syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

越谷・天嶽寺へ syu散歩  

2017-03-19 | syu散歩
埼玉県南東・東京から25km圏内の「越谷」。
台地の麓の低湿地に位置している所から越の谷の名が。東境の古利根川と南境の綾瀬川に囲まれ、中央に元荒川が蛇行して流れる水郷地帯。
中央に宮内庁埼玉「鴨場」がある。
江戸時代日光道の第三番の「越谷宿」伝統工芸に「だるま」の生産が盛んな地域。幕末は、レンコン・クワイ・ネギの生産が。
越谷も草加と同じ大ベットタウンで、昭和37年東武・地下鉄日比谷線乗り入れている。
又、県内唯一の「広域流通拠点・越谷流通団地」が出来ている。

                  東武東上線「北越谷」駅前


 越ヶ谷御殿は、徳川家康放鷹時の宿場所として、慶長9年の1604年、設営された。
この地は、越谷郷の土豪会田出羽の陣屋でしたが、家康の求めによりこの地を差し出している。
規模は、現御殿町一帯のおよそ6町余歩で、家康、秀忠はしばしば鷹狩りに越谷を訪れている。
1657年、江戸大火による江戸城焼失には、この越谷御殿が将軍の居城として、江戸城二の丸に移された。




                     
                     香取神社本殿


                     浄土宗  光明院


                      元荒川






「浄土宗・天嶽寺」
寺は、太田道灌の伯父と伝えられる専阿源照が文明10年の1478年、開山。
当時は、小田原北条氏の城砦に用いられ、北条氏により寺領の寄進を受けていた。



徳川家康から寺領15石の御朱印状を拝領、5ヶ寺の塔頭を擁していたという。

                    武蔵国三十三ヶ所霊場27番寺。




庚申塚と呼ばれた小高い丘があり
ここには、1673年、の文字庚申塔や1695年の青面金剛彫像庚申塔など、数多くの庚申塔が建てられている。
参道にそった庚申塚の下にも「かハしも二郷半、川かみかすかべ」などと道しるべが付された大供養塔や猿田彦大神塔などが並んでいる。
このほか境内には方言学の祖といわれる越ヶ谷吾山の句碑などが建てられている。

天嶽寺の本尊は阿弥陀如来であるが、釈迦仙の涅槃像(寝仏)も安置されている。これは珍しい金仏として越谷市指定の文化財。埼玉県掲示より




草加市松原 syu散歩  

2017-03-17 | syu散歩

「東洋最大規模と云われた草加松原マンモス団地」
団地は、A地区〜D地区に区分・西側は国道4号に面し、東側は、東武伊勢崎線松原団地駅に隣接している。
第1期の入居募集は、1962年12月15日~1963年2月末にかけて実施ー780戸の募集に対して、10,725件の応募が集まった。
全住居5,926戸の内訳は、1DKが1,376戸、2DKが2,208戸、3K及び3DKが1,680戸、テラスハウスが659戸。
入居開始時の家賃は8,000円~16,000円に設定され、家族収入が家賃の5.5倍以上であることが入居条件とされていた。
(参考までに厚生労働省による1962年時の大卒初任給は17,800円である)。
会社役員や官僚なども居住したため、朝の通勤時間帯には迎えのハイヤーが列を作る光景も見られ、各地区には商店街も存在するが、居住者の高齢化や生活スタイルの変化により、近年は閉店する店も多いと云う。
団地内敷地は水田地帯を開発した低地帯で1970年代以降、台風や大雨によって伝右川の水位が増すと、しばしば冠水被害をうけていたが、
昭和59年、神明排水機場、昭和60年、伝右川排水機場の稼働以降、冠水被害は激減したと云う。
東京外環自動車道の建設に併せて、1996年の平成8年、綾瀬川放水路が整備されて以後、大きな冠水は起きていない。
草加松原団地は、都市再生機構による建て替え事業の対象となっている。
UR、草加市、獨協大学、民間事業者との連携のもとで良好な都市型住宅地として調和のとれた市街地形成を図り、快適でゆとりある都市空間を創出。

