syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

富士の山荘 ようやく春が来た

2018-04-14 | 富士山麓日記
富士の山荘にもようやく春が来ました。標高1000mのこの地では東京よりも約1か月遅れで春が来ます。

高速バスで新宿から1時間40分富士急ハイランドの乗り物が見えてきました。
この頃はバスの中も聞き取れない言葉がいっぱい。外国の旅行者がほとんどです。富士山を見ると歓声を上げています。

まだまだ雪がきれいな富士山です。



富士桜、ミツバツツジがほころび始めたところです。来週あたり見頃でしょうか?



山荘の庭です。フキノトウがもう花開いています。

こぶしが一つ二つ咲き始めました。ピンクがきれい!

かいどう

ルバーブも芽を出しました。

ヒマラヤ雪ノ下

若宮大路 鶴岡八幡宮

2018-04-13 | syu散歩
「鎌倉時代」の成立は、源頼朝が文治・1185年の守護・地頭設置した時か・1192年の征夷大将軍奈か見解が分かれている。
鎌倉幕府は、侍所・公文所(政所)・問注所があり、長官に「和田義盛・大江広元・三善康信・・が就任したが頼朝の独裁政治であった。
源頼家が将軍時は、独裁を廃して13人御家人の代表らにより「合議制」に改めている。
だんだん北条氏の実権を握り出す。頼朝の妻「北条政子」の父北条時政は、頼家を廃してその弟「実朝」を将軍に据えた。
時政は、じぶんを政所別当として「執権」と称し、政子を将軍の御家人として「尼将軍」と呼ばれていた。
やがて政子の弟「北条義時」は、父時政を追放し、執権政治を確立する。
源実朝が、甥の「公暁」に鶴岡八幡宮境内の大銀杏に隠れ殺された。
文化面では、貴族文化に憧れ、「新古今和歌集・実朝も万葉調の歌を」武士の文化もおきている。「平家物語・・」
仏教でも、栄西・道元・法然・親鸞・日蓮・一遍らが現れ、又、迫害を受けている。

                        JR鎌倉駅


鶴岡八幡宮から社前から海岸に至る道を「若宮大路・参道」、1182年頼朝の命によりつくられた。
置き石・段葛もこの時に築かれ、二の鳥居・三の鳥居も残存。
鎌倉は、谷の多い街で、南西は海の面して、三方は丘陵に囲まれ、滑川が複雑に入り組んでいる。その谷を「ヤツ」と呼ぶ。
そのヤツは重要な交通網と強固な防御地「七切通し」の道である。
比企ガ谷・釈迦堂ガ谷・扇ガ谷・亀ガ谷・佐助ガ谷・名越ガ谷・二階堂ガ谷の七口。

                    若宮大路・鎌倉駅前交差点


                       二の鳥居前


                      小町通り入口鳥居


大路は、頼朝が政子の為につくらしたと云う。
若宮を中心に、西武蔵大路・東に小町大路・八幡宮前の横大路・海岸の車大路、その他にも二階堂大路、又大路を結ぶ「辻子」がある。
座は、馬を扱う博労座・木材を扱う材木座等が残っている。

                       若宮大路・桜名所碑


                         地図看板


「長慶山・大巧寺」   日蓮宗

「おんめさま」の名で親しまれる安産祈願の寺。
1532年、第5世のの日棟が、難産で死んだ秋山勘解由の妻の霊魂を鎮めるために、産女霊人として奉ったことによる。
以降、産女霊人は「おんめさま」と呼ばれ、安産の神として信仰されている。
元は、大行寺という真言宗の寺であった。日蓮上人に帰依していたため、日蓮宗に改宗したと云う。

                        安産・子育霊場


「大巧寺・大行寺と称する真言宗から日蓮宗の寺院」
当初は十二所の梶原景時の屋敷内にあったと云う。
創建年や開山などは不明、(源頼朝の祈願所とされた事から、鎌倉時代初期頃までには創建されていたと推測される)
頼朝が軍議を行った結果、大勝利を収めたため、頼朝の命により「大巧寺」という名称に改名している。
1274年、日澄により日蓮宗に改宗し、これに基づき現在では開山を日澄としている。

