syuの日記・気まま旅

気まま旅・syu散歩・富士山麓のこと、
気ままに記録しています。

特色の大月・猿橋と堅固な岩殿城

2019-10-17 | 季節だより

「山梨県大月市」 県東部 市名は、市中心地にある三島神社の大欅を「大槻」と呼んでいる。「槻は欅の古名」。
市中心地に桂川・笹子川が合流し川に沿っては発達した。また富士信仰の山麓入口で甲州街道の宿場・甲斐絹の集散地として栄えた。









「猿橋」旧甲州街道猿橋宿で桂川に架かる橋が「猿橋」
橋脚を用いず、谷の両側から三本のハネ木を4段に組み、せいだして架ける特色の橋。
高さ約31mある。



日本三奇橋の一つ「木曽の桟・岩国の錦帯橋」



                   今の橋は、1984年に




























「国定忠次」 1810-50 群馬県の赤城山に籠った凶状持ち、博徒、上野村国定村の富農の子、25歳で人を殺し、大前田英五郎の弟分に、後
100以上の子分を従え、10年以上赤城山に籠っている。
猿橋まで逃げていることに、最後は磔に







                    JR大月駅前ー私鉄富士急と連絡しいる。


「大月・岩殿山」 標高634m
806年開創の天台宗寺院「円通寺」が存在した山、ここに1530年甲斐国都留郡国衆「小山田氏の居城・岩殿城」があった。
連郭式山城で堅固な城で知られている。郭・堀切・虎口・井戸・土橋な出が残され、17世紀に廃。
16世紀ー武田信玄は、国衆小山田氏の支配を受ける谷村館(富士急都留文科大学の一つ手前の谷村町駅)の詰城が「岩殿城」と云うが、大月から
谷村駅は、4~5駅先になる。武田軍にとっては、相模「北条氏」との境目の城ー軍事的拠点で重要な位置である。
「信長公記1582年」
織田・徳川連合軍は、武田領土侵攻し、武田家臣「小山田信茂」は、新府城「韮崎市」から、武田勝頼一行を岩殿山城に迎えるが、入城を断っている、そのため勝頼一行は、天日山で自害した「天日山の戦い」ー小山田氏は、離反する。
京を目指した武田軍は、最期を迎える。
織田信長は、甲斐善光寺で小山田氏を処刑したとある。









次回は、富士急行で「谷村町駅」へ。

浅川 多摩川支流河川敷を歩く

2019-10-12 | 季節だより
「八王子」 都南西・多摩地区の中心、市名は、城山牛頭天王の8人の王子を祀った「八王子権現・八王子城」に由来する。
多摩川支流「浅川」に沿う八王子盆地の段丘上に市街地がある。近世初頭、幕府直轄領・関東十八代官と八王子千人同心「警備、農牧従事した郷土集団」が置かれた。甲州街道の宿場町として発展した。
米・野菜は不向きで絹織物の生産・流通が発展「八王子織物」
JR中央線ー甲州街道に縦に、高尾街道・秋川街道、横に陣馬街道・滝山街道と並行し、原町田をえて横浜へ向かう荷が横浜街道・町田街道・浜街道
片倉、町田田端を鎌倉古道ー絹の道「由木街道の一部は現存し、生糸商の屋敷跡・道了堂などが」
現在の八王子は、学園都市で都立大等がある。



 「浅川」 都八王子市および日野市を流れる一級河川。多摩川の支流のひとつ。








                        都立綾南公園に
















武蔵陵墓地には、多摩陵、多摩東陵、武蔵野陵、武蔵野東陵の4陵があり、多摩陵は大正天皇の御陵。その東隣の多摩東陵は、貞明皇后の御陵です。
平成2年の1990年、昭和天皇の御陵「武蔵野陵」、さらに平成13年、香淳皇后の御陵「武蔵野東陵」がそれぞれ造られた。
甲州街道からの参道には、ケヤキ並木が続く。







