syuの日記・気まま旅

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関宿ー1・江戸川を下る5

2016-05-17 | 気まま旅
関宿は、関東平野のほぼ中心、中世戦国時代は、「関宿を支配することは、一国を支配するのと同じ」と云われているほど重要な地域であった。
関宿での各大名が戦いを繰り返した地域。
近世に入り、江戸幕府は、関宿藩を置き、徳川家に古くから仕え信頼できる大名(譜代大名)に支配をまかせ藩主は、江戸で幕府の重要な仕事も任された

脇街道「日光東往還」の宿場町で賑わっている。

「足利 成氏」ー室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。
父は「永享の乱」で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は、1447年とする説も。
父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の「享徳の乱」を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った人物。

         現在地より500mほど離れているー城址がある。                              


「享徳の乱」1455 -1483、
室町幕府8代将軍足利義政の時に起こった室町時代の関東地方における内乱。
第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(古河公方)方が争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因となった。
                       久世氏の家紋


「関宿城」
1457年、古河公方足利成氏の有力家臣簗田成助が水海城(茨城県古河市)から関宿に移って築城したのが関宿城の始まりと伝えられる。
以来簗田氏の居城となった関宿城は、後北条氏が北関東へ勢力を伸ばす上で戦略的拠点で、1574年に簗田氏が関宿城を開城し、その後は、後北条氏の支城として戦略上重要な前線基地となる。

      関宿初藩主、徳川家康の異父弟2~4万石で松平康元入城ー1590年~


この関宿という町は東を利根川、西を江戸川が流れる「水の町」である。関宿の町から眺めると、江戸川や利根川の堤防が高く聳え、さながら町全体を取り囲むように見える。現在の千葉県の最北端に位置し、よく言えばのどかな田園地帯、悪く言えば周囲に取り残された「陸の孤島」である。
一見鄙びた感すらある関宿という地をめぐって、かつて激しい戦いが繰り広げられていた。
関東の戦国史を陰で操るある一族の姿が見えてくる。
その一族は「簗田氏」という。ここでは、関宿城をめぐる戦いと、簗田氏の動向、そして時代の荒波に翻弄された「古河公方」足利氏。
簗田氏の出身は下野国簗田郡簗田御厨という。「与吾将軍系図」によれば、桓武平氏の流れを汲み、鎮守府将軍平維茂の子、良衡を祖とし、もともとは
近江久田郡に居住、「前九年の役」で源義家に属し、その恩賞で下野南部の簗田御厨を与えられて土着した、ともされる。
このあたりの系図には、簗田氏に限らず多分に潤色がある。
下野の在地土豪であったとも云われている。
水海城周辺。度重なる洪水と耕地整理により遺構は跡形もなく消え、その場所すら判然としせず、わずかに微高地となっている水海集落にその面影を重ねるのみと云う。
           4代小笠原政信古河から入封ー1619年


簗田持助が父であり「御家之鏡」であった満助のために建立した東昌寺。現在の東昌寺は寛文六年に移転してきたもの。
山門は元禄二年、関宿藩主牧野備後守成貞室の寄進によるもの、梵鐘には、文明八年大檀那簗田河内守持助の銘がある。

簗田氏は、代々、関東公方足利氏の奉公衆であったが、さして身分の高い存在ではなかった。
その簗田氏に転機が訪れたのは、室町中期の簗田満助の代である。満助は長子ではなかったものの、母が那須氏出身と云われ、その血統のよさを買われて関東公方・足利満兼から簗田氏を嗣ぐことを許され、満兼より「満」の一字を譲り受け、その息女を満兼の子、持氏に嫁がせたのである。
このことによって簗田氏は公方奉公衆筆頭の地位を得て、一字偏諱と息女の輿入れによる縁戚化が慣例化したのである。
満助は、まさに簗田氏中興の祖ともいえ、後世子孫たちからは「御家之鏡」と尊崇されたのである。
しかし、その満助は、「永享の乱」で持氏に殉じて討ち死にした。
持氏の偏諱を受けた満助の子、持助は、持氏の第四子・永寿王丸(持助の甥にあたる)を鎌倉から脱出させることに成功する。
この「永寿王丸」こそ、のちに関東に果てしない動乱の種を蒔くことになる初代「古河公方・足利成氏」である。
持助は東昌寺(茨城県五霞町)を建立し、父の菩提を弔った。五霞町(当時の五箇村)周辺は「下河辺荘」といわれ、利根川水系、渡良瀬川水系などが織り成す水運の要衝であったとともに、関東公方家の御料所が集中していた。
このころには簗田氏はこの下河辺荘に移っていたのである。その本拠は下総猿島郡水海(茨城県猿島郡総和町)である。
「結城合戦」の折、持氏の遺児を報じて挙兵せんとする結城氏朝に対し、水谷時氏らとともにこれを諌め、その身の振り方に悩んだ末に出家入道した
簗田修理亮なる人物も、簗田氏の一族であっただろう。
『鎌倉公方九代記』には、簗田六郎なる人物が、平田兵部少輔らとともに七十騎を率いて、上杉教朝の陣に夜襲を掛け、さんざんに斬りまくって鮮やかに結城城内に退き上げていった、というエピソードも伝わる。
この簗田六郎なる人物が何者で、その後どうなったのかはわからない。
おそらく、幕府軍十万との十ヶ月に渡る戦いの後、結城城の落城とともに果てたとも云う。
このとき、結城城の南、大河が交錯する水郷地帯に下河辺一族が城砦を築いて立て籠もり、結城城を背後から支えつづけ、舞台となる「関宿城」である。
簗田氏が関宿城に入城したのは、1457年、ときに鎌倉から古河に移座した「古河公方」足利成氏と、室町幕府の後ろ盾を得た関東管領上杉一族が激しく対立した「享徳の大乱」の最中であったと云う。
こうして簗田氏と関宿城が結びついたのである。簗田氏は代々、古河公方家にその息女を嫁がせることにより、古河公方家と血縁を結び、奏者兼筆頭重臣となった。
ここに「古河公方-古河城」ラインと「簗田氏-関宿城」ラインが結びつき、古河公方の権力構造の基礎が確立していったのである。
 
1590年、「松平康元」(徳川家康異父弟)の入城が関宿藩の始まりで、
以後江戸幕府は代々ここに譜代大名を配し、藩主は、八家二十三代にわたり、なかでも久世氏の治世が最も長く、老中などの要職に就き幕府内で重要な地位を占めます。
川越城や佐倉城などとともに江戸城防衛の重要拠点であり、利根川水運の中継地点に位置していたことから、幕府は関宿城をとても重要視していた。