              UR賃貸住宅については「コンフォール松原」と名を改めている。


              松原は、草加市の中北部 百代橋


「草加松原」
奥の細道にも登場する「草加宿」は、北側に位置する。

               幹回り2mの老樹と江戸時代の雰囲気を伝える。


                       草加松原ー約1.5km,千本松原とも呼ぶ


                     綾瀬川と松並木(旧日光街道)下に~・下に~                     

                     
                     松尾芭蕉文学碑


                       谷古宇橋                    




                       国指定名勝


                      日本の道百選に


                      利根川百景の碑も


「おせん公園」-草加せんべいは、おせんさんと云う女性がある侍助言から、売れ残った団子を潰し焼いたところ、それが評判になり名物に

                草加せんべいの製造・販売店は、約60軒に


「綾瀬川」
戦国時代の頃は利根川と荒川の本流であった。当時の利根川・荒川は、今の綾瀬川源流の近く、桶川市と久喜市の境まで元荒川の流路をたどり、そこから今の綾瀬川の流路に入った[3]。今の元荒川下流は、当時星川のものであった。戦国時代にこの間を西から東につなぐ水路が開削されて本流が東に流れるようになり、江戸時代に備前堤が築かれて綾瀬川が分離した。この経緯により、一部の地図には綾瀬川(旧荒川)の括弧書きが行われる事がある。

綾瀬川の川筋は、武蔵国内の足立郡と埼玉郡の境界とされていた。

江戸時代初めまで、綾瀬川中下流は低湿地で通行が困難であった。また大雨が降るたびに川筋が変わり、一定しないことから「あやし川」と呼ばれ、後に「綾瀬川」と変わっていったと伝えられる。まず伊奈忠次らによって堤が整備され、伊奈忠治らによって流量を調整するために武蔵国足立郡内匠新田(現・足立区南花畑の内匠橋付近)-葛飾郡小菅間に平行して新綾瀬川が開削された(現在の綾瀬川はこの新しい流路を指す)。

当時の日光街道(奥州街道)は、江戸付近の千住宿から、いったん東に回って松戸宿を経由し、西に戻って越ヶ谷宿に出てから北に向かっていた。寛永7年(1630年)に草加宿の設置が決まり、おそらくこれにあわせて天和3年(1683年)に綾瀬川の直線化の工事が行なわれた。これ以後、日光街道は一部綾瀬川沿いを通るようになった。


                        ハーブ橋

日光街道 草加宿 syu散歩

2017-03-14 | syu散歩
埼玉県南東端の草加市は、現在住宅都市。
俳人松尾芭蕉の「奥の細道」紀行の第1宿の「草加宿」・日光街道では千住宿~第二の草加宿になる。
昭和30年に、草加町・谷塚町・新田村(子供の頃、母と買出しに来ている)が合併し「草加町」が成立、宿場と市場として栄えた。
中川流域の沖積低地の穀倉地帯であったと云う。古くから長板中型浴衣染め・江戸時代から伝統産業の草加せんべいは知られている。
1960年頃から「草加八潮工業団地」の造成で本格化した。住宅でも「草加松原団地」の造成で1963年には、地下鉄日比谷線・私鉄東武鉄道と乗り入れ
大住宅地の開発が急ピッチで進められた。



「千住宿ー草加宿・日光街道2番目の宿場」
1606年、大川図書(ずしょ)が先頭に立ち、現在の旧街道筋にあたる低湿地を土、柳の木、葦などの草で埋め固め、千住-越ヶ谷間をほぼ一直線に結ぶ
新往還道を築き上げた。
この新道の工事の完成に当時の将軍「徳川秀忠」は喜び、
           「草を以て沼をうづめ、往還の心安すきこと、これひとえに草の大功なり。このところ草加といふべし」
「草加」という地名の由来とする言い伝えがある。
地名学会では、この地が綾瀬川右岸の砂地に発達した土地であり、砂地を意味する「ソガ」が草加となったという説をあげている。「要出典」

開宿当初、家数は84軒、宿延長は685間、伝馬人足25人、駅馬25頭と小規模。徐々に人口が増え、1713年、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられると五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心としても繁栄したと云う。、
日光参詣などで、交通量の増加から、千住宿から越谷宿の中間に宿駅設置の願いが出され、草加は、新道沿いには集落がいくつか成立していたが、宿場を編成する大きな村はなかった。
人馬継立てが間に合わなくなると、幕府は、複数の村が宿場を編成することを許可したことから、千住から越ヶ谷間の「間の宿」として、9か村組合宿による草加宿が誕生。
寛永7年の1630年、幕府の伝馬制度の公認により日光街道で二の宿駅。