                   現在のJR八王子駅立体歩道橋が





相模湖 ダムによって出来た人造湖

2019-10-11 | 季節だより








相模ダムは多目的ダムとしては沖浦ダム(青森県・浅瀬石川。1991年水没)や向道ダム(山口県・錦川)と並ぶ河川総合開発事業草創期に建設されたダムである。
その目的としては直下流の津久井発電所地点において慣行水利権分の用水を供給する不特定利水、相模原台地一帯2,700haへのかんがい用水の供給、横浜市・相模原市・川崎市等神奈川県の大部分への上水道(日量894,000トン)・工業用水(日量186,000トン)の供給、神奈川県企業庁電気局管理の相模発電所(認可出力31,000kW)における水力発電で、補助多目的ダムである。ただし洪水調節機能は保持していない。

完成後渇水時の水量確保と発電能力増強を図るため1951年(昭和26年)よりダムを2.0mかさ上げを行う相模ダム再開発事業が行われ、1954年(昭和29年)に完成している。
これ以降も相模川総合開発事業は継続され、1966年(昭和41年)には洪水調節機能も有する城山ダム(津久井湖)が完成し、治水と利水に更なる貢献をした。
この他支流の道志川に建設された道志ダムや中津川に建設された宮ヶ瀬ダム(宮ヶ瀬湖・国土交通省関東地方整備局管理)との間で相模導水を行い、相互に貯水を融通することで効率的な水運用を行っている。

相模ダムは
完成後60年以上経過した現在においても、横浜市・相模原市・川崎市や京浜工業地帯の水源として、神奈川県を見えない所で支えている。
だが近年では堆砂の進行が懸念されており、湘南海岸の砂州後退の原因の一つであるとの指摘もある。
このためダムを管理する神奈川県企業庁は相模ダムに堆砂した土砂を定期的に浚渫し、相模川下流の河川敷に堆砂を積み洪水時に自然に相模湾へ流下させる対策を現在行っていると云う。



神奈川県藤野相模湖町 県の北西部・相模川中流部、

            県立相模湖公園 昭和39年東京オリンピックの「カヌー競技場」に


                    寸沢嵐石器時代遺跡が

































































高尾 カエルがムカエル大光寺と高乗禅寺

2019-10-10 | 季節だより
JR・私鉄京王線の「高尾駅」付近は、八王子市初沢町になるが、縄文・弥生時代の居住跡や土器など狭間町(現在学校)見つかっている程度。
平安末期から鎌倉時代初期には、街道が交差する交通の要衝。すでに、横山党の一族、椚田氏が支配していたと考えられいる。
鎌倉時代初期から室町時代、横山党が滅亡し、その後を、大江広元の一族で長井姓を名のる人が支配し、戦国時代1500年頃、この地域より南側を扇谷上杉氏、その配下に長井氏が、北側に山内上杉氏、配下に大石氏がいて、対立状態にあった。
その後、1510年頃より、後北条の支配下にはいり、「八王子城」 桃山時代、北条氏が滅び、徳川家康の支配下に入っている。
江戸時代は、幕府の直轄地となり続き、 明治時代に、明治4年から明治26年間、「神奈川県に属し」・「同年4月ー東京府に」。

「大光寺」京王線高尾駅南側に。
開基ー元和元年の1615年・高尾山薬王院第9世源恵上人
多摩八十八ヵ所霊場・
境内にはあちこちにかわいいカエルの石像が置いてありますが、これは開かれたお寺をと願うご住職の「参拝客をムカエル」想いの表現と云う。
「ムカエル」には、「無事にカエル」「幸せがカエル」「お金がカエル」などの意味も。

枝垂れ桜ー樹齢400年の枝垂れ桜は地元の名物。
毎年3月中旬過ぎに咲きはじめ、江戸彼岸桜、染井吉野と順次開花が続き、桜の競演となり、22時頃までのライトアップも。




















