syuの日記・気まま旅

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成田 総武本線の旅11終わり

2016-05-06 | 気まま旅
成田駅も総武本線
成田街道は、江戸から下総成田に至る街道で、江戸から佐倉までを佐倉街道と重なっている。成田新勝寺参詣の旅人が多く通った街道。
江戸の人間は、千葉県市川行徳まで船を利用していたと云う。途中の船橋宿は、成田詣でで栄えた。
「市」は、北部で、熱田が転嫁(豊作の水田)説が有力。北部に、利根川に注ぐ「根木名川流域」の低地で、西部に「印旛沼」の低地が開けている。
台地上に先土器時代の石器が出土し「三里塚」で、又、多数の貝塚や遺構がある。
「鎌倉時代」は、千葉一族が支配、江戸時代は、佐倉藩や旗本の領地となった。中世以来「成田山新勝寺」の門前町で栄え、鉄道も1897年開通している。
現在は、昭和41年下総御料牧場から三里塚中心に新国際成田空港・空の玄関口として、外人観光客で賑わっている。
周辺は、成田ニュータウンや工業団地や駅前商店ビルなど人口も急増している。

                  JR成田駅中央改札・提灯


「三橋鷹女」
昭和期に活躍した代表的な女性俳人。中村汀女・星野立子・橋本多佳子とともに4Tと呼ばれたが、4人のなかでも表現の激しさと前衛性において
突出した存在と云う。
代表的な句

鞦韆(しゅうせん)は 漕ぐべし 愛は奪うべし            夏痩せて 嫌ひなものは 嫌ひなり                
この樹 登らば鬼女と なるべし 夕紅葉               ひるがほに 電流かよひ ゐはせぬか
薄紅葉 恋人ならば 烏帽子で来など。
晩年は、孤独と幽玄の度合いを深め、
老いながら つばきとなつて 踊りけり               墜ちてゆく 燃ゆる 冬日を 股挟みー句も残している。

商店通りに老木                               三橋鷹女の像
    

成田新勝寺の参道にある「長命泉」

県の酒蔵の歴史は江戸時代からとされており、この地域は、利根川などの水運に近い野で銘酒が多く、長い歴史をもつ酒蔵が数多く存在。
中でも、成田山に深い係わりを持つ長命延命霊力の酒「長命泉」の滝沢本店は、参道沿いにある。

成田市の手前に、酒々井町。
滝沢本店の長命泉と甲子正宗の飯沼本家のほか、水運で栄えた佐原の酒「東薫」の東薫酒造、糀善の馬場本店酒造が知られている。

                   滝沢本店「長命泉」蔵元
  

長命・延命霊力の酒,「長命泉」や、甘党の米屋總本店がある。
また、敷地内 には、成田羊羹資料館があり、羊羹の歴史に関する資料など展示。

成田は、利根川や印旛沼などの自然に恵まれ、漁業が発達、そこで獲れる魚介類を使った料理や加工品も、数多く生み出されてきた。
中でも栄養価の高いうなぎ料理は、この地域の食文化として広く定着し、全国でも珍しい「うなぎ」の街とも云える。
「成田うなぎ祭り」は、今年6回目を迎え、、毎年土用の丑の日を中心に、7月中旬から8月中旬にかけて開催される。

成田と云えば 鰻 店先でさばいている。         参道にいろいろなお店が並んでいる
    

「鰻丼とそばセット」¥1400・今日の昼食。
             少々カロリーオバー


「成田山 新勝寺」
真言宗智山派大本山・939年「平将門の乱」の際し、東国鎮護の霊場として「朱雀天皇」が創建した。
1688~1704年元禄に江戸深川に、出開帳・歌舞伎の市川団十郎(成田屋)が演じる不動明王によって、江戸庶民の参詣が急増したと云う。
現在でも年間1千万人以上が参詣すると云う。
                        総門・(伽藍)


「朱雀天皇」在位期間・930年-946年。先代ー醍醐天皇・次代ー村上天皇。誕生ー923年・崩御ー952年。陵所ー醍醐陵
父親ー醍醐天皇・母親ー藤原穏子。皇居ー大内裏。

「平将門」~940 武将、東国桓武平氏の一人。武蔵国官人・土豪の争い国司追放し、一族の平貞盛らに討たれる。首は京都に送られたが江戸城大手門
飛んできて(大手町)に落ちた。首塚がある。

総面積約5万5000m2、本堂裏に成田山公園がある。

大提灯                手水舎                    中楼門・光輪閣 仁王門
    

939年,朱雀天皇の密勅により寛朝大僧正を東国へ遣わしたことに起源を持つと云う。
寛朝は京の高雄山(神護寺)護摩堂の空海作の不動明王像を奉じて東国へ下り、翌940年、海路にて上総国尾垂浜に上陸。
平将門を調伏するため、下総国公津ヶ原で不動護摩の儀式を行い、新勝寺はこの天慶3年を開山の年としている。
乱平定の後の1566年頃と考えられるが未詳)に成田村一七軒党代表の名主が不動明王像を背負って遷座されて伽藍を建立された場所が、現在の成田市並木町にある「不動塚」周辺と伝えられ成田山発祥の地。
「また新たに勝つ」という語句に因み新勝寺と名づけられ、東国鎮護の寺院となった。
その後、新勝寺は戦国期の混乱の中で荒廃し、江戸時代までは寂れ寺となっていたとも云う。

                     仁王池の亀石
    

境内の石段


1858年本堂改築完成した時の様子を描いている。下総国成田山境内生写之図


明治維新以降、新勝寺はお札を通じて、戦時下の人々の精神的な助けとなったと云う。
「身代わり札」は「鉄砲玉から身を守る札」として日清戦争当時から軍人らに深く信仰され、満州事変から1945年の敗戦に至るまで、
「成田市史年表」から拾い出すだけでも、33年から41年までの間に、歩兵第57連隊の兵士や近衛兵たちが10回以上も参拝し武運長久を祈願、お札を身につけている。
18代住職荒木照定は1928年に新更会を設立、「成田町報」などを通じて、地域の民衆に対して、日本古来の伝統的思想の教化に積極的に努めた。
1938年には陸海軍に「新勝号」「成田山号」と名づけた戦闘機を献納、また真珠湾攻撃の翌日にはそれぞれに10万円を献納するなど、新勝寺は積極的に協力した記録が残る。
                        大本堂


三重の塔(重文)・ 正徳2年(1712)建立


一切経堂・(1722)建立 鐘楼は、1701年建立


江戸歌舞伎の第一人者、初代團十郎、舞台に暫や鳴神に代表される荒事を取り入れ、人気を博した。
しかし、跡継ぎに恵まれず、成田山の本堂・薬師堂で一心に子授けを祈願し、すると見事、待望の長男を授かったと云う。

不動さまの御利益りやくにむくいる父子で演じる「兵根元曽我」、中村座で親子共演した「兵根元曽我」は、お不動さまへの祈願が成就して長男を得たことに感謝をあらわした舞台であったと云う。
不動明王をテーマにした初めての歌舞伎で、舞台が大当たりしたことに感謝し、成田山に大神鏡を奉納した。
また、この共演を機に、市川家は、「成田屋」の屋号を使うようになったと云う。

     薬師堂                      釈迦堂
  

「出世稲荷」は、釈迦堂前の小高い丘の上に位置し、 総門を通り大本堂を正面に左手に進み、正面の長い階段を登ると、左手に出世稲荷が。
そのまま抜けると詣り道が、この道は、車道からも離れますので、静か、しばらく進むと、緑の木立が広がる。 成田山三学院が見えてきた。
成田山三学院とは、成田山の将来を担う法資(仏弟子)を育成する「発心院」、真言宗智山派並びに成田山の教師を育成する「勧学院」、成田山が招いた外国人留学生の勉学する施設「修智院」に。
中に入ることはできませんが外観は。

光明堂・額堂・多宝塔・仏塔など。  出世稲荷はこの奥に           新勝寺の前楼門
    

寺 大本堂の奥にある165,000㎡の広大な広さを誇る成田山公園の秋の紅葉を。
もみじまつりは、平成12年より始められ、15回目を迎ると云う。
旧齊藤家夏の別荘や渋澤榮一邸などを手がけた庭師、2代目松本幾次郎により昭和3年に完成、自然が織り成す四季を通じて変化に富んだ、日本庭園。
完成から80有余年を経て、立派に成長を遂げた公園内の樹木は見事である。
モミジ、クヌギ、ナラ、イチョウといった約250本の樹木の葉は、11月半ばから12月上旬に赤や黄色に色づく。

