素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

同窓会

2010年08月08日 | 日記
 1995年に卒業した学年の同窓会があった。15年ぶりの再会である。50人余りの出席があった。この学年は転勤して2年生から受け持った生徒達で、2年間のつきあいではあったが強く印象に残っている。学校の諸事情で1年の担任が全員持ち上がらず、担外だった3人と他学年からの1人と転勤者4人の8名でスタートした。最初の学年会で、生徒に関する情報の少なさに「どうなっているんや」から「嘆いていても始まらない」「さてどないしょう」と開き直りに近い闘志が湧いた。

 生徒は1年間の学校生活の経験がある。学年の教師は“寄り合い所帯”の極みである。短期間にお互いの共通認識を作らないと集団として機能しない。特に、教師側が後手にまわると2年という学年は生徒に振り回されてしまいがちになる。

 そこで、前任校で5年ほどかけてつくってきた“学年だより”を骨格とした学年運営を引き続きすることにした。学年だよりを毎週1回定期発行していくのはエネルギーを要する。転勤を機に休憩しようと思っていたが、この状況ではやらざるを得ないと覚悟した。タイトルは5クラスであったこととリセットしてお互いに新しい人間関係の中でがんばっていくという気持ちを込めて『みんなでGO』にした。

 1年間ぐらい発行し続けないと存在感は出てこない。嬉しかったのは卒業間近に一人の生徒がお願いがあると来て「“みんなでGO”の最終号は“みんなでJUMP"にしてほしい。」といってくれたこと。当然希望通りにした。

 7人ぐらいの生徒から“胸ぐらをつかまれ”怖かったです。と挨拶され、「記憶にないんやけど、そうやったんかな?」と隣の子にささやくと「僕は胸ぐらはつかまれてません。首根っこを押さえられました。」と返ってきた。大きい体に不釣合いな軽自動車に乗っていた。とかチョークが折れるほど濃い字で大きく書くから消すのに大変だったとか、それでもう少し力をぬいて書いてほしいと言ったら「ダンベルで腕をつかれさせてから授業に来てるんや、努力はしている。」とわけのわからない開き直りをしたという。

 「もうオフサイドは大丈夫です。よくしかられました。」と握手を求めてくるサイドプレイヤー。サッカー部の連中も7人来ていたが、1年生の時ほとんどボールにさわらせてもらっていなかったので気の毒な学年だった。しかも1年の間はスパイクを履いてはいけないという奇妙なルールがあったりしてチームというよりは学年毎のお遊び集団という風であった。

 そこに、全学年同じメニューで、ボール拾いは置かない。チームは学年を超えて編成をするという私が顧問になったので、1年間耐えてきた彼らにとっては戸惑いと不満があったと思う。卒業する時にキャプテンと話をした時、思い出話として語ってくれた。1年間のハンディーは大きく結果は残すことができなかったが、与えられた時間にいかにたくさんボールにさわるかとかグランドが使えない時間帯に中庭を利用するメニューなどを工夫した。貴重な経験であった。

 条件の悪さを嘆く指導者をよくみかけるが、むしろその時こそ指導する立場の者にとっては力をつける時ではないかと思う。在職した10年間は小規模校ながら毎年20名前後の入部者があり、安定した結果を出せるようになったが、1度だけ入部者4名という時があった。全体的に運動そのものが苦手な子が多い学年だった。クラブのレベルがあがると反面、自信のない生徒は入部をためらうということも出てくる。

 そういう時、「この学年はダメだ」という気持ちで接することはよくない。こういう状況の中でもサッカー部を選んでくれた4人である。きめ細かく接し、マイナス思考を消しプラス思考を育てていくことが大切である。同窓会に集まった連中と思い出話をしていた時この子らとの出会いが原点だったなとあらためて思った。

 30歳、31歳という年齢に達した彼ら、彼女らの会話を聞いていると、人生の微妙な時期にさしかかっているのだということを強く感じた。結婚、仕事など20歳代とは違う何かを感じ始めているのである。「10年ごとに節目はくる」ということは自分の歩みを振り返って、よく話していたことだが、その場所に立っている教え子をみていると感慨深いものがあった。「君らは30代、私は60代をこれからどう生きるかお互いがんばりましょう」と言って別れた。自転車ででかけたので、40分ぐらいかけて登りの多い道を帰ったが、いい気分にひたりながらペダルをこぐことができた。
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする