呼ばれる。

    

都南西多摩地区の中心、市名は、城山に牛頭天王の8人の王子を祀った「八王子権現・八王子城・守護神」に由来する。(次回は、八王子城址へ)
多摩川の支流「浅川」に沿う八王子盆地の段丘上、その北、加住丘陵・南は多摩丘陵・南西部が高尾山・その北に景信山・陣馬山などで自然公園に。

「大石 定重」1467ー1527
戦国時代の武将。大石氏は武蔵国の国衆で、山内上杉氏の有力宿老。
定重は、遠江守家の五代目、父は大石憲儀。母は矢野範泰の娘で、定重は庶子。
伯父に四代目の源左衛門尉、子に六代目の道俊(顕重か)・遠江守・信濃守がいる。高月城ー滝山城城主となる。
武蔵国守護代。

    

室町時代初期、
「大石為重」は、初代関東管領の上杉憲顕に仕え、男子がなく、1334年に、縁戚関係にある木曾義仲の血筋を引くとされる「大石信重」(木曽家教の三男、家村の弟)を婿養子として迎え、源姓木曾氏の庶家となったという。
大石信重は、1351年、挙兵した南朝方の「新田義宗」との笛吹峠の合戦で先陣を勤め、戦功として、1356年、武蔵国入間・多摩の両郡に13郷を得て多摩に移住し、二宮(現・あきる野市)に館を構えた。
また、「武蔵国目代職」にも任じられた。1384年、信重は浄福寺城(現・八王子市下恩方町)を築城。
応永年間には叔父(養叔父)の大石能重(為重の弟)が武蔵・上野・伊豆各国守護上杉能憲に仕えて守護代を務めている。
1458年、大石顕重(信重の玄孫)が高月城(現・八王子市高月町)を築城し、二宮から「滝川城・本拠地」を移したと云う。

15世紀末期頃の禅僧・万里集九の著作、漢詩文集「梅花無尽蔵」巻六の「万秀斎詩序」に、武蔵国守護の家臣に、木曾義仲十代の子孫・大石定重がおり、武蔵国20余郡を掌握しているとの記述がある。
1521年、定重は高月城の北東1.5kmに滝山城(現・八王子市丹木町)を築城し本拠を移転したとある。

    

1546年,関東に進出した後北条氏の「北条氏康」が河越夜戦で大勝。
その結果、扇谷上杉氏は滅亡し、関東管領山内上杉氏は武蔵国から排除され、越後国の長尾景虎を頼って没落する。
主家上杉氏の没落により、大石定久は、北条氏康の三男・氏照を娘・「比佐」の婿に迎えて、自らは戸倉に隠居。
領地支配を守護上杉氏に頼りすぎた大石氏は、ほかの守護代のように領域支配に失敗し、戦国大名への脱却をできなかったという。
小田原征伐により後北条氏が没落すると・
大石定久の実子大石定仲と養子大石定勝は徳川氏に仕えた。八王子千人同心としてその子孫は明治時代を迎えている。



城郭構造は、連郭式山城 (天守構造なし)

  

築城主ー大石定重(築城年、大永元年・1521年)・主な改修者ー北条氏照 。廃城・永禄12年(1569年)から元亀3年(1572年)頃
遺構は、土塁、堀、井戸。

  

1569年、小田原攻撃に向かう武田信玄軍2万が滝山城の北側の拝島に陣を敷き、別働隊の小山田信茂隊1千が小仏峠から進入、
これに対し北条方は廿里で迎撃したが一蹴され(廿里古戦場)、滝山城三の丸まで攻め込まれ落城寸前にまで追い込まれたが、2千の寡兵で凌いだ。
しかしこの戦いは、滝山城の防御体制が不十分であることを痛感させ、八王子城を築城し移転するきっかけとなったといわれている。