草加宿の盛衰は、宿の開宿当時、戸数は84戸、長さ685間、伝馬人足25人、駅馬25頭であり、旅籠屋も5軒から6軒、店舗は豆腐屋、塩・油屋、湯屋、
髪結床、団子屋、餅屋が各1軒ずつ軒を並べたもので、あとは農家。
徐々に人口が増え、元禄期には戸数120軒になった。 1713年、草加宿総鎮守として市神(神明宮)が建てられ、五・十の六斎市が開かれるようになり、近郷商圏の中心として繁栄するようになった。
この頃、大半が店子と地借層で、他に屋守、分地、脇屋敷と都合5000人前後で構成され、享保年間の1716年-1736年、に発展し、
1728年には、伝馬人足50人、駅馬50頭となったという。



元禄2年の1689年3月、江戸深川を船出して千住に。
そこで見送りに来た人達に別れを告げ、荒川を渡り日光街道・第二の宿駅「草加宿」にたどり着きます。

「もし生きて帰らばと、定めなき頼みの末をかけ、その日やうやう早(草)加といふ宿にたどり着きにけり」


中川は埼玉県羽生市を上流端とし、大落古利根川、新方川、元荒川、大場川など多くの河川をあつめて南下し、東京都葛飾区高砂で新中川を分派します。さらに、中川七曲りと呼ばれる蛇行区間を経て綾瀬川と合流し、上平井で荒川と平行して流れ、江戸川区で東京湾に注ぐ流路延長約81km、流域面積約811km2の一級河川です。
 綾瀬川は埼玉県桶川市を上流端とする流路延長約47km、流域面積約176km2の一級河川です。草加市で古綾瀬川、都県境の花畑地先で伝右川と毛長川を合わせ、葛飾区上平井で中川に合流しています。
 中川・綾瀬川の流域は、流域一帯の勾配が非常にゆるやかな低平地河川という特徴をもっているため、しばしば洪水に見舞われてきました。さらにその後、急速に首都圏のベッドタウンとしての開発が進んだことにより、その重要性が高まっています



「中川」- 利根川水系
「綾瀬川」
幹川流路延長 中川 81km・綾瀬川 48km・流域面積 987km2・流域内人口 330万人・流域関係都県 埼玉県、東京都
                       札場河岸公園ー望楼


"利根川の東遷事業により洪水の危険が軽減された後の中川・綾瀬川流域の低地帯は地形を生かした灌漑排水網が整備され新田開発が行われました。中川沿いの集落の多くは、中川沿いに集中しており、自然堤防を利用することで少しでも洪水の危険性から逃れつつ、舟運を利用し、集落を形成していました。この地域は河川との深い関わりの中で人々の暮らしが営まれてきたことから、現在も「水」や「川」に因む地名が多く見られます。"
 中川は、埼玉県羽生市を上流とし、大落古利根川、元荒川、大場川などの多くの支川を集めて南下し、東京都葛飾区の蛇行区間をへて、綾瀬川と合流、上平井で荒川と平行して流れ、江戸川区で東京湾に注ぐ、流路延長84km、流域面積約1,00km2の一級河川です。
中川の支川が、古利根川、元荒川というところからもわかるように、中川は、江戸時代初期まで利根川や荒川の本流でした。その後、江戸時代初期に行われた、利根川の東遷などの事業によって本流は移動、流量が減った旧流路はおもに用・排水路として使われるようになりました。特に支川の大落古利根川は、葛西用水の一部です。葛西用水は、現在の埼玉県羽生市本川俣から利根川の水を取水し、途中古利根川、逆川をへて、末端は東京都足立区までつづく全長約40km(主流路長)の用排水路です。1600年初頭、利根川東遷以降主に関東代官伊那氏一族によって開かれたと伝えられ、現在でもなお中川左岸一帯を灌漑しています。
 この葛西用水および1700年代中期に開かれた見沼代用水等の用排水水路の開発によって、新田の開発が可能となり、流域は河川が蛇行を繰り返す低湿地から、「江戸の米倉」に変化し、100万人都市・江戸の生活を支えました