敷地面積11134m2・三層四階(江戸城富士見櫓風)・1640年北条氏重2万石で静岡から入封


城主ー初代 「松平康元」1590~1603・2代 松平忠良1603~1616・3ー「松平重勝」1617~1619・4ー「小笠原政信」1619~1640
5ー「小笠原貞信」1640~1640

6代「北条氏重」1640~1644 ・7ー「牧野信成」1644~1647・8ー「牧野親成」1647~1656・9ー「板倉重宗」1656~1656
10ー「板倉重郷」1657~1661・11ー「板倉重常」1662~1669・12ー「久世廣之」1669~1679・13ー「久世重之」1679~1683
14ー「牧野成貞」1683~1695・15ー「牧野成春」1695~1705・16ー「久世重之」1705~1720・17ー「久世暉之」1720~1748
18ー「久世廣明」1748~1785・19ー「久世廣誉」1817~1830・20ー「久世廣運」1817~1830・21ー「久世廣周」1830~1862
22ー「久世廣文」1862~1868・23代「久世廣業」明治元年(1868)~明治二年(1869) 。


関宿藩の起こりは、
天正18年・1590年に、徳川家康が関東入国の際に、異父弟の松平康元に2万国を与え関宿城主としたことに始まる。
関宿藩は、東北外様諸大名に対する備えや関宿関所(水番所)の管理等と重要視され、
幕府は小笠原氏、牧野氏、板倉氏など有力な譜代大名を配し、なかでも「久世氏」の治世が最も長く、幕末まで九代の藩主を数え、老中をはじめとする幕府の要職を歴任し、幕政に深く関わる。
              老中、久世広之、5万石で、1669年、相模国から入封


「久世広之」の幕政参加
関宿藩12代藩主久世広之(1609~1679)は、四代将軍徳川家綱の保育にあたり、寛文二年・1662年に若年寄に就任。
翌年には老中に登りつめ、大老酒井忠清のもとで着実に職務を遂行。
三代将軍徳川家光までは、幕府の力を強固なものとするため、「武断政治」とよばれる強圧的な政治が行われ、家綱の代になって幕府の支配が確立。
社会も安定し、「文治政治」へと転換が図られます。
広之は老中として、法令や制度を整えて社会秩序を保つなど、文治政治の実現に努力し、仙台藩お家騒動の解決に奔走したことは、
山本周五郎著の「樅ノ木は残った」で有名。

23代久世広業、明治3年で廃止、明治5年陸軍省廃城に(100名位野藩士が江戸詰勤務していた)


「田沼意次」1719-88 政争に敗れた経済官僚・幕閣としては、老中まで累進、幕府経済の転換を図るが保守派によって失脚、田沼は賄賂政治家でも知られ、賄賂が横行している。嫡男は、江戸城中で斬殺され権力の座から追われる。

「水野忠邦」1794-1851 天保の改革断行、浜松藩主、浜松城は出世城で、水野は「青雲の要路」老中登用を子供の時から熱望している。
天保の改革を急ぎ過ぎ反対派から失脚させられる。

利根川の護岸水工事に尽力した2人


展示室には、
江戸時代から明治中期にかけて、大量の物資を長距離輸送する主役は水運でした。オランダ人技師ムルデルの設計により、1890年の明治23年、
利根川・江戸川間に完成した利根運河は、航行の短縮にも成り、その翌年約3万7千艘もの船が通過しと云う。

利根川流域の河川改修・手賀沼・印旛沼の千拓・河川交通と探せる博物館であった。

                   
次回は、利根川と江戸川の中の島公園。

東武動物園ー江戸川を下る4

2016-05-14 | 気まま旅
「延びる東武・伊勢崎線」主の駅名ー浅草ー曳舟ー北千住ー竹ノ塚ー「東武動物公園」下車するー久喜ー館林ー太田ー伊勢崎。

東武は、1899年の明治32年、最初に開業した北千住駅 - 久喜駅間を含む創業路線。
都区部東部の「浅草駅」から埼玉県の東部を経て両毛地域を結ぶ、日光街道の沿線。
杉戸駅(現在の東武動物公園駅) - 東武日光駅間を結ぶ東武日光線の完成後は日光線の一部区間としての機能も担っている。
日光線や東上線・東武鉄道の基幹路線であり、関東地方における主要幹線の一つである。
押上駅は、東京地下鉄(東京メトロ)の管理駅、東京地下鉄(東京メトロ)日比谷線・半蔵門線と東京急行電鉄田園都市線との相互直通運転を。
浅草 - 北千住間は隅田川に、北千住 - 東武動物公園間は国道4号(日光街道)にほぼ並行。
大正期の荒川放水路開削によって、北千住 - 西新井間は葛飾区小菅をかすめるルートに付け替えられた。
浅草 - 北千住間は曲線半径の小さいカーブ区間が多いため優等列車でも速度規制がかかり、さらに浅草駅は基本的に6両編成
(例外として1番線のみ8両編成、ただし曳舟方7・8号車はドアカット)以下の列車しか入線できないため、特に通勤輸送では列車本数や
編成長が制限されてきたと云う。
2003年に半蔵門線との直通運転を開始し、2012年に「東京スカイツリータウン」が開業したことに伴い、この区間の重要性は向上し、北千住 - 北越谷間はJR以外の日本の鉄道では最長の複々線区間が続き、緩急分離による高密度運転と優等列車の高速運転が可能。
沿線から北千住駅まで当線を利用し、同駅から他社線に乗り換えて東京都心部へ向かう乗客も多いため、同駅を境にした輸送量の段差が生じている。
北千住 - 北越谷の複々線区間で同じホーム上で乗り換えができるのは北千住駅、西新井駅、草加駅、新越谷駅、越谷駅、北越谷駅の6駅と云う。
延びる東武に期待する。
                 東武伊勢崎線・日光線の分岐駅
  