「なお、近年、1561年、春に上杉謙信が小田原城を攻めた際に滝山城下を経由した形跡があるのに合戦が起きていないこと、
同年7月に北条氏康が三田氏を攻めた際に滝山城よりも遠い由井城(浄福寺城とみられる)に本営を置いていることなど、滝山城が存在していれば起こり得ない事例を挙げて、同年当時滝山城はまだ存在していないとした説もある。
小田原城から由井の北条氏照への棟別銭免除の指示を示した朱印状が出された1563年4月より北条氏照が滝山城への年貢納入を命じた「発給文書」が
出された1567年9月までの4年余りの時期に上杉謙信の南下に対抗するために滝山城が築城されたとする説もある。」

    

現在、都立滝山公園。
滝川城は、多摩川と秋川の合流点にある加住丘陵の複雑な地形を巧みに利用した天然の要害で、関東随一の規模を誇ったとある。

    

現在、遺構として本丸・中の丸・千畳敷跡空堀などが残っており、国の史跡に指定されている。

  

「北条氏康」 1515-1571 北条家を発展に導いた名将・小田原北条三代目・氏綱の長男
扇谷上杉氏・山内上杉氏を河越で破り、古河公方を傀儡年、関東の南半を支配した。武田信玄・上杉謙信と抗争・同盟を繰り返し領土拡大。
税制改革・検地を推進していく、「河越城では、上杉・古河連合軍8万に囲まれ、8千を率いて援軍の向かうが、その都度退却している。
日本三大夜戦「河越の奇襲夜戦」で、北条氏関東支配を決定的にした。
遺言に、上杉謙信頼りにならず、武田信玄と同盟を結べ、、、遺言している。

    

多摩川を見下ろす加住丘陵上、戦国時代の山城の遺構がよく残されている。

  

城跡一帯は、「滝山都立自然公園」桜の名所・面積約81万m2ある。

「引き橋」
中の丸の木橋が、深い堀の上に架かっているこの橋は、本丸と中の丸を結ぶ引き橋であるが、当時はもう少し下に架けられて、全長も短かく、
引き橋は、曳橋とも書き、戦の時には橋を曳けるようにしている。

    

本丸・中の丸・二の丸・空堀などから、上杉謙信・武田信玄猛攻を受け、特に信玄・勝頼父子の1569年10月の戦いは、熾烈を極めたと云う。

  

後の北条氏照時代に、攻撃に備えるため、南西約9kmに、次回掲載する「八王子城」を築城移転している。

「金比羅社再建之碑」
由来は、1781年〜、に滝村が造営したと武蔵風土記に記載されている。
江戸時代から本丸一帯は麓の滝村に年貢の免税地として受け継がれており、水田の米、豊富な薪炭、川魚を産物として豊かな村は栄え、多摩川の漁場で捕れた鮎は将軍へ献上されていました。農閑期には多摩川と秋川が合流する地の利を生かし、江戸の繁栄に伴う需要増から森林材の中継地として材木筏を組み、物資を乗せて多摩川を下り、江戸への輸送を村ぐるみの生業としていました。
村人たちは水運の安全と事業の繁栄を願って、多摩川を一望できるこの場所に海運(開運)の神様として名高い金比羅様を祀った。・・・・。


「あきる野市に造り酒屋・中村酒造―千代の鶴がある」

1804年200年前創業の清酒「千代鶴」を醸す中村酒造は、あきる野の今でも鮎釣りの盛んな清流 秋川の流域に位置し、仕込水は、秩父古生層によって
磨かれた清冽な水を地下170メートルより汲み上げたものを使用していると云う。見学もできる。  ℡042-558-0516


次回は、JR武蔵五日線・熊川駅方面へ。

東秋留-多摩川散歩(9)

2016-01-15 | syu散歩

「平将門」~940 新皇を称した反逆者といわれている。
東国の桓武平民武将、京都では、「藤原忠平」に仕え、無位無官で下総に帰郷している。武蔵国の官人と土豪の争いに介入を契機に反乱を起こす。
東国国司を追放し新皇と称した。しかし、一族平ら貞盛・下野押領使「藤原秀郷」に討たれる。将門首塚は、大手町にある。

「藤原秀郷」不詳 下野国田原に住み「田原藤太」・京都では、琵琶湖の龍神に頼まれ近江國三上山の大ムカデを退治、お礼に、いくら米を取っても
無くならない米俵等の宝物を貰ったので「俵藤太」と呼ばれたと云うー武勇と冨を示す伝説がある。小山・結城氏等の子孫を東国に残している。

「源頼朝」1147-99 武家政治の創始者・鎌倉幕府初代将軍・征夷大将軍。

「武蔵国二宮神社」
神社は、武蔵総社六所宮(府中大国魂神社の所座の第二席。)
六所宮ー一之宮小野大神・二之宮小河大神・三之宮氷川神社・四之宮秩父大神・五之宮金佐奈大神・六之宮杉山大神の六社
平安時代「藤原秀郷」は、近江國山王21神中の二宮を崇拝しており「天慶の乱ー939年」平 将門討伐出陣時、ここ武蔵国二宮神社で戦勝祈願をし
乱平定後は、社殿玉垣を造営し社領百町を寄進したとある。

            五日市街道沿いにある「二宮神社」




「武蔵国二宮神社」
神社は、武蔵総社六所宮(府中大国魂神社の所座の第二席。)
六所宮ー一之宮小野大神・二之宮小河大神・三之宮氷川神社・四之宮秩父大神・五之宮金佐奈大神・六之宮杉山大神の六社
平安時代「藤原秀郷」は、近江國山王21神中の二宮を崇拝しており「天慶の乱ー939年」平 将門討伐出陣時、ここ武蔵国二宮神社で戦勝祈願をし
乱平定後は、社殿玉垣を造営し社領百町を寄進したとある。

鎌倉時代は、建久年間に「源頼朝」より社領千石の寄進。ー鎌倉時代には、当地付近に、大石氏中興の祖とされる信重が二宮城館を構え、5代にわたって
居城としたと記録が残っている。昭和47年、境内の一角発掘調査したが資料を得る事が出来なかったと云う。
発掘調査で小型懸仏の金銅製の薬師如来像・中世の瓦が発見され新たな謎を呼んでいる。

戦国時代の1572年、「北条氏政」は、社領五百石を寄進・弟「氏照(滝山城主)」祈願所として崇敬を寄せていたとある。
江戸時代は、1591年徳川家康が代々15石の御朱印地と認め幕末まで続いたとある。

     武蔵国二宮神社(9月9日のしょうが祭りは有名、参道にしょうがを売る店が)
    

宮殿ー室町時代・末社ー諏訪神社、社宮社、荒波々伎神社、五社合祀  御手洗池、、。

     拝殿ー昭和初期    本殿ー江戸時代初期(市文化財指定)


「玉泉寺」
天台宗の寺、鷲峰山と号し、寛永18年の1641年、上野寛永寺派衆徒吉祥院が開基、霊山院亮海法子全海が中興したという。
1649年、には、徳川家光より寺領20石の御朱印状を拝領している。
当初は、平井川べりに近い屋城(ヤシロ)にあったものの、いつの頃か高台の当地へ移転、
明治期には二宮小学校の校舎として使用されていた。

                   仁王門


                    本堂
 

玉泉寺は、「お十夜」の寺として知られ、お十夜とは陰暦十月六日から十五日にかけての十昼夜のあいだ修される念仏をいうと云う。
十夜念仏、玉泉寺では元禄年間から約三百年近く伝えられてきたもので、浄土宗の法要であるが、玉泉寺は、本尊が阿弥陀如来なので、
お十夜が行われてきたのであろう。十月十五日に行われている。
秋川や五日市、桧原地方にかけて「お十夜講」という講があって、お十夜の日にはたくさんのなくなった人々の霊を弔うお札が寺に納められている。

本堂には明治初年に成田山より遷座されたと伝える木像不動明王坐像がまつられている。脇侍の矜羯羅童子、制吒迦童子ともに優品である。
また本寺は、東秋留小学校の前身である二宮小学校として、明治六年、から同二十四年まで、校舎として使用されていたと云う。(「秋川市史」より)

               鐘楼墓地内に22㎡の榎の巨木が
      

「瀬戸岡・珠陽院」
           臨済宗建長寺派、境内には、梅・桜・ツツジ・牡丹等が
    

明治ー平井学校瀬戸岡分教場に使われたと云う。境内には享保12年の1727年、建立 されたと言われる
「巳待(みまち)供養塔」があり、養蚕農家の守護神として祀られたと云う。