                    綾瀬川 河岸場

                煉瓦積み二連アーチの甚左衛門堰と碑



                    札場河岸常夜灯

                    現在の防水堰

                  正岡子規句碑などが

懐かしの浅草 syu散歩

2017-03-12 | syu散歩
「明暦の大火(丸山火事、振袖火事)」-明暦三年(1657)1月18日の午後2時頃に本郷丸山付近から出火ー
2ヶ月以上雨が降っておらず加えて北西の強風にあおられて駿河台、日本橋、霊岸島から佃島・石川島まで延焼。
京橋から浅草橋へ延焼し隅田川を越えて深川、牛島へも飛び火し翌日の朝にいったん鎮火。
しかし午前10時頃に伝通院近くから再び出火、飯田橋から竹橋に広がり、正午過ぎに江戸城本丸に燃え移って天守閣が焼け落ち、4代将軍家綱は西の丸に避難。 夕刻に風が西風に変わり京橋、新橋方面へ延焼。
同じく夕刻に鵬町(現:麹町付近)からも出火、江戸城南側に延焼し芝増上寺の半分を焼いて海岸に至り、20日の朝にようやく鎮火した。
江戸市街の6割を焼失する大火で、むさしあぶみなどによれば死者は10万人を越えるとされ、翌々日には吹雪によって被災者に凍死者もでたとされ、
1659年には江戸城本丸が再建されていますが、天守閣は意味がないとして再建されず、越谷にあった鷹狩りや視察用の御殿を解体して再建に流用していると云う。

江戸時代の避難地は、広いお寺(浅草寺など)と大川(隅田川)へ集中し、燃えやすい家財用品が山となって燃え被害を大きくしていると云う。

                     浅草三社祭の神輿


                      浅草6区付近


                     浅草寺参道


               子供の頃良く遊んだ花やしき通り(瓢箪池があった)


                 浅草公会堂等がある・伝法院商店街通り


                   浅草寺参道・仲見世通り


「吾妻橋」
創架は、1774年の安永3年。
「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。
江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年、に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成。長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。1786年、洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後幾度かの架け替えが。橋名ははじめ「大川橋」と呼ばれた。
江戸の東にあるために町民たちには「東橋」と呼ばれており、後に慶賀名として「吾妻」とされた説と、東岸方面の向島にある「吾嬬神社」へと通ずる道であったことから転じて「吾妻」となった説がある。
1876年の明治9年、木橋として最後の架け替えが行われた際に正式に現在の橋名である「吾妻橋」と命名。

最後の木橋は、明治18年、大洪水で初めて流出した「千住大橋」の橋桁が上流から流されてきて橋脚に衝突・一緒に流失してしまう。
明治20年、隅田川最初の鉄橋として再架橋された。鋼製プラットトラス橋で、人道橋、鉄道(東京市電)橋、車道橋の3本が平行して架けられていた。
大正12年、大正関東地震(関東大震災)によって木製だった橋板が焼け落ちてしまい、一時的な補修の後、
昭和6年、現在の橋に架け替えられた。



                          水上バス発着所が


昭和20年3月10日
「東京大空襲」は、太平洋戦争空襲史上最大の空襲となった。空襲の状況について「東京都戦災誌」は、次のように記述している。

3月9日 22時30分警戒警報発令、10日 0時15分空襲警報発令、それから約2時間半に亘って空襲が行われた。来襲機はB29、150機と数えられ、単機あるいは数機づつに分散して低空から波状絨毯爆撃を行ったため、多数の火災が発生して、烈風により合流火災となり東京の約4割を焼き甚大な被害を生じ
「都政十年史」では、「隅田川をはさんだ下町一帯は全く火の海と化し、最後まで防火にあたろうとした人々は煙にまかれて逃げ道を失い、白鬚橋から吾妻橋にかけて道路といわず川のふちといわず、焼死者の屍がるいるいと横たわるという惨状を現出した」のである。
この大空襲では、軍事目標だけではなく、非戦闘員を対象とした無差別焼夷弾爆撃が行われたこと、さらに当日は東京下町には強い北風が吹き、被害を大きくしたともいわれる。
この空襲による焼失面積は、本所区の96%、向島区の57%が焼失した。本所区と向島区を合わせた現・墨田区の約70%以上が焼失したことになる。

水を求めて川に飛び込み多数の死者が(供養塔がある。)


 春のうららの隅田川・・・・
                      吾妻橋~言問橋~「桜並木の隅田公園」


                       綺麗に舗装された公園

                    

                    
                   東武伊勢崎線始発駅と松屋デパート


                            浅草花川戸付近


「浅草寺」
浅草の漁師、檜前浜成、同竹成の兄弟、江戸浦(隅田川)に漁撈中、網に一躰の仏像を感得し、これを「聖観世音菩薩」と見分した郷司土師中知は、自ら出家して私宅を寺となし、観音像を奉安供養す。浅草寺の開創である。また、 別伝として十人の草刈り童子がアカザで草堂を造るとある。
645年 大化1年、 勝海上人浅草寺に留錫して本堂を修造。
本尊の夢告により、以来永代秘仏と定めて厨子に納む。857年、円仁(慈覚大師)浅草寺に留錫し、聖観音像を刻し、世に御前立の本尊と称し、御影板木も刻す。 942年、 安房守平公雅堂塔伽藍を再建して、田園数百町を寄進す。1041年、浅草寺本堂大震災により倒壊。
1051年、 寂円上人の尽力により本堂再建成る。1070年、 八幡太郎義家奥州征討の途次、浅草寺に詣で戦勝を祈り榧(かや)の樹を植える。
1079年、浅草寺炎上。 その後、万人を勧進して再建する。