「宮代町・コミュニティセンター 進修館」

開館昭和55年、建設面積2,484㎡・延床面積2,955㎡・宮代町のシンボル建築、コミュニティセンター進修館は、東武動物公園前に
象設計集団が設計したユニークな建造物。動物園の入り口ではありません。
地域の各種発表会や会議やサークル活動など、音楽会、映画会、武道会、踊り、演劇、落語、民謡大会、展示会、絵画教室、お茶、お花の会、
町議会、委員会などのさまざまな地域活動への要求が高まる中で、これらを受け入れていると云う。
東武鉄道沿線の市街地域の中にあり、東武動物公園駅、町役場、小学校などを結んでいる。
親しみやすく入りやすい空間•どの部屋へも外から直接入ることができ、すりばち状の中庭によって2階にも直接アプローチに。
中庭は映画会、式典など野外活動の場と内外を結ぶ回廊は、日差しや雨に対する緩衝ゾーンである。

             まちの風景に調和する建物
    

「東武動物園」
開園時に、上野動物園の名物飼育係でカバの飼育で名を馳せた“カバ園長”こと「西山登志雄」を園長に迎えている。
芸能人のコンサートなどのイベント会場としても運営することで、集客を図る経営をとったことで知られる。
カピバラ・リスザルなどの飼育動物のうち草食獣を積極的に走らせるなどの工夫を行い、動物園としての運営を中心とし、絶叫マシンなど
多数のアトラクションの設置や夏期の大型プール運営など、テーマパークとしての評価も高い。
園の竣工当時「杉戸駅」という名称であったが、開園直前の1981年、「東武動物園前」に。
東京地下鉄日比谷線との直通運転され現在は、日光線の南栗橋まで再延長、2003年、には東京地下鉄半蔵門線・渋谷駅経由、
東急田園都市線・中央林間駅まで直通運転を開始し、利便性が向上されている。

                     東武動物園


                 本日は、残念ながら休園
    

園を大きく分けるとー東側が遊園地、西側が動物園とプール。東側と西側をつなぐ園内の交通手段として開園当初は存在しなかったが、
1986年、動物園東端から西ゲート手前を結ぶロープウェイ「スカイウェイが開通。
1989年に東ゲートから遊園地までの約1kmを結ぶ「イースタントレイン(現:太陽の恵み鉄道〜パークライン〜)」が開通。
2003年にスカイウェイが廃止され、代替として「東武バス」の廃車車両を利用してシャトルバス「アニ丸ぶ〜ぶ」が運行。
姫宮落川が公園内を横切り、笠原沼落が公園の池から流れ出る。
公園内には広い池が多く、世界初の水上木製コースター「レジーナ」など池を利用した遊具がある。
これらの池はかつて東武動物公園周辺に存在していた「笠原沼」に由来するもの。

ホワイトタイガー(白毛のベンガルトラ)が2003年、来園し、園のシンボル的存在に
    

主な動物は、アフリカサバンナ、キリン・シマウマ舎 アミメキリン、グラントシマウマ、エランド、ダチョウ、バーバリシープ、
シロサイ舎 ミナミシロサイ・リスザルの島 ボリビアリスザル。

フラミンゴコーナー ヨーロッパフラミンゴ、ベニイロフラミンゴ、チリーフラミンゴ、アフリカの水辺エリア シタツンガ、ハゴロモヅル等
アフリカゾウ舎 アフリカゾウ、カバ舎 カバ、サル山。

レッサーパンダ舎 レッサーパンダ、アメリカ舎 アメリカバイソン、ワピチ、アメリカビーバー、オットセイショープール ミナミアフリカオットセイ、ミナミアメリカオットセイ、ゴマフアザラシ、モンキーワールド ニホンザル、シシオザル、マントヒヒ、マンドリル、シロテテナガザル、エリマキキツネザル、チンパンジー、アビシニアコロブス等

ワニ館 メガネカイマン、ワニガメ、グリーンイグアナ、ほたリウム ヘイケボタル、リスザルの楽園 コモンリスザル、カピバラ、オオサイチョウ、シワコブサイチョウ、モモイロペリカン。等が見られる。

    

動物のエサの一部は、「吉野家」より寄付されていると云う。
加須市にある吉野家の東京工場では、1日約2tの白菜とキャベツの外葉が廃棄される。
その中から190kgが使用されている。また動物園までの運搬も、吉野家の運搬車が使用。
開園当初は東武鉄道で活躍していた鉄道車両が同館へ移転された。

「大落古利根川」
埼玉県に流れる一級河川。
利根川水系中川の支流で、流路延長は26.7km。
その名のとおり徳川家康江戸入府以前の利根川であり、文禄3年の1594年、会の川が羽生市上新郷で、元和7年の1621年、浅間川が久喜市高柳で締め切られ上流を失ったものである。後排水路となり、「大落」とは農業排水を落とすの意味である。

加須市川口付近にあった会の川と浅間川の合流点を始まりとしたが、現在の当川の上流は葛西用水路で、久喜市と杉戸町の境界にある葛西橋が現在の起点である。
杉戸町・宮代町・春日部市・越谷市・松伏町の境界付近を流れ、松伏町と越谷市の境で中川に合流する。
北葛飾郡市と南埼玉郡市の境界に沿っている。

青毛堀川・中落堀川・備前前堀川・備前堀川・姫宮落川・笠原沼落・隼人堀川・・・・。
    

当駅を下車したのは、千葉県野田市と埼玉県栗橋と茨城県五霞町の県境。
利根川と江戸川の分離地点の「関宿・博物館、城跡」へ行くためである。東武動物園前駅からバスで30分程乗る。

2015年4月に「関宿城址」を掲載しました。



「宝樹山本足院・実相寺」
724年、行基により法相寺として茨城県総和町水海の地に開山したといわれている古刹。
1409年に、日蓮宗に改宗。1475年の頃、水海より関宿の地に移る。
鈴木貫太郎夫妻の墓がある。(貫太郎は元海軍大臣、元侍従長。終戦時の内閣総理大臣)昭和23年・82歳で死去。



1409年、日英上人が、簗田氏が関宿城に入ったときに水海村(茨城県総和町)から移したと伝えられている。
境内には関宿城本丸から移築した客殿がある。本堂には久世家歴代の藩主と奥方の位牌が安置されている。

