関宿は、関東平野のほぼ中心、中世戦国時代は、「関宿を支配することは、一国を支配するのと同じ」と云われているほど重要な地域であった。
関宿での各大名が戦いを繰り返した地域。
近世に入り、江戸幕府は、関宿藩を置き、徳川家に古くから仕え信頼できる大名(譜代大名)に支配をまかせ藩主は、江戸で幕府の重要な仕事も任された
脇街道「日光東往還」の宿場町で賑わっている。
「足利 成氏」ー室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。
父は「永享の乱」で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は、1447年とする説も。
父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の「享徳の乱」を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った人物。
現在地より500mほど離れているー城址がある。
「享徳の乱」1455 -1483、
室町幕府8代将軍足利義政の時に起こった室町時代の関東地方における内乱。
第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(古河公方)方が争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因となった。
久世氏の家紋
「関宿城」
1457年、古河公方足利成氏の有力家臣簗田成助が水海城(茨城県古河市)から関宿に移って築城したのが関宿城の始まりと伝えられる。
以来簗田氏の居城となった関宿城は、後北条氏が北関東へ勢力を伸ばす上で戦略的拠点で、1574年に簗田氏が関宿城を開城し、その後は、後北条氏の支城として戦略上重要な前線基地となる。
関宿初藩主、徳川家康の異父弟2~4万石で松平康元入城ー1590年~
この関宿という町は東を利根川、西を江戸川が流れる「水の町」である。関宿の町から眺めると、江戸川や利根川の堤防が高く聳え、さながら町全体を取り囲むように見える。現在の千葉県の最北端に位置し、よく言えばのどかな田園地帯、悪く言えば周囲に取り残された「陸の孤島」である。
一見鄙びた感すらある関宿という地をめぐって、かつて激しい戦いが繰り広げられていた。
関東の戦国史を陰で操るある一族の姿が見えてくる。
その一族は「簗田氏」という。ここでは、関宿城をめぐる戦いと、簗田氏の動向、そして時代の荒波に翻弄された「古河公方」足利氏。
簗田氏の出身は下野国簗田郡簗田御厨という。「与吾将軍系図」によれば、桓武平氏の流れを汲み、鎮守府将軍平維茂の子、良衡を祖とし、もともとは
近江久田郡に居住、「前九年の役」で源義家に属し、その恩賞で下野南部の簗田御厨を与えられて土着した、ともされる。
このあたりの系図には、簗田氏に限らず多分に潤色がある。
下野の在地土豪であったとも云われている。
水海城周辺。度重なる洪水と耕地整理により遺構は跡形もなく消え、その場所すら判然としせず、わずかに微高地となっている水海集落にその面影を重ねるのみと云う。
4代小笠原政信古河から入封ー1619年
簗田持助が父であり「御家之鏡」であった満助のために建立した東昌寺。現在の東昌寺は寛文六年に移転してきたもの。
山門は元禄二年、関宿藩主牧野備後守成貞室の寄進によるもの、梵鐘には、文明八年大檀那簗田河内守持助の銘がある。
簗田氏は、代々、関東公方足利氏の奉公衆であったが、さして身分の高い存在ではなかった。
その簗田氏に転機が訪れたのは、室町中期の簗田満助の代である。満助は長子ではなかったものの、母が那須氏出身と云われ、その血統のよさを買われて関東公方・足利満兼から簗田氏を嗣ぐことを許され、満兼より「満」の一字を譲り受け、その息女を満兼の子、持氏に嫁がせたのである。