1155年頃・「源義朝」浅草寺に参詣あり、承暦の火災時本尊のご避難されし古榎材をもって聖観音像(現存)を彫らしめて奉安するとある。
1180年、 源頼朝平家追討の戦勝を浅草寺に祈願。
1285年、武州金沢称名寺第2世剣阿上人浅草寺に詣で、七律の詩文を頌す(金沢文庫に現存)・・・・。







寛永寺坂から浅草へ syu散歩

2017-03-10 | syu散歩
国立博物館は、我が国随一の博物館、ここは、寛永寺本坊があった。
現在の寛永寺寺院の両大師・輪王寺が建っていたがー1989年に全焼し、今は、本坊表門ー輪王寺門跡のみが残った。
第一霊園に徳川家の墓地(博物館とJR線の間)・第二・第三霊園(桜木町)も徳川家墓地に。
創建当初の寛永寺は徳川家の祈祷寺ではあったが、菩提寺という位置づけではなかった。
徳川家の菩提寺は2代将軍秀忠の眠る、芝の増上寺(浄土宗寺院)だった。
しかし、3代将軍家光は天海に大いに帰依し、自分の葬儀は寛永寺に行わせ、遺骸は家康の廟がある日光へ移すようにと遺言した。
その後、4代家綱、5代綱吉の廟は上野に営まれ、寛永寺は増上寺とともに徳川家の菩提寺となった。
当然、増上寺側からは反発があったが、6代将軍家宣の廟が増上寺に造営されて以降、歴代将軍の墓所は寛永寺と増上寺に交替で造営することが慣例となり、幕末まで続いた。
また、吉宗以降は幕府財政倹約のため、寛永寺の門の数が削減されている。









正面「谷中墓地」桜並木の奥に「慶喜の墓」がある。

「徳川 慶喜」-江戸幕府第15代征夷大将軍ー在職は、慶応2年の1866年~ 慶応3年の1867年、12月9日。
江戸幕府最後の将軍。御三卿一橋徳川家の第9代当主時に将軍後見職・禁裏御守衛総督など要職を務めた。
徳川宗家を相続した約4ヶ月後に第15代将軍に就任。
大政奉還や新政府軍への江戸開城を行い、明治維新後に従一位勲一等公爵、貴族院議員。



「すりの親分・仕立屋銀次」
仕立屋銀次は、もと日本橋旅篭町の仕立屋へ奉公に、「大丸呉服店」の下請けで大変繁昌の店であったと云う。
銀次は、腕が良いので、やがて無事に年期を勤め上げ、21才で御徒町に自分の店を持ちました。
ところが、銀次は、この時分から遊びを覚え、賭場に通うようになり、偶々仲間の一人にスリが居て、手口を教えられると遊ぶ金欲しさについ自分もやってみたくなり、もともと、指先仕事の仕立屋でありましたから、たちまちその方の腕を上げて仲間の評判に、
「根岸の親分」で通っていたスリの大親分は「清水熊太郎」という姫路藩士の嫡男が、この男の妾腹の娘「清水くに」と銀次は良い仲となって世帯を持ちました。
時に銀次28才、くに20才・初め入谷に住んでおりましたが、根岸の親分の死後はその跡目を継いで全国のスリの仲間に「仕立屋銀次」の名で知れ渡った。 当時、銀次は入谷の寄せ場に常時100人の子分を置き、自分はくにと共に日暮里村字金杉に引込んで親分稼業をつとめ、銀次は、家作の収入が月百数十円あり、資産5万円とスリ日本一との風評がありました。
時に明治42年、新潟県の柏田という知事が東京市電の中で「伊藤博文」に贈られた金時計をスラれるという事件が起きました。
そこで懇意の赤坂警察の本堂署長に「是非取り戻してもらいたい。」と申し出ました。
明治末のこの当時は、東京市内でのスリは1,500人といわれておりましたが、本堂署長は市内の二大親分「仕立屋銀次」と「湯島の吉」に出頭を求め、被害品の提出を命じました。
銀次は、たかが一署長の呼び出しに応じられるものかと出頭いたしません。
本堂署長は外勤巡査2個小隊を上野西郷銅像前に招集し、印半天で変装させ、二手に分かれて金杉の銀次宅を包囲し、本堂署長が先頭に立って踏み込みました。
この事件で銀次は四谷の監獄に収監され、懲役10年の刑を受けました。
銀次の捕縛されたこの年明治42年、伊藤博文はハルピン駅頭でピストルを持った朝鮮人に暗殺。



