三の矢に希望はありや受難節 まほろば 最新作 即興
イエス・キリストが、エルサレムに入り、人々の頽廃やユダヤ教官僚(律法学者)に讒訴され、十二使徒にも裏切られてゴルゴダの丘の十字架に架けられるまでの一週間を【聖週間】【受難週】という。キリスト教徒はその間のキリストの苦難を我がものとし、処刑後の【復活】による永遠の《生》を信じることで、人間としての真実の生き方に目覚めることを【悔い改め】と呼んでいる。これは、俳句歳時記の受け売りではなく、教会の聖職者(牧師または神父)から直に聞いたことである。ところで、私たちが生を浮けた日本という国は果たして《天国》なのだろうか?知人のクリスチャンの中に、この世は限りあるもので《地獄》のようなものだから、信仰によって死後の永遠の生=天国に入りたいと本気で思っている者がいる。彼は、この世の幸福は諦め、財布さえ持っていない。私の考えは違っている。天国は、この地上にこそ顕現すべきもので、そのことを足場にしてこそ、永遠の生=天国の連続性が得られるということである。
この世には、実に多くの《地獄》が見出される。その一つに、女性の性の商品化とそれに伴う【性奴隷】の問題である。・・具体的に列記する前に、マタイ伝の中の【山上の垂訓】を取り上げてみたい。山上に集って来た人々は、不治の病を患った者、盗賊・殺人者、背徳者や奴隷、売春婦など、いずれも《救済》から排除された者ばかりであった。彼らが言う。『私のような者がどのように救われるのですか』という根底からする問いかけである。イエスが言うには『心の貧しい者は幸いである。天国は彼らのもの』であり、『悲しむ者は幸いである。必ず癒される』・・というものであった。神の栄光(=普遍的な人間の在り方)をただ信ずることが、永遠の生=天国へ到るただ一つの方法であるということであろう。すでに満たされた者は、飢えることを知らず、幸福を得るため神を信じるという契機が得られない。あたかも戦後の日本の情況を指して言っているように感じてしまう。それでは、そのような戦後そしてそれに先立つ戦前社会のどのような現実に、信仰に到る根源的な不幸が見出されるのだろうか。・・・《続く》
戦後しばらく蔓延した私娼(立ちんぼ)たち。昭和33年の売春防止法の成立まで、全国津々浦々まで赤線(公娼)地帯の周辺に現われた。