「子育地蔵」
大光寺の西方、京王線高架下の中央線の踏切角に「子育地蔵」がある。






「龍雲山髙乘寺」
1394年、片倉城主ー長井大膳太夫高乗公より寺社地を下付され、釈迦牟尼仏を本尊に臨済宗として開創された古刹。
曹洞宗の高僧・空海禅忠大和尚が諸国行脚中にこの地にとどまり、1457年、荒廃していた伽藍を復興し、群馬県富岡市の最興寺より
「通庵浩達大和尚」を迎え、曹洞宗に。

現在の本堂は、明治16年、上棟された。八王子三十三観音霊場の第十九番、武相観音霊場第十八番の札所として、
聖観音を中心に、三十三体の観音像が祀られている。























「初沢山コース」
高尾霊園~高乗寺~初沢城跡(初沢山頂)~高尾天神社(菅原道真公銅像)~高尾みころも霊堂~高尾駅~イーアス高尾~高尾駅

                       戦争中の防空壕が


「初沢城」ー別名、椚田城、高乗寺城・城郭構造、連郭式山城・天守構造、なし。
築城主ー椚田氏か・築城年、鎌倉時代初期か・主な改修者ー長井氏、山内上杉氏、主な城主ー椚田氏、長井氏、三田氏宗、北条氏
廃城年ー1590年・遺構は、土塁、堀・都指定史跡に。



































八王子城と小田原城と北条氏

2019-10-09 | 季節だより

「北条早雲・伊勢氏宗瑞」1432-1519 小田原城北条初代・通称新九郎・駿河国今川氏から興国寺城を・伊豆国奪い一国平定する。小田原大森氏の
小田原城を奪い相模国併合。農民への租税を四公六民の善政を、88才長生きを保った。
「北条氏綱」1486-1541 二代目、鎌倉執権「北条氏」改姓・扇谷上杉朝興を破り「武蔵国」制圧、鎌倉再興・古河公方晴氏に娘を嫁がせている。
小田原名産「外郎」、「勝って兜の緒を締めよ」の言葉は有名。
「北条氏康」1515-1571 北条家発展に導いた三代目ー武蔵国河越で勝利し、関東南半支配する。
北条綱成の「河越城」、天文14年扇谷上杉・山内上杉・古河公方連合軍兵八万に囲まれ、氏康何度も援軍を退却させ連合軍気を緩めている所へ夜襲し
連合軍を撃破ーそれが日本三大夜戦の一つ。上杉謙信は頼りにならない、再び武田と同盟をと遺言。
末娘は、武田勝頼室に。勝頼と共に自害している。
「北条氏政」1538-90 四代目 下総国府台で里見・太田連合軍を破っている。北関東まで勢力を伸ばす。豊臣秀吉上洛要請を断っている。
父氏康は、氏政と食事をした時に、氏政が飯に汁を二度かけるのを見て「汁加減もわからぬようでは、北条家も終わりだ」と落涙したとある。
武田信玄も、麦を知らない氏政に「麦はこき、こなし、ほし、つくして飯にするもので、即食べられないもの」世間知らずを笑ったと云う。
氏政の首は、京で晒されている。
「北条氏直」1562-91 北条家の幕引きの五代目、氏政の長男、本能寺の変後上野国にいた織田信長の重臣「滝川一益」を撃破し、信濃国小県・佐久
を占領する。徳川家康と争うが講和し娘「督姫」を娶る。名胡桃城攻撃し、豊臣秀吉の怒りを買い征伐され降伏した。
その後、高野山へ追放・秀吉とも謁見している。1万石で大阪に住んだと云う。30歳で没した。

「八王子城」 小田原北条氏三代目「氏康」の三男「北条氏照」が築いた山城。
天正15年の1587年までは、八王子市丹木町の滝山城で、その後に拠点を移している。豊臣連合軍は、関東制圧の一環で1590年6月、前田利家・上杉景勝軍に攻められ落城した。この八王子城落城で小田原城は、開城している。
氏照は、この時小田原に籠城中で、兄の氏政と共に城下で切腹した。
氏照るが構想していた城郭は壮大で、まだ落城時は、未完成であったと云う。