                  日蓮が辻説法していたのがこの付近と云う。      


鎌倉は、多くの社寺が造営されている。仏教の布教活動も活発であった。(神社41社・寺院83寺ある)
鎌倉五山ー建長寺・円覚寺・寿福寺・浄智寺・浄妙寺と名刹が残っている。(天台宗の布教活動はあまりなかったとも云う)



                        山門


                        本殿


                   若宮大路入口と第二の鳥居


                        狛犬


                      大路の左右は車道


鶴岡八幡宮・御祭神 応神天皇 比売神 神功皇后   源頼義公が「前九年の役」平定後1063年祈願成就のお礼として「由比郷の八幡大神」を
勧請したと云う。1180年源頼朝公は、源氏再興の旗をあげ、父祖ゆかりの「鎌倉」に入り、由比郷の八幡宮を現在地小林郷北山に移したとある。
大臣山中腹に社殿を造営し、その以降は、武家の守護神として徳川まで続き、社領・社殿修造等を行ってきた。
応神天皇は、実在の最初の天皇で、支配地を拡大させ、朝鮮半島との交流と大陸文化を積極的に取り入れた天皇で、八幡神とみなされている。


                       若宮参道~第三の大鳥居(近く近代美術館が)


「鎌倉国宝館」 昭和3年開設している。  国宝・重文など約3500点あると云う。



                     古都鎌倉 人力車、瓦屋根などが点在


                         牡丹庭園


                        開園中 有料


曽我兄弟仇の「工藤祐経」が鼓・「畠山重忠」が銅拍子を担当し静御前は舞を。

「静の舞」ー吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき  しづやしづ しづのをだまき くり返し昔を今に なすよしもがな
「吾妻鏡」は、「まことにこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし、上下みな興感を催す」と記されている。
参列した者のほとんどが「静の舞」に心を動かされたという。
頼朝は、静が義経を慕う歌をうたったことから激怒しますが、妻の「北条政子」は「私が御前だったとしてもあのように舞ったでしょう」と言ってとりなしたのだと伝えられている。
また、静は、頼朝が父義朝の菩提を弔うために創建した勝長寿院でも、頼朝の娘・大姫に舞を見せたといわれている。
鎌倉に来た静は、義経の子を身籠っていました。生まれてくる子が男子であったなら、その子の命を絶つことは決まっていました。
静の産んだ子は男子。
子は殺害され、その遺体は由比ヶ浜に捨てられたという。

「静の舞」は、毎年、4月第2日曜日(鎌倉祭初日)・15:00~ 鶴岡八幡宮、「舞殿」で披露される。


                          舞殿


                       天然記念物の槙


「公暁」 1200-19 源氏の正系を断絶させた二代将軍頼家の三男・鶴岡八幡宮寺の別当、公暁は、叔父「実朝」が父を殺したと考え、八幡宮参詣の帰り、この大銀杏に隠れ、自ら剣をとって「実朝」を刺殺した。(北条義時がそそのかし実朝を討たせ、さらに義村に公暁を討たしたなど云われるが確証はないと云う)

                      ここに大銀杏があった。


                      台風で倒れる前の大銀杏


                      鶴岡八幡宮の社殿


                      大銀杏の跡(二代目が)


                      朝の境内






中世から続く「鶴岡八幡宮例大祭、神幸祭」 神輿3基が若宮大路を進む。



古都保存法・歴史的風土特別保存地区指定・鎌倉市総合計画基本構想(市民憲章)など、環境破壊から守ることをうたっている。



文学は、源実朝の金槐和歌集・阿仏尼の十六夜日記・吉田兼好の徒然草・室町時代の太平記、義経紀・・・。
夏目漱石のこころ・川端康成の山の音・・・・・数多くの作家が取り上げている。