鈴木貫太郎の弟、鈴木孝雄氏(靖国神社宮司)の墓もある。


       
埼玉県栗橋・茨城県五霞・千葉県野田と利根川・江戸川の分離地点。ここは、千葉県野田市利根川と江戸川の間、「関宿」に来ている。
「野田市」千葉県の北西端・下総台地上「野田右馬介」の所領であったとも云う。
野田と云え、醤油の町で知られている。江戸川水運で江戸時代に、豪農・豪商が相次いで製造に参入し、江戸中期には、上方の下り醤油を駆遂し、
銚子をしのぐ勢いとなった。1781~1887年仲買から醤油醸造組合を結成、現在全国の3分の1を占めている。
「利根川」上流の利根郡の本流沿いをー利根入り・支流の赤谷川沿いをー利根西入り・片品川沿いを利根東入りと云っている。
我が国代表する大河として「坂東太郎」の称がある。筑後川の筑紫次郎・吉野川の四国三郎と共に兄弟の名を持っている。又、関東平野を潤す母の川
でもある。現在も、首都圏の水需要の大半を供給し、千葉県は、6割以上利根川に頼っている。
江戸時代から「関宿城・関所」は重要地とされた。

「日光に通じる道」
日本橋から宇都宮で奥州街道から分かれる本街道に対し、専ら将軍の参宮に使われた日光御成街道、中山道から直行する日光例幣使街道、本街道の小山から近回りする壬生通り、奥州街道大田原から西進する日光北街道、会津とを結ぶ会津西街道、そして水戸街道から分岐し日光街道の石橋宿・雀宮宿の中間地点に合流する日光東往還などの脇往還があった。
「日光東往還」は、山崎、中里、・関宿、境、谷貝、仁連、諸川、武井、結城、多功の10宿が置かれた。約80kmの街道である。

道路拡張で「庚申塚・塔」は、消えていく。


「葛飾坂東観音霊場」は、茨城県古河市・五霞町・八千代町、栃木県野木町にある観音霊場の総称。
1714年、33ヵ寺の霊場にて開創。のちに追加されて、現在は 41ヵ寺からなる。その一番寺。

「実相寺」
1 番札ー山号・宝篋山、本尊ー 千手観世音菩薩、 真言宗豊山派 。
五霞町元栗橋ー 観音堂は明治11年に古河・長谷寺から移築 されたと云う。

    

「光岳寺」-納谷首切り塚・関宿城旧藩主居住地に近い、住所は関宿新町
徳川家ゆかりの寺院、1602年将軍徳川家康公の異父弟「松平康元」・母「於大の方(伝通院)の為に創建された寺院、当初は「弘経寺」と云った。
後に、家康公の命により改名された。

    

山道沿いに金仏様「地蔵菩薩」は、

本堂             地蔵菩薩・松平康元建立        江戸川方面に関宿城址が見える
    

関宿藩の城下町として栄えた町。
1871年(明治4年)の廃藩と昭和以降の水運の衰退・消滅によって小都市としての独自性は失われた地域。
関宿城の遺構は利根川や江戸川等の合分流点付近に位置し明治以降に行われた河川改修のために保存状態が極めて悪く、元の武家屋敷等もあまり残されていない。
「城下町」としての景観はない。この神社も、下総国なりし中世の頃、その一宮香取神宮の御祭神経津主命を奉斉し爾来神統守り伝えているのであろう
1912年 稲荷雷電の神々を合祀して現在に至っていると思う。

                   光岳寺前に鎮座する「香取・稲荷神社」
    

   鈴木貫太郎氏の自宅
「鈴木貫太郎」  1867-1948(昭和23年) ポツダム宣言受諾の途を開いた元首相・海軍軍人・大阪生まれ
1887年海軍兵学校・大学校卒、海軍大学校教官・ドイツ駐在武官・日露戦争第二駆逐隊司令として日本海海戦参加・海軍次官・海軍大将・連合艦隊司令長官・1929年予備役編入・待従長兼枢密顧問官で、昭和天皇の信任厚い・2.26事件で襲撃を受け重傷を負う。
小磯内閣の後を受け首相ー米内光政・東郷茂徳らと協力し「ポツダム宣言」を受諾し太平洋戦争終結に導いた。敗戦直後辞職引退。

    

明治4年、本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)に居を移す。明治10年、群馬県前橋市に転居し、厩橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、
明治17年、に海軍兵学校に入学(14期)。
日清戦争に従軍。明治31年、海軍大学校を卒業。鈴木は生涯に2度の暗殺未遂を経験している。
幼い頃から何度も死にそうな目にあったと云う。3歳のとき暴走してきた馬に蹴られかけたり、魚釣りをしていて川に落ちたり、海軍に入ってからは夜の航海中に海に落ちたりしたが、その度に奇跡的に助かっている。
明治21年に、会津藩士の大沼親誠の娘、「とよ」と結婚。とよの姉は出羽重遠夫人。
当時の海軍では旧薩摩藩出身者が優遇され、鈴木のような旧幕府系の者は進級が遅かったと云う。
ドイツ駐在中の1903年(明治36年)、

「鈴木貫太郎記念館」
大日本帝国海軍軍人で第42代内閣総理大臣を務めた「鈴木貫太郎」ゆかりの品を展示。(野田市立記念館)無料

  

館内には、 貫太郎氏が愛用していた海軍時代や侍従長時代の礼服、当時を偲ばせる遺品が 数多く展示。
白川一郎画伯の描いた「最後の御前会議」の油絵が、

    

「利根川流域の洪水史」より
江戸時代初期、幕府は江戸湾(東京湾)に注いでいた利根川の本流を、流路の締め切りや開削を繰り返しながら銚子河口へ流す大工事、いわゆる利根川東遷事業を実施するとともに、関宿から分流させる江戸川の開削され、以後も洪水対策を主体とした改修工事が行われ、その過程で築堤や護岸水制など様々な改修技術が創案されてきた。が、数多くの洪水が人々を恐怖と苦難におとしめた。

全長約322km・我が国最大の河川「利根川」 
「蛇籠」河川の護岸工事の際、籠の中に玉石や割石を詰めて、水の流れを抑えるために用いた物、多くは応急工事、暫定工事に使われ、蛇籠の並べ方は、「立て籠」が一般的ですが、まれに「複籠」として並べることも。蛇籠に利用された素材としては、竹の他、柳、そだ、鉄線など。


〔寛保2年(1742)の洪水〕
江戸時代最大の洪水と言われ、利根川上流部の舞木・赤岩・北河原及び新川通が破堤し、関宿城も大破。
荒川でも各所で破堤したため、埼玉平野で甚大な被害が発生し、江戸市中も浸水したと云う。

〔天明6年(1786)の洪水〕
7月の浅間山大噴火によって降灰や火砕流、溶岩流が発生し、数多くの人命や家屋、馬などの家畜を失い、その後の天明の飢饉の要因にもなる。
この噴火で大量の火山灰が吾妻川から利根川へ流れ込み、利根川上流部を中心に河床が急激に上昇。
このことが3年後の洪水の被害を拡大させることとなり、江戸市中も浸水し、永代橋や両国橋が流失した。

