素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

リーダーはやはり一人だろう

2010年08月31日 | 日記
 民主党の代表選のドタバタ劇を見ていると、リーダーというものを思わず考えてしまう。野党時代のように最終判断、責任を負う立場でない時はトロイカ体制も有効に働いた。しかし、政権交替を果たし、与党として国をリードする立場になればトロイカ体制は無理が生じる。これは歴史を見れば多くの事例がある。権力を握るまでは、個々のすぐれた能力を役割分担のように働かせ、大きな力として敵に立ち向かうことができるが、敵を倒し、権力を握った後は一人のリーダーのもとに集団は再編されないと安定した動きはできなくなる。

 古今東西、昨日の友は今日の敵のような内紛劇は避けられないことかもしれない。同じような能力のあるものが多くいるからといって、その集団がうまく機能するとは限らないのである。

 身近な例でいうと、クラブの顧問がある。クラブを指導できる人の不足が大きな問題(そもそも教諭のボランティアにたよっているところに根本的な問題があるのだが・・・)となっている学校が多い中、たまたま指導できる人が集まるということがある。過去いろいろな事例をみてきたが、それによってパワーアップしたことはほとんどない。

 瞬時の判断の時の指示、野球でいえば、バントで送るか、ヒットエンドランと積極的にいくか。ピッチャーとかバッターの交代。サッカーだあればパスかドリブル突破か。などは一人の監督の責任において出されないと混乱をきたす。

 また、チームをつくっていく時も、将来を見越して今は目をつぶってこうしておこうという判断も結構ある。その時に、違う指示が出されたならば我慢して行なったことが台無しになる。

 授業で、チームティーチングという考え方が推奨されたことがあった。一人ではなく二人の教師で授業を運営するほうが、きめ細かく指導できるのではということだが、実際には定着しなかった。授業というのも、見通しを持ったうえに、瞬時の判断が求められるものだから、一人の授業担当者のもとに運営されないと混乱をきたす。“狭い縄張り根性”ではなく、集団を1つの方向に導いていく時の原則ではないかと思う。

 リーダーになる資質というものはあるように思う。その資質を与えられたものはリーダーとしての華々しい活躍とともに、失脚もしくは潔い引退というものも背負わされているのである。民主党の代表選後を楽しみにしている。
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