                     本堂


平井川・草花公園も近い
東京で豊かな自然が同居している町。

         平井川とその周辺には、まだまだ多彩な生きものが生息している。
    

「尾崎観音・宝蔵寺の三匹獅子舞」
獅子頭には宝暦2年の1752年、の銘があるという。250年からの歴史を有している。
棒術に関しては、宝暦年間からあったとされる棒踊りに武術の型を組み入れたものと云われ、明治の初期に、天然理心流の使い手で、信州高遠の
大西茂十郎が広めたものと云われている。
花掛かり、花笠の周囲を三匹の獅子が連なって回る(毎年9月下旬)

    

「光雲山・宝蔵寺」ー曹洞宗  本尊ー薬師如来  
JR秋川駅の北、徒歩約25分で、里山にたたずむ寺。-開創の年代は明らかではないが古刹。

本堂の前に赤い観音堂と鐘楼が、観音堂は「尾崎観音」と呼ばれ、安産や子授けの観音様として古くから信仰を集めてきた。
堂内には源頼朝の側室丹後局の守本尊であったとされる如意輪観音を安置。
堂の前には安産を願う女性たちによる数多くの絵馬が奉納されていて、今なお厚い信仰を集めている姿を見せている。

1751-1764年「源頼朝の三男(薩摩守忠国・母丹後の守本尊)
    

観音堂             本堂              百日紅の木
    

               秋川18番札・玉川24番札
  

次回は、滝山街道方面へ。 

瀬戸岡古墳-多摩川散歩(8)

2016-01-13 | syu散歩
「秋川・加住丘陵」関東山地の東に続く尾根は、高さ200~300m級の丘陵地で八王子市と続く、昭和28年「秋川丘陵地自然公園」にしてされている。
東端に戦国時代の山城「滝山城」跡がある。
秋川は、多摩川と秋川に挟まれる地域「西多摩郡東秋留・西秋留・多西が合併して「秋多町」1972年に市制施行して「秋川市」、1995年平成7年
五日市町と合併して現在の「あきる野市」となる。
昭和40年以降急速に人口増加、「瀬戸岡古墳群・石室」は、住宅街の中に。

            JR秋川駅(ー武蔵引田駅・東秋留駅ー)


秋留台地の大塚古墳はほとんど円墳の形をなしているが、築造当時には方墳では。
古代・奈良時代における官牧の一つで「小川牧」と呼ばれ、武蔵国の有数な官牧。
古代末期に活躍する武蔵七党はこれら官牧と深い関連をもち、官牧の支配によって活躍の裏付けが。
秋留台地には多くの古代住居遺跡が見られ、特に瀬戸岡古墳群は律令制社会におけるものとして著名であるが、大塚古墳は瀬戸岡古墳群とは比較にならないほど規模が大きいと云う。
大塚古墳は王塚古墳とも呼ばれ、高さは約6m、周囲は約130m余であり、台地に築造された古墳として重要であると云う。(東京都教育委員会)

「律令制」古代中国から理想とされてきた王土王民ー。「土地と人民は王の支配に服属する」という理念を具現化しようとする体制。
王土王民の理念は、「王だけが君臨し、王の前では誰もが平等である」とする一君万民思想と表裏一体の関係をなしていた。
王土王民および一君万民の理念のもと、人民(百姓)に対し一律平等に耕作地を支給し、その代償として、租税・労役・兵役が同じく一律平等に
課せられ、統一的な支配を遺漏なく実施するために、高度に体系的な法令、すなわち律令と格式が編纂され、律令格式に基づいた非常に精緻な官僚機構が構築されていたと云う。
律令制は、各時代・各王朝ごとに異なる部分もあったが、王土王民と一君万民の理念を背景として、次の4つの制度が統治の根幹となっていた。
1-「一律的に耕作地を班給する土地制度中国では均田制、日本では班田収授制(班田制)として施行された。」班給。
2-「個人を課税対象とする体系的な租税制度中国や日本では租庸調制として施行された。」人民は、納税義務を負った。
3-「一律的に兵役が課せられる軍事制度中国では府兵制、日本では軍団制として施行された。」兵役の義務を負った。
4-「人民を把握するための地方行政制度中国では郷里制、日本では国郡里制を採用した。」
班給・課税・徴兵の台帳となる戸籍・計帳の作成が可能となった。逆に言えば、戸籍・計帳の作成によって、上記の三制度の実施が可能となった。
律令国家は、非常に精緻な律令法典と、それに基づいた高度に体系化された。