先人たちがコツコツ築堤工事を、「土羽打唄」が各地の残っている。「浚渫工事」川底の土砂を取り除く
    

安政の大洪水〕
江戸幕府が鎖国から開国へと政策を転換させましたが、他方洪水や地震、コレラの流行など数多くの災害が発生。
安政3年(1858)の洪水では利根川や渡良瀬川の各所で破堤し、数多くの人命が。

〔明治23年の洪水〕
8月上旬から雨が続き、22日には暴風となり、利根川は「9合水」「10合水」に達し、千カ所余りで堤防が決壊破損し、関宿では約30戸の家屋が流失するなど、流域各地で大きな被害を。

関宿水閘門・水位の調節する水閘門・明治33年利根運河(野田ー流山ー柏)は、水堰橋など壊れ運河の役割は終えている。
  

これらの経験をもとに国土交通省などでは、
洪水予防の治水対策及び貴重な水資源を確保するための利水対策を現在も行い、近年では、単に川を氾濫させないという治水対策から考え方を変換し、
流域全体の町づくりとともに洪水対策を行う総合的治水対策の推進に力が入れられていると云う。
人々に潤いと安らぎを与えてくれる河川は私たちの貴重な財産であり、自然と人間が共存できることを目的とした整備が進められている。

明治43年・昭和22年(カスリーン台風)が。                     浚渫船が展示
  

次回は、関宿城址へ。

幸手ー江戸川を下る3

2016-05-12 | 気まま旅

前回の続きです。「権現堂堤」
四季を通して花の色づきを楽しめ、花見の名所で、旧利根川。
案内図の「幸手市」には、権現堂堤に代表される美しい水辺と、緑豊かな自然が、市では、この恵まれた環境を活かし、自然の生態系に配慮し、人と自然が共存できる景観づくりを進めていると云う。
桜で有名な権現堂堤ですが、「桜の季節が終わってからも四季折々に咲く花を」という思いから、あじさい、曼珠沙華(彼岸花)なども植えられ、季節ごとの植物の色づきをお楽しめる。

「幸手市」は、県の東端で、東に江戸川・西に古利根川に挟まれた沖積低地に位置している。幸手と云う地名は、「日本武尊」が東征の時上陸した「薩手が島」が伝説の由来と云う。アイヌ語で「サッツ・乾いた」土地と云う説もある。
江戸時代には、日光道に宿場町として栄えた。利根川の権現堂河岸は、物資の集散地で、特に周辺の農産物は、良質米の産地であった。
1783年、浅間山大噴火で飢饉を救った義人をたたえる「幸手義賑・窮餓の碑」がある。

「日本武尊」-大和朝廷の勇者・伝説上の英雄・景行天皇12代の皇子・尊は、賊を討つた(九州熊襲、出雲建倒す、東北遠征)魂は白鳥に・人々は、「白鳥陵」に葬った。(生没年不詳)

   行幸湖           明治・大正には6kmに3000本の桜が
    

「権現堂」という地名の由来は、江戸時代後期に幕府が編さんした地誌「新編武蔵風土記稿」に記されている。
[ 権現堂村 ]の項にー村内に熊野・若宮・白山の権現を合祀せし旧社あれば、この村名起これリとありー 村の中に、「熊野権現社」、「若宮権現社」、「白山権現社」という三つの神社を一緒にまつった旧い神社があったので、「権現堂村」という名になった。
[ 熊野若宮白山権現合社 ]の項にー村の鎮守なり、正智院持、この社、古大社にて村名の起こりとし云も此権現三社なりとありー 村の鎮守で、昔は大きな神社だった。「権現堂」という村名の起こりも、この「権現三社」である。
このように、村の中に「三つの権現」があったことから、「権現堂村」の名前が付けられたと考えられ、この社の創建は、天正年間の1573~92年、と伝えられている。
また、古文書に見られる最も古い「権現堂村」慶長20・1615年、-「下総国猿島郡幸手内権現堂村御検地帳」・江戸時代初期。
~明治まで、川沿いには、舟問屋が軒を連ねて~江戸日本橋まで木材・食料等が運ばれていた。

           清保善士氏が熊野山正智院開山し、清保堂を
    

行幸湖は、大規模な県営公園として整備され、権現堂大噴水は、120年を迎えた埼玉県を象徴するために、噴水噴き上げ高も120フィート(36.6m)が、
水辺の遊歩道とうるおいの空間で、優しく迎えている。

     利根川の暴れ川・幾度となく決壊し、その水が江戸まで流れている。
    

権現堂堤の中央に、「順礼の碑」や「供養塔」が建っている。
1802年、、長雨が続き堤が切れ、幾度修理しても大雨が降りだすと一夜のうちに切れてしまうという。
ある時、堤奉行の指図で村人達は必死の改修工事をしていましたが、大被害と続く工事の疲れに、口をきく元気さえも失っていました。
その時、夕霞のかかってきた堤の上に母娘の順礼が通りかかったのです。
母順礼が堤の切れ口をのぞきこんで、「こうたびたび切れるのは、竜神のたたりかもしれない。
人身御供を立てなければなるまい。」と言いました。
そこで、堤奉行は「誰が人身御供に立つものはいないか。」と人々を見渡しましたが、誰も顔を見合わせるだけで、進んで私がなるとういう者はありません。
すると重苦しい空気を破り誰ともなく「教えたやつを立てろ。」という声があがりました。
母順礼は、この声を聞くと、「私が人柱になろう」と念仏を唱えて渦巻く泥水の中に身をおどらせたのです。
これを見た娘順礼もあっというまにその後を追いました。
すると不思議にもそこから水がひいて、難工事もみごとに完成することが出来たといいます。
この順礼母娘を供養するため昭和11年に石碑が建てられ、この碑には明治時代の日本画家結城素明による母娘順礼像が刻まれている。(市指定史跡)

この話はよくあり、 幸手特有の話というわけではない。利根川の流れる羽生にもこれと同様の伝説が伝わっている。
隣接する加須にも残っていると云う。

    幕府は、治水事業に力を入れ、水路を変えている。堤防の構築を続けた。
    

「義賑窮餓之碑」は正福寺の境内に。
1783年、浅間山の大噴火によって火山灰が厚く積もり、大飢饉が発生。
翌4年春には飢え死にする人が増え、幸手宿の豪商21人が金銭・穀物を出し合い、幸手の民を助けました。
このことが代官「伊奈忠尊」に聞こえ、21人と里正(名主)は陣屋に呼ばれ褒賞を受けました。
この善行を讃え後世に伝えようとー碑を建てたと云う。(県史跡指定)