次回は、源頼朝の墓へ




























江戸時代の江の島詣で

2018-04-10 | syu散歩

江戸時代になると戦勝祈願では無く、家内安全・健康などを祈念するため、「大山・江の島詣」が始まる。
特に、琵琶を抱えた裸弁天に象徴される歌舞音曲を生業とするものの信仰をも集めるようになり、 平和が続き、庶民にも若干の経済的余裕が。
信仰半分、旅行半分の大山・江の島詣を行うのが流行した。
江戸時代の旅は、自分で歩くか路銀に余裕があれば馬や籠に乗るといった旅行、江戸から江の島に着くのも2日が。
江戸時代、観光のために旅をするという習慣は殆ど無く、旅には信仰という名目が付く事が多いと云う。
比較的手軽に行ける近場の信仰と観光の地として「江の島」は、大変な人気であったと云う。

「江の島、鎌倉3泊4日コース」
江戸を出て東海道を進み一日目は「程ヶ谷宿」で一泊。翌日「藤沢宿」から「江の島」に入り江島神社と岩屋を参詣した後、鎌倉に向かう。
鎌倉の手前で2泊目。
翌日は鎌倉の寺と鶴岡八幡宮を参詣した後、朝比奈の切り通しを抜けて「金沢」に向かい「六浦」の景観を楽しんだ後、「金沢八景の称名寺」
を参詣すると、江戸への帰路・その日は「川崎宿」に宿を取り、最後の日は「川崎大師」を参詣。
その、 逆のコースもある。
「大山、江の島、鎌倉5泊6日」
早朝、江戸を出発。大山街道(矢倉沢往還、現在の厚木街道)を三軒茶屋、ニ子、溝口と進み江田か長津田で一泊後、鶴間(現町田市)、下鶴間(現大和市)、厚木と歩き「伊勢原」で2泊目。3日目は大山に登り大山阿夫利~江の島~江戸へ。

         境川河口、川が運んだ土砂・片瀬海岸陸繋島(江の字)江ノ電駅舎


                  江戸時代浮世絵


                  江戸時代浮世絵


                  砂洲上に大橋が。


                    入口の鳥居


                   神社前の大鳥居


             参道 左右にお土産屋、飲食店、宿等が並んでいる。


                     エレベータで登る


「江島神社」-中津宮・ 市寸島比賣命。
中津宮は、もとの上之宮・文徳天皇仁壽三年の853年、に「慈覚大師」が創建。
1689年、に、「五代将軍・徳川綱吉」により、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造りの社殿が再建。
現在の社殿は、1996年、の全面的な改修によるもので、元禄2年当時の朱色が鮮明な社殿を再現していると云う。
平成23年、幣殿、拝殿の床板を張り替え、御札授与所も再建し、社殿脇には水琴窟が造られている。

                        社殿  参拝


                        茅の輪


                        辺津宮


                        弁財天六角堂


                        境内から


                       中津宮鳥居


                        御岩屋道




島内には、岩屋・中国、昆明広場・韓国、ポリヨン広場・海を見渡せるサンセットテラス・展望灯台・ヤシの木・ツカミヒイラギ・シマナンヨウスギ
椿など四季折々の花が見られ、「展望灯台ー七色の光のフアンタジー、ライトアップ」と夜景も素晴らしい。

東海道本線車窓から歴史を!

2018-04-09 | syu散歩
東海道本線は、鉄道の歴史でもある。

明治になり、1872年明治5年には「東京ー大阪」を結ぶ計画され、まず、東京ー横浜、(新橋ー桜木町)・東京ー高崎(現在の高崎線)
関西では、大阪ー神戸・京都ー神戸ー大津ー長浜の太湖汽船、琵琶湖の鉄道連絡船を開設。
明治17年、大垣ー関ケ原ー長浜間が開業、当初は、中山道経由であったが難工事で東海道経由に変更したと云う。
横浜ー国府津と浜松ー大府・武豊ー大府・・明治22年開業した(17年間の月日を得ている)。