このことによって簗田氏は公方奉公衆筆頭の地位を得て、一字偏諱と息女の輿入れによる縁戚化が慣例化したのである。
満助は、まさに簗田氏中興の祖ともいえ、後世子孫たちからは「御家之鏡」と尊崇されたのである。
しかし、その満助は、「永享の乱」で持氏に殉じて討ち死にした。
持氏の偏諱を受けた満助の子、持助は、持氏の第四子・永寿王丸(持助の甥にあたる)を鎌倉から脱出させることに成功する。
この「永寿王丸」こそ、のちに関東に果てしない動乱の種を蒔くことになる初代「古河公方・足利成氏」である。
持助は東昌寺(茨城県五霞町)を建立し、父の菩提を弔った。五霞町(当時の五箇村)周辺は「下河辺荘」といわれ、利根川水系、渡良瀬川水系などが織り成す水運の要衝であったとともに、関東公方家の御料所が集中していた。
このころには簗田氏はこの下河辺荘に移っていたのである。その本拠は下総猿島郡水海(茨城県猿島郡総和町)である。
「結城合戦」の折、持氏の遺児を報じて挙兵せんとする結城氏朝に対し、水谷時氏らとともにこれを諌め、その身の振り方に悩んだ末に出家入道した
簗田修理亮なる人物も、簗田氏の一族であっただろう。
『鎌倉公方九代記』には、簗田六郎なる人物が、平田兵部少輔らとともに七十騎を率いて、上杉教朝の陣に夜襲を掛け、さんざんに斬りまくって鮮やかに結城城内に退き上げていった、というエピソードも伝わる。
この簗田六郎なる人物が何者で、その後どうなったのかはわからない。
おそらく、幕府軍十万との十ヶ月に渡る戦いの後、結城城の落城とともに果てたとも云う。
このとき、結城城の南、大河が交錯する水郷地帯に下河辺一族が城砦を築いて立て籠もり、結城城を背後から支えつづけ、舞台となる「関宿城」である。
簗田氏が関宿城に入城したのは、1457年、ときに鎌倉から古河に移座した「古河公方」足利成氏と、室町幕府の後ろ盾を得た関東管領上杉一族が激しく対立した「享徳の大乱」の最中であったと云う。
こうして簗田氏と関宿城が結びついたのである。簗田氏は代々、古河公方家にその息女を嫁がせることにより、古河公方家と血縁を結び、奏者兼筆頭重臣となった。
ここに「古河公方-古河城」ラインと「簗田氏-関宿城」ラインが結びつき、古河公方の権力構造の基礎が確立していったのである。
1590年、「松平康元」(徳川家康異父弟)の入城が関宿藩の始まりで、
以後江戸幕府は代々ここに譜代大名を配し、藩主は、八家二十三代にわたり、なかでも久世氏の治世が最も長く、老中などの要職に就き幕府内で重要な地位を占めます。
川越城や佐倉城などとともに江戸城防衛の重要拠点であり、利根川水運の中継地点に位置していたことから、幕府は関宿城をとても重要視していた。
敷地面積11134m2・三層四階(江戸城富士見櫓風)・1640年北条氏重2万石で静岡から入封
城主ー初代 「松平康元」1590~1603・2代 松平忠良1603~1616・3ー「松平重勝」1617~1619・4ー「小笠原政信」1619~1640
5ー「小笠原貞信」1640~1640
6代「北条氏重」1640~1644 ・7ー「牧野信成」1644~1647・8ー「牧野親成」1647~1656・9ー「板倉重宗」1656~1656
10ー「板倉重郷」1657~1661・11ー「板倉重常」1662~1669・12ー「久世廣之」1669~1679・13ー「久世重之」1679~1683
14ー「牧野成貞」1683~1695・15ー「牧野成春」1695~1705・16ー「久世重之」1705~1720・17ー「久世暉之」1720~1748
18ー「久世廣明」1748~1785・19ー「久世廣誉」1817~1830・20ー「久世廣運」1817~1830・21ー「久世廣周」1830~1862
22ー「久世廣文」1862~1868・23代「久世廣業」明治元年(1868)~明治二年(1869) 。
関宿藩の起こりは、