「八幡神社」
幸手城主、一色宮内大輔の家臣、遠藤石見清吉が、帰農して開発したといわれている。

     庚申信仰の対象ともなっていた。平成19年に不審火により焼失し、再建された。
    

「聖徳寺」
「聖福寺・勅使門」ー日光社参の祈りに将軍が立ち寄ったとされる休憩所の寺。
旧日光街道沿いに今も残る聖福寺は、菩提山ー東皐院と号し、浄土宗知恩院の末寺として応永年間の1394~1428年、開山したと伝えられている。
江戸時代には将軍の日光社参の折りと、東照宮例大祭に天皇の代理で参拝した例幣使の帰路の休憩所に用いられ、山門は唐破風・四脚門で将軍と例幣使以外は通行できなかったと云う。

阿弥陀如来を本尊ー運慶の作と伝えられる観音菩薩像が祀られ、
    

       本堂ー境内には漢学者金子竹香の碑などが建てられている。


「幸宮神社」
市総鎮守ー祭神は、誉田別尊・経津主神・菅原道真公。
創祀は不明であるが、日光街道と御成街道が交差する幸手宿の鎮守。
「平将門」伝説では、幸手の地に存在していたと云う。

  本殿は、全面彫刻が施され、また拝殿には江戸時代の絵師宗文の絵馬一対が奉納されている
    

幸手の町は度重なり洪水に流失。「浅間神社」があるが、この神社、幸手宿一の豪商が建立している。

   拝殿                    末社・猿田彦大神
    

「延びる・東武日光線」
伊勢崎線の東武動物公園駅から分岐して東武日光駅に至る路線。
新栃木駅からは宇都宮線が、下今市駅からは鬼怒川線が分岐し、それぞれの路線に直通する列車も多く設定され、特に、鬼怒川線に直通する特急列車が多数設定されている。
新栃木以南では地域内輸送、沿線地域から東京方面への通勤通学路線としての側面が強いが、「観光都市日光」を訪れる足としての役割大。
栗橋駅で、JR東日本の宇都宮線と、栃木駅で両毛線とそれぞれ接続する。
栗橋駅構内でJR宇都宮線と東武日光線の間に渡り線が設けられ、同改正よりJR新宿駅方面と東武日光駅・鬼怒川線鬼怒川温泉駅方面とを直通運転する
特急列車の運行が開始された。
鹿沼市内から東武日光駅までは当線建設以前に開業していたJR日光線と並行し、東北本線(東京駅・新宿駅 - 宇都宮駅)と合わせて東京方面と日光方面を結ぶ競合路線として、両社とも優等列車を増発してその速度と旅客サービスが競われてきたと云う。
現在は特急列車の直通運転によって両社の関係が対立から協調へと変わっている。
新鹿沼駅付近を境とし、その南側は関東平野の中央を縦貫する平坦区間、北側は足尾山地と関東平野の境界部の25‰の勾配が連続する区間で、
最北端の終点ー「東武日光駅」の標高は構内で538mに達する。
明神駅 - 下今市駅間には東武の地上線で唯一のトンネルがあるー全長40m。

               東武日光線「幸手」駅


次回は、杉戸たかの台・東武動物園前へ。

栗橋 静御前ー江戸川を下る2

2016-05-10 | 気まま旅
JR宇都宮線で、大宮駅から8駅が「栗橋駅」-大宮ー土呂ー蓮田ー久喜ー栗橋で次が「古河駅」ー宇都宮へ。

まず、土呂駅を出ると見沼代用水西縁を越え芝川を渡り、東大宮駅、上尾市に入り国道16号の高架橋をくぐり見沼代用水東縁および綾瀬川を渡って蓮田市、両水路の河岸に連なる田畑を越えて再び市街地に入ると蓮田駅である。
元荒川の橋梁を渡る。江戸時代以前は元荒川が荒川の本流であったが、利根川東遷事業と呼ばれる河川工事の結果、荒川は、入間川に合流して隅田川へ、(現在の流れに瀬替えされ、この川は、元荒川)
元荒川沿いの低地から台上に上がり、新興住宅街の中を走って化学工場、マンション群が見えて来ると白岡駅に着く。
隼人堀川を越え東北自動車道の高架をくぐり姫宮落川を越すと新白岡駅・新白岡駅を過ぎ、田畑や果樹園を見ながら備前堀川、備前前堀川を越えると久喜市、市街地に入り、西から東北新幹線の高架、東から東武伊勢崎線の線路が近づくと久喜駅に着く。
久喜付近からは車窓東側に筑波山が見えてくる。
青毛堀川を越したところで東武伊勢崎線は宇都宮線を跨ぎ、西へ向かう。
田園地帯に入り間もなく古利根川の源流部にあたる葛西用水を渡って旧鷲宮町の東鷲宮駅に着く。この駅は、昭和56年、に貨物駅として開業、その後旅客駅となったが間もなく貨物扱いは廃止され旅客扱いのみとなった。
東鷲宮駅を出ると田園地帯を走り、中川を渡って旧栗橋町に入る。築堤上に敷かれた東武日光線の線路が宇都宮線を跨ぐと住宅地となり、目的駅の「栗橋駅」に着く。

栗橋は、江戸時代には日光街道栗橋宿。
渡良瀬川(利根川)渡しがある交通の要衝として賑わった所。
加須市(旧大利根町)は、利便性が高まったと云う。
栗橋駅を出ると宅地の間の築堤を登りながら東側にカーブし加須市域をかすめ、日本国内最大級の河川で「坂東太郎の異名でも知られる利根川」を渡ると、茨城県古河市に入る。

    JR宇都宮線の車中からー1885年大宮~宇都宮間開通した。
  

埼玉県の三偉人は、「畠山重忠」1164-1205 剛勇鎌倉武士
         「塙保己一」1746-1821 7歳で失明、農民の子国学者・大阪商人鴻池から数千両の借金をし、質素生活を
                     晩年、「群書類従」の編纂が認められた超人的な記憶力を誇ったと云う。
         「渋沢栄一」1840-1931 明治・大正の実業家、教育に力を注いだ。