新橋から神戸「600.2kmが結ばれた。

「JR東日本・東海道本線」
東京ー品川ー川崎ー横浜ー戸塚ー大船ー藤沢ー茅ヶ崎ー平塚ー大磯ー二宮ー国府津ー小田原ー早川ー根府川ー真鶴ー湯河原ー熱海。


                     東京ー下田(踊り子号)車内


                         横浜駅


「横浜駅」
明治5年、~品川駅からの鉄道路線が開通し、「横浜駅」が開業した。
日本で最初に開業された鉄道駅の一つ(品川駅)で、現在の桜木町駅に相当すると云う。
駅舎の設計は、アメリカ人建築家の「R・P・ブリジェンス」新橋停車場と同じデザイン。
明治20年、横浜駅(初代)~ 国府津駅間が開通。
新橋駅方面と国府津駅方面を直通する列車は初代横浜駅で進行方向を反転(スイッチバック)、明治31年、東海道本線のスイッチバック解消のために
初代横浜駅を経由しない短絡直通線が開通している。
横浜駅の代わりに上りは程ヶ谷駅、現在の保土ヶ谷駅、下りは神奈川駅停車とし、横浜駅 - 程ヶ谷駅間を連絡する小運転列車が設定された。
明治34年、短絡線上に横浜の人の利便を図って平沼駅(現在の横浜駅に程近い位置)を設置。
優等列車は神奈川駅と程ヶ谷駅に代わってこの平沼駅に停車していたと云う。
大正3年、京浜間での電車運転開始に伴い横浜側の仮終着駅として高島町駅が開業され、大正4年、東海道本線の横浜通過を避けるため、現在の地下鉄高島町駅付近に横浜駅(2代目)が開業・旅客駅となる。
大正12年の駅舎が関東大震災で焼失した。
昭和3年、東京横浜電鉄線(現在の東急東横線)が開通した。横浜駅には汽車線ホームのみが設置され、京浜線ホームは設置されていなかった。そのため、駅の東口に京浜線仮ホームを設置し、2代目横浜駅も当駅構内扱いの高島口乗降場として残されたと云う。
昭和5年、京浜線 横浜 - 桜木町間経路変更、横浜駅に京浜線ホームを設置。高島口乗降場は、閉鎖・その年に、 京浜電気鉄道線(現在の京急本線)が開通している。
昭和8年、神中鉄道線・現在の相鉄本線が開通。現在の西口は砂利置き場だった。昭和20年の5月、横浜大空襲により駅設備の大半が焼失している。



日清戦争後明治28年西に神戸から山陽鉄道と直結・新橋ー神戸が急行に、33年に寝台車・明治34年食堂車を連結。
大正に入り3年に、新橋から今の東京駅となる。東海道本線の起点駅に。
続いて、東京ー高崎「京浜東北線」運行。」

新逢坂トンネル・東山トンネル・大正14年は、丹那トンネル「難工事の末熱海ー沼津」が開通が遅れた。
列車も電化し東京から熱海が昭和3年に完成。昭和9年「丹那トンネル」開業し東京ー沼津ー神戸=8時間37分で結ばれた。

                        大船観音


関西方面も電化が進み昭和12年には、特急一日5往復となる。

                        都市化が


日中・太平洋戦争では、すべて貨物列車優先となり、空白、線路・車両も破壊される。



復興は、終戦の3年後、急行列車復活・昭和24年「日本国有鉄道」発足・特急「へいわ」が運行。
私は、中学の修学旅行で配給の外米を持って「京都」へ、名古屋駅で顔を洗った思い出が。

                   東海道新幹線と並行して


昭和31年東海道本線全線電化「つばめ・はと」が、東京―大阪=7時間30分・33年に寝台列車ブルートレインが運行された。

                      小田和駅へ


昭和34年工事着工・東海道新幹線が。



昭和62年国鉄分割民営化に「東海道本線は、3社に東日本・東海・貨物」



「酒匂川の渡し」
江戸時代には、小田原を流れる酒匂川には橋がなかった。
旅人は渡し場から川越し人足によって川を渡らなければ、雨が降り続き、水深が胸あたりになると、川留めに。