                      寛永寺坂陸橋から


「寛永寺坂」ー大正5年~10年の間
1883年の明治16年、 日本鉄道の上野-熊谷間が開通した時、田端村から上野までの間で、台地の上から東側に下りる主な坂道は11本。
上野駅の真横にあった車坂以外は、すべて、 踏切となっていた。
北からー不動坂、 間之坂、 地蔵坂(諏訪坂)、 名称不明の坂、 御殿坂(→上御隠殿坂、紅葉坂)、 芋坂、 御隠殿坂、新坂(明治12~19年頃から)、 信濃坂、 屏風坂(→両大師橋)、 車坂で、 寛永寺橋は 御隠殿坂と新坂の間であるが、はじめはまったく道が無く、後から作られた坂道。
それは次の「新坂」も同じで、江戸時代の付近一帯は寛永寺領であり、台地の上から下に下りて行く必要性が無かったためである。
別邸の御隠殿ができてから 「御隠殿坂」が作られた。

             坂の傾斜が急で人力車は、上り下り下車したと云う。


「御殿坂」
「輪王寺宮一品法親王」は、天台座主に就き、東叡山・日光山・比叡山の各山主を兼帯したので「三山官領宮」とも呼ばれ、第三世から幕末の第15世まで、親王あるいは天皇の猶子(養子)を迎え継承され、上根岸に輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった。
御隠殿の創建年代は明らかでないが、幕府編纂の絵図「御符内沿革図書」には、宝暦三年(1753)、「百姓地四反一畝」を買上げ、「御隠殿前芝地」としたという記述があり、同年までには建造されていたと云う。
敷地はおよそ三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に包まれた池をもつ優雅な庭園で、ことにここから眺める月は美しかったと言われている。
輪王寺宮は一年の内九ヶ月は上野に常在していたので、その時は寛永寺本坊(現、東京国立博物館構内)で公務に就き、この御隠殿は休息の場として利用
谷中七丁目と上野桜木二丁目の境からJRの跨線橋へ至る御隠殿坂は、輪王寺宮が寛永寺と御隠殿を往復するために設けられたという。
慶応四年の1868年、御隠殿は彰義隊の戦いによって焼失し、現在ではまったくその跡を留めていない。

                          入谷へ


                       日蓮宗 眞減寺


                      言問通り・昭和通り交差付近


                   江戸時代の朝顔市の入谷美人


                   下谷七福神ー眞減寺(福禄寿)


                    地下鉄日比谷線「入谷」駅が


                 昭和通り(向は、上野方面)渋滞中


                       清州橋通り


「入谷公園と吉展ちゃん誘拐殺人事件」
日本で初めて報道協定が結ばれた事件。
被害者やその家族に対しての被害拡大防止およびプライバシー保護の観点から、誘拐事件の際には報道協定を結ぶ慣例が生まれ、報道協定解除後の公開捜査において、テレビを本格的に取り入れ、テレビやラジオで犯人からの電話の音声を公開し情報提供を求めるなど、メディアを用いて国民的関心を集めた初めての事件でもあったと云う。
犯人が身代金奪取に成功したこと、迷宮入り寸前になっていたこと、事件解明まで2年3ヶ月を要したこと、犯人の声をメディアに公開したことによって国民的関心事になったため、当時は「戦後最大の誘拐事件」といわれた。

                      左手に入谷公園


吉展ちゃん事件は、 1963年3月31日、台東区入谷町の村越吉展ちゃん(4 つ)が自宅前の公園に遊びに行ったまま ...
入谷町の村越吉展ちゃん(4つ)は、それまで 近所のSちゃんと家の2階で遊んでいたが、「公園に行く」と行って家の前にある入谷南 公園へ。



                  入谷公園(戦前からある)


                 台所用品の問屋が並ぶ、合羽橋商店街


                     外人が多い合羽橋


               浅草ビューホテル(ここに、浅草国際劇場があった)


                           国際通り