素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

鬼平犯科帳 スペシャル「一寸の虫」

2011年04月15日 | 日記
金曜プレステージで、久しぶりに新作が放映された。スペシャル2時間版。心がざわつくという感覚が遠のいてしまったと感じる昨今だが、感情の海にさざ波がたっているのを自覚しながら見入ってしまった。

感情を抑えた演出が見る側に感情の高まりを生み出す。不思議なものである。ジプシー・キングスの演奏がさらに心をゆさぶるのである。音楽は言葉を越えて直接語りかけてくるものである。

「ああ自分にもまだこんな感情の揺れが存在していたのだ。」ということを再発見した夜であった。

Scenery of Japan.(Gipsy Kings Inspiration)"鬼平犯科帳 End Credits"


エンディングテーマを聴きながら、谷川俊太郎さんの文を読み直してみた。

「人との出会いの中で、自分が意識するしないにかかわらず第一印象が悪かったり、どんなに立派なことを言っても信用できない、いけ好かない相手っているでしょう。それはその人の“気”が自分と合わないからだと思うんですね。“気”というのは誰もが発している目に見えないエネルギーみたいなものだけど、これを感じとる能力はすべての人に備わっている。つまり、人間は言葉だけでものごとを判断しているわけではないんです。言葉は人とかかわっていくうえで必要不可欠なものだけど、それだけではあてにならないということですね。

 言語がある以上、意味の世界にとらわれて生きていくのはしょうがないことだけど、意味の前には“存在”という言語ではとらえきれないものがある。それはものすごく巨大で複雑で矛盾しあっている全体というもの。その全体を人間は日常生活のレベルで、一所懸命認識しようとするのだけれど、なかなかうまくいかない。

 意味から離れて生きるなんて基本的には不可能なことですけどね。でも広大な風景を前にしたときとか、満天の星空を仰いだときなんか、自分がほんとうにちっぽけな存在なんだと感じることがあるでしょう。そういう何か自分を越えた存在に対する感動を、筆舌に尽くしがたいなんて昔の人は言うわけです。言葉と言葉の生み出す意味ではとらえ切れないものを感じ取る能力が人間にはあるんだと思う」
 [毎日が発見・2008年10月号より]
コメント (1)
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