奈良時代以前、朝廷中心に歴史は動いた時代で、朝廷の支配が次第に広まっていく。地方独自の動きは、伝わるものが無い。
大和朝廷は、3世紀奈良盆地の東南部に生まれている。当初「三輪山」の神を祭り、亡くなった天皇・大王葬るー古墳ーを神聖視する神権政治を
行った。それが地方に流れ、首長とのいあだに主従かんけいを広めていった。
6世紀になると大和朝廷が確立し、7世紀に「聖徳太子」のもと中央集権が進められ「律令制定」に繋がっていく。
国司ー地方支配ー初期荘園ー中央・地方が繋がっていく。寄進地系荘園が全国化するには10世紀を待たなくてはならなかった。
我が国最古の歴史書「古事記・日本書紀」で、それ以前は、伝説・別人・事跡であるが切り捨てるわけにはいかない。

                   瀬戸岡・神明社(近くに滝山街道が)
    

秋留台地の西方は、緑深い山々が連なっており、その山々から流れ出た水はやがて川となり台地をユックリと西から東に流れている。
環境からも山里には太古より人々が暮らしていたのが判る。
古代人は、山からの恵みと、川からの恵みに支えられてきた。山に入り峠を作り山向こうの人々と交流を広げていったと思われる。
そこで、生活の道具を学んでいったのであろう。その道具等が掘り出され遺跡として見る事が出来る。

                瀬戸岡古墳石室露出保存・横穴式石室
  

「縄文土器と弥生土器・古墳」
蓄えることを主用途にした器種とされ、ほとんどなかった縄文土器に比べて弥生土器に多い。

深鉢の代わりに甕で煮沸を行う、煮炊きの機能を持っていた深鉢の代わりに、甕で炊飯などを行うようになっている。
甕のうち大型のものは水甕として使用。

縄文土器にない仕上げ手法が出てくる。割り板を使って器表をこする(刷毛目)、刻み目を彫り込んだ板で叩いて仕上げる(叩き)、文様を彫り込んだスタンプを押し付けるなどといった仕上げ技法が生まれている。成形・仕上げ用の工具に、鉄器による加工が目立つのも特徴の一つ。

弥生土器には、縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと思われる」という記載が見られが、
参考文献(佐原眞「日本人の誕生」)を見ても、これは間違いであるとされている。

縄文時代も後晩期になると、装飾的なものはグンと減り、前~中期のものは確かに装飾性豊かなものがあります。しかし西日本の縄文土器などは
後晩期になると、かなり簡素な外見になることが良く知られていると云う。

          瀬戸岡古墳群・大正15年発見(都指定史跡)


あきる野市内には秋留台地を中央に東西に流れる秋川、平井川の流域を中心に100箇所以上の遺跡が分布.
これらの遺跡から出土した土器や石器を展示している。(無料)

                 丘陵を下ると平井川
  

二宮森腰遺跡ー縄文時代の土偶・土器・槍先形尖頭器、、、。
代継遺跡ー古墳時代の土師器台付    砂沼遺跡ー中世の下駄・瓦等が

               瀬戸岡古墳中央に大きな古墳が
  

ここは多西地区で、多摩川と平井川が流れ、北部には羽村草花丘陵がある緑豊かな起伏に富んでいる。この環境を生かし秋川牛・東京軍鶏の飼育が。
羽村・福生方面を一望できる「大澄山」・圏央道の日の出IC・農村歌舞伎・菅生歌舞伎・1590年八王子落城し、1188年畠山重忠の伯母の為の創建
円寿院の天然記念物モッコク・タブノキ、、、、散策に良い地域。

                「二宮考古館」東秋留駅約徒歩5分(二宮神社境内内)
    