                        酒匂川




                    小田原駅と大雄線ホーム


                        早川


                      石橋山付近 相模湾


                        根府川


                      湯河原ー熱海間


昭和38年の鶴見事故 鶴見ー新子安間
滝坂不動踏切付近で発生ー死者161人・負傷者120人  (列車脱線事故)

                       伊豆山トンネル


                          熱海駅


「JR東海ー東海道本線」
小田原~熱海ー函南ー三島ー沼津ー吉原ー富士ー由比ー興津ー清水ー静岡ー島田ー掛川ー浜松ー豊橋ー刈谷ー熱田ー名古屋ー尾張ー岐阜
関ケ原ー近江長岡ー米原・・・・。

関東大震災と藤沢宿

2018-04-07 | syu散歩

「関東大震災と藤沢」
大正12年の1923年、9月1日午前11時58分 「関東大震災」発生。
藤沢市も、藤沢駅から遊行寺に通じる、通りはほとんど全半壊・藤沢の死傷者が少ないのは、昼時にもかかわらず火事が発生しなかったためという。

津波(9~10m)の被害は、江の島桟橋の通行人50人遊泳者7人・ 死者藤沢町104人、川口村41人、現・藤沢市域で160人。
藤沢駅から遊行寺に通じる、通りはほとんど全半壊したが、1年後には藤沢駅をはじめ遊行寺など主要な建物は、復興したと云う。
今も各地に残る慰霊碑や伝承画残る。
安政江戸地震・関東大震災は、相模湾沖地震。震源地は、神奈川県、震度7の震度地域は、今の鎌倉市から小田原市に至る相模湾岸を中心とした地域。
被害の大きかった横浜市や東京市などは、震度6程度と推測され、安政江戸地震は、江戸直下型地震と云う。
供養碑・記念碑には、「震災による被害や復興のための苦労と「乗り越えた」という感慨とともに、「永遠にこの事を後世に残すように」という一文が刻まれていると云う。砂山観音境内 供養塔・大庭神社 供養塔など。
砂山観音境内の石碑ー大正12年9月1日の関東大震災の犠牲者を供養・遊行六十五世尊光上人の書、裏には犠牲者の名が刻まれていると云う。
関東大地震後、東京から続々人が流入したと云う。

                 藤沢橋ー藤沢本町駅に向かって左に「堀内本陣跡」が


「伝・ 源 義経首洗い井戸」
鎌倉で首実検の後、浜に捨てられた義経の首は、

                 境川から里人が拾い、この井戸で清めたと伝わっている。


                       供養石が


                        説明板


                       その井戸跡


大久保町・坂戸町に「問屋場跡」が
                       蒔田本陣跡が


1555年、小田原北条は、大鋸町に伝馬を置いた。
1596年、徳川将軍は、藤沢御殿を築いた。1700年廃止された。

                       旧藤沢広小路


江の島弁財天道標が点在している。
                    江島神社の一の鳥居は、藤沢橋に


藤沢には、清浄光寺通称遊行寺・江島神社と一の鳥居・白旗神社・浮世絵や道中記・四谷は、大山道の分岐点(追分)・南湖茅ヶ崎、松並木
左富士山・・。
                      浮世絵にも、


                       旧東海道


                      模型 昔の高札場


江戸時代1843年宿村大概帳ー宿内人口4089人・総家数919軒・旅籠45軒・本陣1・脇本陣1から2。

                      江戸時代の藤沢宿


             国道  (箱根駅伝の一号線・大和市の467号線・・)


                           境川


流通の中心地藤沢、「米穀肥料商」が繁盛し、その資本を形成。

                      模型    宿場付近


                          鼻黒稲荷大明神


                          神殿


                     今でも、古い蔵・建物が点在


相模国の一の宮「寒川比古命・源義経公を祀る神社は、「白旗神社」・「伊勢山公園」は、小田急線・藤沢本町駅から。

                          旧道


藤沢は、国道1号線、保土谷・海岸134号線江の島から467号線・30号線・JR東海道線・私鉄小田急線が交わる地域にある。

                        JR藤沢駅と駅ビル


これで、藤沢は終わります。