天正18年・1590年に、徳川家康が関東入国の際に、異父弟の松平康元に2万国を与え関宿城主としたことに始まる。
関宿藩は、東北外様諸大名に対する備えや関宿関所(水番所)の管理等と重要視され、
幕府は小笠原氏、牧野氏、板倉氏など有力な譜代大名を配し、なかでも「久世氏」の治世が最も長く、幕末まで九代の藩主を数え、老中をはじめとする幕府の要職を歴任し、幕政に深く関わる。
老中、久世広之、5万石で、1669年、相模国から入封
「久世広之」の幕政参加
関宿藩12代藩主久世広之(1609~1679)は、四代将軍徳川家綱の保育にあたり、寛文二年・1662年に若年寄に就任。
翌年には老中に登りつめ、大老酒井忠清のもとで着実に職務を遂行。
三代将軍徳川家光までは、幕府の力を強固なものとするため、「武断政治」とよばれる強圧的な政治が行われ、家綱の代になって幕府の支配が確立。
社会も安定し、「文治政治」へと転換が図られます。
広之は老中として、法令や制度を整えて社会秩序を保つなど、文治政治の実現に努力し、仙台藩お家騒動の解決に奔走したことは、
山本周五郎著の「樅ノ木は残った」で有名。
23代久世広業、明治3年で廃止、明治5年陸軍省廃城に(100名位野藩士が江戸詰勤務していた)
「田沼意次」1719-88 政争に敗れた経済官僚・幕閣としては、老中まで累進、幕府経済の転換を図るが保守派によって失脚、田沼は賄賂政治家でも知られ、賄賂が横行している。嫡男は、江戸城中で斬殺され権力の座から追われる。
「水野忠邦」1794-1851 天保の改革断行、浜松藩主、浜松城は出世城で、水野は「青雲の要路」老中登用を子供の時から熱望している。
天保の改革を急ぎ過ぎ反対派から失脚させられる。
利根川の護岸水工事に尽力した2人
展示室には、
江戸時代から明治中期にかけて、大量の物資を長距離輸送する主役は水運でした。オランダ人技師ムルデルの設計により、1890年の明治23年、
利根川・江戸川間に完成した利根運河は、航行の短縮にも成り、その翌年約3万7千艘もの船が通過しと云う。
利根川流域の河川改修・手賀沼・印旛沼の千拓・河川交通と探せる博物館であった。
次回は、利根川と江戸川の中の島公園。
関宿での各大名が戦いを繰り返した地域。
近世に入り、江戸幕府は、関宿藩を置き、徳川家に古くから仕え信頼できる大名(譜代大名)に支配をまかせ藩主は、江戸で幕府の重要な仕事も任された
脇街道「日光東往還」の宿場町で賑わっている。
「足利 成氏」ー室町時代から戦国時代の武将。第5代鎌倉公方(1449年 - 1455年)、初代古河公方(1455年 - 1497年)。
父は「永享の乱」で敗死した第4代鎌倉公方足利持氏。鎌倉公方就任時期は、1447年とする説も。
父持氏と同様、鎌倉公方の補佐役である関東管領及び室町幕府と対立したが、持氏と異なり、約30年間の「享徳の乱」を最後まで戦い抜き、関東における戦国時代の幕を開ける役割を担った人物。
現在地より500mほど離れているー城址がある。
「享徳の乱」1455 -1483、
室町幕府8代将軍足利義政の時に起こった室町時代の関東地方における内乱。
第5代鎌倉公方足利成氏が関東管領上杉憲忠を暗殺した事に端を発し、幕府方、山内・扇谷両上杉方、鎌倉公方(古河公方)方が争い、関東地方一円に拡大し、関東地方における戦国時代の遠因となった。
久世氏の家紋
「関宿城」
1457年、古河公方足利成氏の有力家臣簗田成助が水海城(茨城県古河市)から関宿に移って築城したのが関宿城の始まりと伝えられる。
以来簗田氏の居城となった関宿城は、後北条氏が北関東へ勢力を伸ばす上で戦略的拠点で、1574年に簗田氏が関宿城を開城し、その後は、後北条氏の支城として戦略上重要な前線基地となる。
関宿初藩主、徳川家康の異父弟2~4万石で松平康元入城ー1590年~
この関宿という町は東を利根川、西を江戸川が流れる「水の町」である。関宿の町から眺めると、江戸川や利根川の堤防が高く聳え、さながら町全体を取り囲むように見える。現在の千葉県の最北端に位置し、よく言えばのどかな田園地帯、悪く言えば周囲に取り残された「陸の孤島」である。