多西橋ー平高橋の平井川両岸の桜並木は知られている。

                館内には縄文時代から年別に展示
    

立川国際カントリー・菅生子供体験の森もこの多西にある。

                 イラスト・写真で説明
    

               滝山城跡が近い。中世の瓦など
    

「平井川」 1級河川
都西多摩郡日の出町と青梅市の境界にある標高902mの日の出山に源を。
日の出町、あきる野市を東へ流れ、あきる野市と福生市の境界で多摩川に合流、秋川や浅川と同じように多摩川の右岸に流れ込んでくる支流の一つ。
多摩川との合流地点からあきる野市立の草花公園(市民球場や市民プールもある)までサイクリングロードがあり、桜並木になっている。
日の出町役場のあたりを通り過ぎ、つるつる温泉へ続く道が沿うようになると、山間を流れる渓流のような風景になる。
このあたりはキャンプ場やバーベキュー場などがあり、夏場にはこの付近の川で水遊びをしている子どもたちも見られ、日の出町の農産物を売る施設も。

                       石製の塔婆        平井川
      

次回は、二宮神社(考古館は神社内にある)へ。

秋川 武蔵増戸-多摩川散歩(7)

2016-01-10 | syu散歩

約1500万年前に海底に堆積した火山灰を多く含む砂が固まった「伊奈砂岩層」。
伊奈砂岩層の岩石は、加工しやすく、石材として優秀だったために室町時代から江戸時代後期までの数百年にわたり膨大な量が採石され
「伊奈石」の名で流通した。
伊奈石の主要産品は石臼で「臼は伊奈石 新町小麦 ひけばひくほど 粉が出る」という臼ひき歌は多摩各地の民俗調査で記録されている。
石臼の制作は多くの失敗を伴うものだったらしく、横沢入の山中や横沢川の河原には石臼を作りかけて失敗し、放棄されたものが数多く見られる。
中央湿地の、十字路から東へ向かって横沢川を渡る橋の土台の石垣にはこうした「石臼未成品」がいくつも組み込まれ、磨り面と受け皿部分が一体となった独特の形態から、茶臼を作ろうとしたものと推定できると云う。
「矢穴跡」が
「矢」とは鉄製のクサビで、あらかじめノミで開けた穴にクサビを差し込み、ゲンノウで矢の頭を強く叩くことによって岩を割る。
こうして、今は無い岩のこちら側の部分が採石され、江戸へ。
割られた岩盤と採った石材の双方に切り出し後、矢穴が残る。石工は矢の並ぶ面の上に立って作業していたと思われる。(秋川河原沿いにある)

JR武蔵五日市駅終着駅の上り(JR青梅線拝島駅に向かって)。
武蔵増戸ー武蔵引田ー秋川ー東秋留ー熊川ー拝島(武蔵五日市線)


    武蔵五日市駅から武蔵増戸駅約6km・時間約1時間30分ー里山と古刹を散策
    

「秋留郷」
豊かな水と自然の中に早くから文化がひらけ、縄文時代から古墳時代の考古学研究史に残る遺跡が多く発掘。
平安時代の「日本三代実録・延喜式」に記載されている神社、大悲願寺の「木造伝阿弥陀如来及脇侍千手観世音菩薩・勢至菩薩坐像」もこの時代の終わりごろに作られたと考えられている。
武蔵国は、代表的な馬の産地で、四つの勅使牧の一つ小川牧は、小川郷(秋川・平井川流域)を中心にした牧で、鎌倉時代、この地域は秋留郷と呼ばれ、武蔵七党のうち西党に属する小川氏、二宮氏、小宮氏、平山氏などが鎌倉幕府の御家人として活躍している。
室町時代になると、武蔵総社六所宮随一の大社である「二宮神社」は、小川大明神と呼ばれ、戦国時代の終わりごろからは、伊奈と五日市に
「市」が開かれ、炭などが盛んに取引、江戸時代になると木材は、秋川・多摩川を筏で流し江戸に送っています。
江戸時代末期には炭の年産が20万俵、筏は3000枚を数え、絹糸を泥染めした黒八丈は、柔らかく深い艶のあることから帯や着物の衿などに珍重、
別名「五日市」と呼ばれた。
江戸時代の集落は、秋川・平井川の段丘面や草花丘陵縁辺などに点在し、現在もその多くが市域の字名として残る32か村となって明治時代に。