             源義経を慕って舞った白拍子「静御前」
    

義経は1尺の布・兄頼朝は100尺の布、お願いですから弟を助けてください。義経は、何にも・・・・。

「吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし 跡ぞ恋しき 回波回さず 阿歌の心 南山の雪 終古に深し」

「白拍子・静御前」、生没年不詳 源義経の妾・母は磯禅師。
義経は、兄頼朝と闘う決意を固め、西国へ、が、船が難破し、手勢チリジリ、数人の家来と共に吉野山へ逃れた。その時静御前も同行、険しい山中で無理と、別かれている。その後、母と共に捕われ鎌倉に送られた。(尋問には答えなかったと云う)
頼朝の妻、政子の所望により、静は、「鶴岡八幡宮の回廊」で舞う。
鼓ー工藤祐経・銅拍子ー畠山重忠。

「源義経」1159-89 悲運の武将 義朝の九男、鞍馬寺預けられ、脱出し奥州平泉「藤原秀衝」の庇護を受ける。兄頼朝の挙兵を知り参加平家討滅に大功をたてた。頼朝の許可なく任官し怒りをかって対立する。

    。 静は、奈良吉野山、初冬の山の中でさまよい、頼朝の僧兵に捕えられ、鎌倉へ。
  

武士たちは、静の勇気と愛に感動したが、頼朝は怒った。政子は、それをとりなしたと云う。
間もなく静は、男児を出産するが殺されている。その後の行方は不明である。

「栗橋町」は、埼玉県北葛飾郡で県の北東部「利根川」を境に茨城県と接し、江戸時代初期、茨城県五霞村が移住開発された。
日光道の本陣・宿場・関所があった。それは、利根川の渡船場があり、中心地であった。
今は、宅地化が進んでいる町。

      

「伝説」
古河・栗橋の地には、伝説が残されている。
吉野の山で義経一行と別れた静は,頼朝方の追手に捕らえられて鎌倉に送られた後,一旦は京都に帰ります。
しかし、義経を慕う思い絶ち難く、1189年、奥州平泉へと向かう旅に出ます。
同年5月に,下河辺荘高野(埼玉県杉戸町)に着いた彼女は,栗橋関所(当時は五霞町元栗橋に)が厳重に警備されていることを知り,八甫(同鷲宮町)を経て,義経の叔父が住職を勤める「高柳寺(同栗橋町)」に
一泊し、北を目指して下総国下辺見(古河市)にたどり着くのですが,ここで旅人から義経が既に殺されたことを聞かされ,静は、奥州に行って義経を弔うか,それとも諦めて京都に戻るか,迷った末に京都に戻ろうと決めますが(一度は栃木県宇都宮市まで行ったという説)
愛する人の死に既に生きる望みを失っていた彼女は,慣れぬ旅の疲れから病に伏してしまい、「高柳寺」で剃髪して尼となり、その数ヵ月後
「九郎ぬし(義経様)」という言葉を最期に,22歳の若さでこの世を去る。・・・伝説。

    

吾妻鏡より
政子は静御前の舞に対して、頼朝に「不本意に別れる事になった人を慕う気持ち、私にはよく判ります。私達だって、昔は、似たようなもの
でしたではありませんか」その年に、男の子を出産したが、頼朝の令で鎌倉の海へ。
義経は、三人の女性が、「静御前」と、「郷御前」(正室、関東豪族の娘でー二代将軍頼家の乳母の娘・スパイ説もある)と「蕨姫」(平時忠の娘
壇ノ浦の戦い捕えられ都に戻っている。頼朝から怒りをかい、時忠は能登半島に流刑。
平家物語は、時忠は、義経に押収されたが、機密文書をどうしても取り戻す為、義経に娘を差し出したとある。その娘が蕨姫先妻の子で婚期を逃し
23歳とある。機密文書は、時忠に返却し、焼却処分されている。義経は、蕨姫に会うため能登半島にも、

           義経の三人の女性、静御前・郷御前・蕨姫
      

 2008年・平成20年ー権現堂調節池(行幸湖)と合わせ、「埼玉県営権現堂公園」として整備された。



「権現堂堤とアブラナ」
中川の堤防上約1kmにわたって、約1000本の桜並木が続く。
桜は、ソメイヨシノで、4月上旬が見ごろ。

近年は開花時期が早まって、桜の開花と同時期に堤下に広がるアブラナも咲くため、ピンクと黄色のコントラストが美しいと云う。
堤下には他にも全国から集められた様々な種類の桜が植樹され、桜祭りの期間中は、中川に架かる外野橋は夜間ライトアップされ、
夜桜見物の人の目を惹く。また、100種約15,000株のアジサイや、約100万本の曼珠沙華が堤に植えられている。
社団法人日本観光協会が主催する平成19年度の「花の観光地づくり大賞」において「フラワーツーリズム賞」を受賞。
現在の日光街道(現国道4号)の栗橋交差点(国道125号との交差点)付近から中川に架かる「行幸橋」の築堤は、

                  かつての行幸堤。
    

大正元年・権現堂堤と権現堂川
明治9年、明治天皇が東北巡幸の際に立寄ったことから、行幸堤とも呼ばれるようになったと云う。
    

江戸時代の天正年間・利根川の支流(現在は分流)である「権現堂川」

堤防として築かれ、かつては6kmにわたり約3000本の桜があり、大正時代から桜の名所として賑わっていた。
    

大正9年、に桜を植え替える運動が、利根川や江戸川の流路変更に伴い、権現堂川は明治時代の終わりに締め切られ、昭和8年、廃川に、堤防は、荒れ果て、堤防の桜は終戦前後の混乱や燃料にするために、その多くが伐採さた。
    