一見鄙びた感すらある関宿という地をめぐって、かつて激しい戦いが繰り広げられていた。
関東の戦国史を陰で操るある一族の姿が見えてくる。
その一族は「簗田氏」という。ここでは、関宿城をめぐる戦いと、簗田氏の動向、そして時代の荒波に翻弄された「古河公方」足利氏。
簗田氏の出身は下野国簗田郡簗田御厨という。「与吾将軍系図」によれば、桓武平氏の流れを汲み、鎮守府将軍平維茂の子、良衡を祖とし、もともとは
近江久田郡に居住、「前九年の役」で源義家に属し、その恩賞で下野南部の簗田御厨を与えられて土着した、ともされる。
このあたりの系図には、簗田氏に限らず多分に潤色がある。
下野の在地土豪であったとも云われている。
水海城周辺。度重なる洪水と耕地整理により遺構は跡形もなく消え、その場所すら判然としせず、わずかに微高地となっている水海集落にその面影を重ねるのみと云う。
4代小笠原政信古河から入封ー1619年
簗田持助が父であり「御家之鏡」であった満助のために建立した東昌寺。現在の東昌寺は寛文六年に移転してきたもの。
山門は元禄二年、関宿藩主牧野備後守成貞室の寄進によるもの、梵鐘には、文明八年大檀那簗田河内守持助の銘がある。
簗田氏は、代々、関東公方足利氏の奉公衆であったが、さして身分の高い存在ではなかった。
その簗田氏に転機が訪れたのは、室町中期の簗田満助の代である。満助は長子ではなかったものの、母が那須氏出身と云われ、その血統のよさを買われて関東公方・足利満兼から簗田氏を嗣ぐことを許され、満兼より「満」の一字を譲り受け、その息女を満兼の子、持氏に嫁がせたのである。
このことによって簗田氏は公方奉公衆筆頭の地位を得て、一字偏諱と息女の輿入れによる縁戚化が慣例化したのである。
満助は、まさに簗田氏中興の祖ともいえ、後世子孫たちからは「御家之鏡」と尊崇されたのである。
しかし、その満助は、「永享の乱」で持氏に殉じて討ち死にした。
持氏の偏諱を受けた満助の子、持助は、持氏の第四子・永寿王丸(持助の甥にあたる)を鎌倉から脱出させることに成功する。
この「永寿王丸」こそ、のちに関東に果てしない動乱の種を蒔くことになる初代「古河公方・足利成氏」である。
持助は東昌寺(茨城県五霞町)を建立し、父の菩提を弔った。五霞町(当時の五箇村)周辺は「下河辺荘」といわれ、利根川水系、渡良瀬川水系などが織り成す水運の要衝であったとともに、関東公方家の御料所が集中していた。
このころには簗田氏はこの下河辺荘に移っていたのである。その本拠は下総猿島郡水海(茨城県猿島郡総和町)である。
「結城合戦」の折、持氏の遺児を報じて挙兵せんとする結城氏朝に対し、水谷時氏らとともにこれを諌め、その身の振り方に悩んだ末に出家入道した
簗田修理亮なる人物も、簗田氏の一族であっただろう。
『鎌倉公方九代記』には、簗田六郎なる人物が、平田兵部少輔らとともに七十騎を率いて、上杉教朝の陣に夜襲を掛け、さんざんに斬りまくって鮮やかに結城城内に退き上げていった、というエピソードも伝わる。
この簗田六郎なる人物が何者で、その後どうなったのかはわからない。
おそらく、幕府軍十万との十ヶ月に渡る戦いの後、結城城の落城とともに果てたとも云う。
このとき、結城城の南、大河が交錯する水郷地帯に下河辺一族が城砦を築いて立て籠もり、結城城を背後から支えつづけ、舞台となる「関宿城」である。
簗田氏が関宿城に入城したのは、1457年、ときに鎌倉から古河に移座した「古河公方」足利成氏と、室町幕府の後ろ盾を得た関東管領上杉一族が激しく対立した「享徳の大乱」の最中であったと云う。
こうして簗田氏と関宿城が結びついたのである。簗田氏は代々、古河公方家にその息女を嫁がせることにより、古河公方家と血縁を結び、奏者兼筆頭重臣となった。