    

「正光寺」
秋川流域で唯一、浄土宗の流れをくむ時宗の寺院。
1305年、二祖他阿真教上人が当地に巡化の際開創されたものと伝えられている。
伽藍は、過去2度に渡り焼失しているが、現在の本堂は平成14年に建設。
本尊は、阿弥陀如来立像(脇に観音、勢至菩薩を従える)、(江戸の大仏師法橋光清ー1681年作)

    

慶安2年の1649年、武田松姫尼(武田信玄の娘)の縁故から第3代将軍徳川家光より寺領16石5斗を受領して明治維新まで継続されたと云う。

弁財天・インド神話で、河川の女神。
音楽・弁舌・財福・智慧の徳があり、吉祥天とともに信仰され、ヒンズー教に取り入れられ、日本では財福の神として弁財天と書かれるようになった。

           武蔵五日市七福神の弁財天
    

横沢入町に入る。
都あきる野市のほぼ中央部、JR五日市線 の武蔵増戸駅と武蔵五日市駅の中間辺りの線路の北側、南に秋川を見下ろす丘陵地里山。
市は、この里山に住宅開発を中止。
幅の広い谷戸を雑木山(五日市丘陵)が囲み、東南の入口部分から北西の分水嶺まで約1㎞、全体で65ヘクタールある。
有史以来、排水を出す人工物が上流・尾根上に造られなかったために、汚れのない湧水が年間を通して谷戸を潤し、多様な生物を育んでいると云う。
休日のたびに自然愛好家のグループが観察会に訪れ、春はセリ摘み、初夏はホタル見物、秋には紅葉狩りに、都心から1時間足らずで自然に触れることのできる「緑のオアシス」として、親しまれている。残してほしい。

中央の谷戸と五つの支谷は昭和40年代までは谷の奥まで棚田が営まれていたが、地形上の制約から大型機械を導入できない効率の悪さや後継者難から、徐々に放棄されて休耕田となり、もっとも早くに水田をやめたところにはヤナギが茂っている。最後までやっていた農家も2年前から米作りをやめ、今、横沢入には一筆の田圃もないと云う。
    

「大悲願寺」-1695年再建ー
             五日市駅東約1km 真言宗寺


寺伝によると創建は1191年。
武蔵国平山(東京都日野市平山)の武将「平山季重」が醍醐寺三宝院の僧を招いて開山としたとされる。
江戸時代には江戸幕府から朱印状を与えられていた。
1794年に観音堂を建立。1824年から1827年にかけては観音堂内陣に欄間彫刻や向拝を追加。1834年から1842年にかけても彫刻や飾り板を観音堂内陣に
追加したことがわかっていると云う。
屋根を茅葺きから本瓦葺きに、本堂が都有形文化財・1995年、観音堂が西多摩郡五日市町の有形文化財指定を受ける。

            金色山・吉祥院「大悲願寺」
    

「重要文化財・(国指定)」
木造伝阿弥陀如来及脇侍(千手観世音菩薩・勢至菩薩)坐像

「都指定文化財」
本堂・大般若経写本・大悲願寺文書等。
                東国花の寺百ヶ寺東京10番寺
    

「あきる野市指定文化財」
中門・楼門・観音堂・懐中仏・六角宝幢式経筒・梵鐘・如環版木活字並びに活版本・棟札・井戸枠

      山門天上画               石仏                       観音堂
    

東国花の寺 埼玉一番ー清泰山 西善寺ー 臨済宗南禅寺派・本尊 十一面観世音菩薩/阿弥陀三尊で紅葉。
埼玉県秩父市横瀬町、秩父三十四観音霊場 八番でもある。関東地区に花の寺百ヶ寺が