総武本線の旅は終了します。

佐原 i伊能忠敬 総武本線の旅10

2016-05-01 | 気まま旅
「千葉新産業三角構想と道路構想」首都圏南部にあり、都市化が進んだとはいえ千葉県は、まだ緑多い大地が続き、農業・水産業の地位は高い。
農業では、ネギ・トマト・カブ・サトイモは、全国一の生産高。
西部は、都市化が進み、農業は後退・東部は、施設園芸で東京市場に、米作・果樹栽培・畜産と比較的均衝の農業生産地帯に、その一方人口は、
過密地域と過疎化地域が歴然としてきた。
県も、幕張新都心・成田国際空港都市・かずさアカデミアパークの三大構想を柱に「業務核都市づくりプロジェクト」首都圏・全国と結ぶ道路整備に
着手している。「千葉市~木更津・君津~成田」三角で今回は、千葉市ー成田ー佐原・香取ー茨城県鹿島へ。

「JR佐原駅」下車。
1898年明治31年 - 成田鉄道(初代)の駅として開業・旅客・貨物取扱い駅。大正9年 成田鉄道が買収され、国有鉄道の駅。昭和6年 佐原 - 笹川間延伸開業。昭和59年 貨物取り扱い廃止。昭和62年  国鉄分割民営化により、JR東日本に継承。平成19年「ちばディスティネーションキャンペーン」に併せて駅舎をリニューアルに。
平成21年 Suica導入に合わせて自動改札機導入。東京近郊区間に組み込まれる。平成23年  2代目駅舎一部供用開始し、 2代目駅舎竣工、完成。

                          佐原駅正面


「佐原市」は、県北東部で中心部が利根川に面し、利根川水運で栄えた商都、北部は、利根川水域の底湿な水田地帯が広がる。
南部が「下総台地」の堆積地「砂原」・香取神社の土器「浅原」から、佐原となったと云う。
古代は、町に香取海が入り組んでいたが、江戸幕府が1654年利根川流域・流路を「銚子」に変えられて「低湿地帯」となった。

小野川 田舟                      十一橋など観光の女船頭
    

中世は、「千葉氏」~一族の「国分氏」が小野川上流に城郭を構え、荘園開発が進んでいた。江戸時代に入り、「幕府領」「旗本領」で、利根川下流
の農地に十六島が出来江戸幕府の防衛上の新田として開発された。
東北地方の物資は、銚子~佐原と「牧」が開け~江戸に運ばれていた。小野川沿いに商家が軒を並べ、江戸との交流も盛んになり、松尾芭蕉・小林一茶
十返舎一九・渡辺崋山・山県大弐など多数の文人墨客が訪れている。
「お江戸見たけりゃ佐原へこざれ、佐原本町江戸まさり」と云われている。

「十二橋」十二橋駅北、加藤洲水路の架かる橋名、水路両側の人家を結ぶ一枚板[水戸光圀公考案」
水路田舟は、女船頭で、水郷の風情を、現在は橋は、11橋が残っていると云う。

                正文堂書店や乾物屋や東薫酒造や馬場酒造や商店が並ぶ
  

「伊能忠敬」 1745-1818 日本地図を作った商家の隠居で測量家。18歳で伊能家婿養子、酒造業・米穀で傾いたが建て直し、50歳で隠居。
天文学「高橋至時」の門下となり、測量術習得、17年間かけて全国の測量を行い、「大日本沿海與地全図」を編纂する。
56才で蝦夷地測量の旅に出ている。一歩65cmの歩測・72才で全土測量を終えている。
19才年下の師「高橋至時」の傍らに葬るように遺言している。

                        伊能忠敬画


「佐原」は、江戸時代から利根川水運の中継港として発展、商人の町として栄えた。
伊能忠敬記念館は、その、街中央の小野川に架かる忠敬橋、伊能忠敬旧宅・樋橋を挟み・記念館がある。船着き場にも近い。
所蔵数・2345点で国宝に指定されている。入館料¥500。

                   記念館・団体で混雑


1794年49歳で隠居・翌年50歳で江戸深川に住み、天文方「高橋至時」に入門。1800年56才東北・北海道第一次測量・関東・東海・第4次測量北陸後
1804年59才正式幕府登録される。翌年畿内・中国・九州、、1816年71才で第10次測量江戸を済ませ、1818年73才で江戸ハ丁堀亀島宅で没す。
浅草「源空寺」遺言通り、(高橋至時菩提寺)に埋葬される。

             伊能忠敬 50歳までの前半生など紹介
  

1800年、忠敬は、蝦夷地までの第一次測量出た、その動機は、測地学上命題であった「緯度一度の子午線長を実測で決めることにあった」と云う。
忠敬の得た緯度一度の長さは、現在の測量値と=1000分の1し笠が無いと云う。

                 測量に使われた道具なども
  

昼は、検(間)縄と歩測による距離測定と方位盤による方位測定を繰り返し、一日約10里を熟している。
夜は、象限儀で恒星の高度を観測して緯度を算出し、野帳を整理して地図の原図をつくると云う方法。  3700日を超えていると云う。

                   年代順に判りやすく展示されていた。      
  

全国海岸線と街道を測量し約43000KM以上。忠敬は、幕府から約半分の手当てがあったと云うが、不足不足で自ら資金を出し補足している。
忠敬死後三年目で「大日本沿岸與地全図」弟子たちの編集により完成され、幕府に上程され、新明治政府も活用されている。

                     伊能図の完成までが
  

伊能図には、大図214枚縮尺1・36000、中図8枚同1・216000、小図3枚同1・432000の他、測量ごとに作った地図や名勝地を数多く描いている。
それは、正確・芸術的な美しさを備えている。
19世紀まで世界は、我が日本の姿をどのように理解していたであろう、同時に日本人は自分の国をどう見て、理解していたのであろう。
73才で亡くなる忠敬は、測量終えてどう日本を見直したのであろうか?。

                川を挟み向かいに伊能家旧家が(工事中でした)


北総小江戸水郷の佐原         三菱館(旧三菱銀行佐原支店)大正3年県文化財、現在交流館に
    

「八坂神社」
香取市佐原本宿にある神社。佐原の大祭(祇園祭)で知られる。
古く佐原諏訪山近傍の天王台に創建。
江戸時代前期の天和年間(天正以前の説あり)に現在地へ遷座し、佐原・本宿地区の総鎮守に。
明治初年社殿改造の際に現在の八日市場側(千葉県道55号佐原山田線・通称香取街道側)にも増設された。
それ以来、この神社には、正門が2か所存在し、それぞれ浜宿口、八日市場口という呼び方がされ、正門は、1年置きに交代すると云う。

境内には水郷佐原山車会館がある。
                           八坂神社
    

「水郷佐原山車会館」
利根川舟運により河岸として発展し,江戸の祭礼文化の影響のもと、享保年間には山車と囃子を中心とする祭礼が行われるようになった。
飾り物については、当初それぞれの町内で趣向を凝らして製作していたが、近世末期に大人形の飾り物が出現し(関戸区)、江戸の人形職人に飾り物の製作を依頼するようになったと云う。
佐原の山車と囃子の形態は、市内の小見川地区、東庄町、多古町など、茨城県の潮来市潮来、牛堀、鹿嶋市、行方市麻生などに見られ、周辺地域の祭礼に大きな影響を与え佐原を中心とする山車文化圏を形成している。
平成16年、「佐原の山車行事」として重要無形民俗文化財に指定。

                           山車会館
    

関東三大山車祭りに数えられる佐原の大祭。
祭礼を華麗に彩るのは、夏祭りで曳き廻される本宿地区10台の山車と、秋祭りで曳き廻される新宿地区14台の重厚な山車。
会館には交替で2台の山車が展示され、高さ8メートルにも及ぶ総欅造りの山車を下からも上からもじっくりと見ることができる。

                          館内
    

幕末から明治に造られた名工の手による見事な彫り物や江戸から昭和初期にかけて活躍した名人形師が手がけた大人形など、現在では同様に造ることが困難な希少価値の高い山車飾りも展示。

           山車大人形    3階から見下ろせる
    

「佐原の大祭」/国指定重要無形民俗文化財・関東三大山車祭りの一つと称され、約300年の伝統を有する。

開催日・平成26年は、夏祭りが、7月11日(金)~13日(日)の3日間
           秋祭りが、10月10日(金)~12日(日)の3日間と云う。

                          見事な彫刻
      

次回は、成田へ。