ここに「古河公方-古河城」ラインと「簗田氏-関宿城」ラインが結びつき、古河公方の権力構造の基礎が確立していったのである。
1590年、「松平康元」(徳川家康異父弟)の入城が関宿藩の始まりで、
以後江戸幕府は代々ここに譜代大名を配し、藩主は、八家二十三代にわたり、なかでも久世氏の治世が最も長く、老中などの要職に就き幕府内で重要な地位を占めます。
川越城や佐倉城などとともに江戸城防衛の重要拠点であり、利根川水運の中継地点に位置していたことから、幕府は関宿城をとても重要視していた。
敷地面積11134m2・三層四階(江戸城富士見櫓風)・1640年北条氏重2万石で静岡から入封
城主ー初代 「松平康元」1590~1603・2代 松平忠良1603~1616・3ー「松平重勝」1617~1619・4ー「小笠原政信」1619~1640
5ー「小笠原貞信」1640~1640
6代「北条氏重」1640~1644 ・7ー「牧野信成」1644~1647・8ー「牧野親成」1647~1656・9ー「板倉重宗」1656~1656
10ー「板倉重郷」1657~1661・11ー「板倉重常」1662~1669・12ー「久世廣之」1669~1679・13ー「久世重之」1679~1683
14ー「牧野成貞」1683~1695・15ー「牧野成春」1695~1705・16ー「久世重之」1705~1720・17ー「久世暉之」1720~1748
18ー「久世廣明」1748~1785・19ー「久世廣誉」1817~1830・20ー「久世廣運」1817~1830・21ー「久世廣周」1830~1862
22ー「久世廣文」1862~1868・23代「久世廣業」明治元年(1868)~明治二年(1869) 。
関宿藩の起こりは、
天正18年・1590年に、徳川家康が関東入国の際に、異父弟の松平康元に2万国を与え関宿城主としたことに始まる。
関宿藩は、東北外様諸大名に対する備えや関宿関所(水番所)の管理等と重要視され、
幕府は小笠原氏、牧野氏、板倉氏など有力な譜代大名を配し、なかでも「久世氏」の治世が最も長く、幕末まで九代の藩主を数え、老中をはじめとする幕府の要職を歴任し、幕政に深く関わる。
老中、久世広之、5万石で、1669年、相模国から入封
「久世広之」の幕政参加
関宿藩12代藩主久世広之(1609~1679)は、四代将軍徳川家綱の保育にあたり、寛文二年・1662年に若年寄に就任。
翌年には老中に登りつめ、大老酒井忠清のもとで着実に職務を遂行。
三代将軍徳川家光までは、幕府の力を強固なものとするため、「武断政治」とよばれる強圧的な政治が行われ、家綱の代になって幕府の支配が確立。
社会も安定し、「文治政治」へと転換が図られます。
広之は老中として、法令や制度を整えて社会秩序を保つなど、文治政治の実現に努力し、仙台藩お家騒動の解決に奔走したことは、
山本周五郎著の「樅ノ木は残った」で有名。
23代久世広業、明治3年で廃止、明治5年陸軍省廃城に(100名位野藩士が江戸詰勤務していた)
「田沼意次」1719-88 政争に敗れた経済官僚・幕閣としては、老中まで累進、幕府経済の転換を図るが保守派によって失脚、田沼は賄賂政治家でも知られ、賄賂が横行している。嫡男は、江戸城中で斬殺され権力の座から追われる。
「水野忠邦」1794-1851 天保の改革断行、浜松藩主、浜松城は出世城で、水野は「青雲の要路」老中登用を子供の時から熱望している。
天保の改革を急ぎ過ぎ反対派から失脚させられる。
利根川の護岸水工事に尽力した2人
展示室には、
江戸時代から明治中期にかけて、大量の物資を長距離輸送する主役は水運でした。オランダ人技師ムルデルの設計により、1890年の明治23年、
利根川・江戸川間に完成した利根運河は、航行の短縮にも成り、その翌年約3万7千艘もの船が通過しと云う。
利根川流域の河川改修・手賀沼・印旛沼の千拓・河川交通と探せる博物館であった。
次回は、利根川と江戸川の中の島公園。