9月下旬から10月初旬頃に咲く、独眼竜・伊達政宗ゆかりの「白萩」でも有名な古刹。

鐘楼                   境内の巨木             彫刻の観音堂                    
    

現住職は、お寺は、800年間一度も火災に遭っていないことです。それはつまり、お寺と地域が常に密接に連携しあって、「開かれたお寺」とい
うかたちで、来てくれ守ってくれている人がいるということが一番大きな理由なんですね。
以前は、この寺の前に蒸気機関車が通っていたので、この周りは火災に遭うことが多かったんですね。五日市へ行く方は上り坂なので、ここで蒸
気をふかすわけです。そこで火花が飛び散って、茅葺屋根に落ちて燃えてしまうんです。観音堂や山門にも火花が飛んで、煙が出ることもありました。
それでも近所の人が「煙が出てるわよ」と教えてくれるんですね。地域の人に守られてお寺がある、それが大事なことだと思うんです。
また、仏教界でも花の寺、「百花寺」というものをやっていまして、「萩の寺」として百花寺のひとつに指定を頂戴しています。皆さんに、
境内に来て花を見て、来てよかったと感じてもらうことが住職の役目のひとつだと思っています。
百花寺としては、白萩で登録していますが、春夏秋冬いつ来ても何か花があるように努めています、、、、、。

                      観音堂
    

「白萩」は、地面から細い幹が毎年伸び、草に近い姿のマメ科の植物

            白萩が植えられているのは、この本堂の周り
    

      江戸時代に建立されたお堂ー外壁に飾られた彫刻に見応えがある。


江戸時代初期、仙台藩主・独眼竜の伊達政宗公の末弟である「秀雄」がこの大悲願寺の住職を務めていたと云う。
       楼門                境内        
    

政宗公、この寺を訪れており、その際に見た庭の「白萩」が大変気に入り、後日、手紙を送って分けてもらったと云う。

「伊達正宗」 1567-1636  仙台藩主
蘆名義広を破り会津を掌握、小田原城征伐遅参の為一部没収、関ケ原の戦いで東軍、62万石大名、南蛮貿易計画。
スペインでは、正宗は、次期皇帝の実力者と書簡にある。

その手紙が「白萩文書」とか「白萩所望状」と呼ばれて、現存。(非公開)。
  

「正一位岩走神社」
            神社裏手から五日市街道方面を


平安の末期,信濃國伊那郡の住民が当地に来り一村を開き、信濃國総鎮守の戸隠神社の手力男命を勧請し、
後に数年を経て稚日女尊と棚機姫命を祀る。
光格天皇の御代の1794年に正一位の神格を勅許され、以後、「正一位岩走神社」と。

350年余りの歴史ある祭りは、9月中旬、13基の神輿と山車が地域を練り歩き囃子と屋台が。

          祭神ー 稚日女尊・ 手力男命・ 棚機姫命
    

「松岩寺」
横沢入の地の地頭「布施三河守康貞」は、
小田原北条時代の文亀2年の1502年、に同郷(山城国)の僧である如幻宗悟を請じ、曹洞宗大本山總持寺直末の寺院として、萬年山と号し開山。

開山の如幻宗悟の族性は菅原氏で、同じ神奈川県内では1503年に徳翁寺(横浜市戸塚区)・1519年に寶泉寺(藤沢市)の開山。
宗悟は、1530年、に没したが、興山舜養・月松宗尖・陽始甫などの弟子を輩出し、相模国・武蔵国にその法を広めた。

本尊は、松岩寺の寺領ー1591年、に八石、1648年、に二十二石、合わせて三十石の御朱印を幕府から賜っており、
江戸時代には二層の仁王門や禅堂も備えていた。

本尊ー釈迦牟尼佛で延宝5年の1677年、京烏丸 仏師 宗運の名が刻まれていると云う。
    

總持寺が越前(福井県)の永平寺とともに曹洞宗の大本山として、800年の法灯を輝かしめているのは御直末や輪番地であった寺院の貢献が大きいと云う。現在、松岩寺の末寺は県内に12ヶ寺となっている。(平塚市:4件 大磯町:4件 秦野市2件 中井町:1件 小田原市:1件)

JR武蔵増戸駅(武蔵五日市ー武蔵引田)
大正14年、 五日市鉄道 拝島 - 武蔵五日市間の開通と同時に増戸駅として開業している。

    

次回は、西秋留方面へ。