昭和24年、旧権現堂川堤防のうち中川の堤防として残った部分へ改めてソメイヨシノを植樹したものが現在の権現堂堤である。

昭和63年,アブラナが、平成8年,一部にアジサイが植えられ、平成12年、曼珠沙華、平成15年、スイセンが。
    

利根川 江戸川を下る1

2016-05-08 | 気まま旅
群馬県利根郡利根村は、県北東部で赤城山北麓の村、古語で険しい山「刀袮・とね」による等の諸説がある。
西部を利根川支流の「片品川」が南流する地域。会津街道・大間々街道沿いの要所。中世に、「上杉謙信」が関所をもうけている。
土地は、国有林が75%を占め、南西部の「薗原ダム」は、洪水調節と発電と灌漑用に建設されている。老神温泉・赤城神社支社が近い。
「利根川」は、その、利根郡から流れ下るのでその名があると云う。
群馬・新潟両県の境にある三国山脈の1809m丹後山が源を発している(奥利根)。群馬県水上までを奥利根・水上から埼玉県「栗橋」を上利根・
栗橋から千葉県我孫子市の布佐までを中利根・布佐から銚子河口を下利根と云い。
関東平野を横切って銚子で太平洋に注ぐ河川は、群馬県・栃木県・埼玉県・茨城県・千葉県と5県にまたがり我が国最大に流域面積で、一位の
「信濃川」に次いで全国第二位の長さを持っている。支流は「285」ある。坂東太郎とも呼ばれ、筑後川を筑紫次郎、吉野川を四国三郎の三大河と云う。

      JR成田線「布佐」駅ー千葉県我孫子市布佐・下利根は布佐ー銚子河口を云う
    

関東平野を潤す母の川「利根川」の奥利根は、川幅が狭く急流性の河川で、貯水池が「奥利根湖・胴元湖・藤原湖」がつくられた。
上利根には、沼田盆地で薄根川と片品川が合流し、その上流に「相俣ダムー赤谷川・薗原ダムー片品川」がある。
南下すると渋川で吾妻川と合流する。(吾妻川流域には、草津白根ー2160m)の火山があり、浅間山の噴火に伴う噴火物が洪水のたびに吾妻川
を流下し、下流部に大被害を与えてきている。

   千葉県銚子の河口は新しい・旧利根川は、荒川や入間川などを合せて東京湾に注いでいた。


榛名山東麓・赤城山南麓には、「八木沢ダム・1967年」から取水する灌漑用の県用水に、伊勢崎の碓氷・鏑・神流川が烏川を合せ流入する。
それからは、平地性河川として関東平野を貫流し会ノ川の分岐点を越えると「足尾山地」から「渡良瀬川」が合流。
この後でも取り上げるが、埼玉県栗橋の旧流路であった「権現堂川」分岐する。

      銚子の河口は、元は鬼怒川ー江戸を水害から守るため利根川流路を鬼怒川へ


「利根川」の人工流路工事で「鬼怒川・小貝川」と合流、この間に、見沼代用水・武蔵水路・埼玉用水が開かれている。
下利根ー布佐から銚子河口は、約100kmと云う。勾配は著しく緩い、手賀沼や印旛沼や霞ケ浦や北浦のどの湖沼の水郷地帯を形成している。
その為、洪水や海水の侵入による塩害問題が生じている。
千葉県東庄町から、海水の侵入防止ー利根川河口堰が1971年完成している。大利根用水は、九十九里平野を潤していると云う。

                 埼玉県には、古利根川跡が


「利根川の大洪水」は、1742年、中条堤破堤、江戸市中氾濫・1786年、中条堤破堤、権現堂堤破堤、江戸市中氾濫・1846年、権現堂堤破堤,
江戸市中氾濫・1910年の明治43、中条堤破堤、東京府下氾濫・昭和22年、栗橋破堤、東京都下氾濫
ー(約200年に5回、40年から50年に1回という頻度に)・

大河流路工事は、利根川と大和川(奈良県・大阪)・東北の北上川(石巻港へ)


神流川流域は秩父古生層という硬い岩石、多くの断層や破砕帯があり、複雑な地質構造となっている。
このため急峻な地形と脆弱な地質から、大量の土砂が生産されやすい地域、神流川本川と急流支川との合流点付近には人家が多く、
支川に砂防堰堤をもうけることにより、本川への土砂流出を防止している。
神流川流域は、群馬・長野・埼玉3県の県境、三国山に源を発し、平均河床勾配は1/20と、利根川上流の支川の中では比較的急峻。
神流川流域は群馬県の南西部に位置し、狭隘な地形を縫うように流下する神流川に沿って集落が点在している。
流域には関東一の鍾乳洞である不二洞、火山・地形、地質、気象、平成3年、譲原地すべり災害があった。
譲原地区は、明治43年以降幾度か地すべり活動が確認され、昭和39年~44年の群馬県による地すべり対策工事により活動は沈静化していた。
しかし、平成3に、台風による集中豪雨のため地すべりが活発化し、道路や家屋に亀裂が生じ、主要地方道鬼石・中里線(現国道462号)は6日間全面通行止め、その後も、平成11年、熱帯低気圧豪雨、平成11年、九州の南海上で発生した熱帯低気圧は、本州南海上を北東進し、関東南岸に至って進路を北西に変え、その、午後日本海へ抜けた。
この熱帯低気圧の通過は、関東地方に大雨をもたらし、群馬県内では神流川支川の野栗沢流域において山腹崩壊による土流が発生、所ノ沢および奥名郷沢付近で氾濫...現在も所々工事中。



1900年明治33年から高水防御の治水工事によって、堤防や広い河川敷きや放水路や遊水池で下流部は現在の姿になった。
戦後、八木沢ダム・下久保ダム・農業用水・水道水・工業用水・発電用水として利用し首都圏の水の需要が広がっている。が、舟運は消失した。
現在、上流は、上信越高原国立公園・下流は、水郷筑波国定公園にしている。

                長さ322km-流面16840km2


「神流川の戦い」ー織田信長切腹ー
天正10年・1582年、織田軍家臣・滝川一益が神流川を渡り上野から武蔵(埼玉県)本庄原に入ったところで、北条氏政・氏直親子の率いる5万の軍勢と激突。
最初は、一益側が優位のうちに戦闘が、北条軍の名だたる武将が次々討ち取られた。が、数で勝る北条軍の軍勢が、一益軍の後方へと回りこみ、前後から挟み撃ちの状態となって、形勢は逆転され、一益軍の崩れは早い。
一益は、その年に、上野・厩橋城をもらったばかりで、一益の率いている軍勢の中には、北条氏についていた者が、かなりの数含まれていたと云う。
またたく間に敗北を喫した。
戦闘は、敗北に次ぐ敗北の連続で、勢いに乗る北条軍は、上野の奥地の方まで進攻。
一益は、信濃(長野県)を経由して、本拠地の伊勢・長島(三重県)へ逃走する。
命こそ助かったものの、この合戦によって一益は、信長の家臣の中でも重きを置かれていた立場から完全に脱落する。



                江戸時代の栗橋と利根川




次回は、埼玉県北葛飾郡栗橋町からスタートします。