何度読んでも「ウ~ン


」となってしまうのが公立学校教員の免許・採用制度改革を検討している自民党案の概要の報道。
それによると、教員希望者に「准免許」を与えて学校に配属、「数年の試用期間」を経た上で「本免許」を与える「インターン制度」を導入し、本免許を与えた教育委員会が任命権を持ち、責任を負うというもの。
関係者への取材で、具体的な流れはこうなるみたいである。
①大学などで教員養成課程を満たした教員希望者に卒業後「准免許」を与える。
②採用試験を経た上で、希望勤務地の教育委員会を通して学校に配属し、常勤講師と同じ待遇で勤務。
➂場合によっては学級担任や部活動も受け持ちながら「試用期間(インターン)」として学校に所属する。期間は3年または5年。
④期間中、学校長が勤務態度や授業の状況、課題への対処能力を見極め、基準を満たしたと判断すれば、教委から「本免許」を交付され常勤 教諭となる。
⑤試用期間中に本免許が取得できない場合でも、准免許のままで勤務可能とする。
⑥本免許取得後、指導力不足が判明した場合は、受け入れた教委が責任を負い、研修などを実施する。
⑦各学校には、試用教員に十分対応できるよう、担任を持たない教諭などを増やす。
問題がありすぎて途方にくれるのだが、「もし自分が」という形で考えてみた
●「もし自分が」教員になりたいと思う学生だったら
こんなに長期間、身分の不安定なまま過ごすことに耐えられるかなという不安がまずある。プロ野球でも監督が代われば選手への評価が違い人生がガラッとかわることがよくある。途中で校長が代わった時に評価基準はどうなるのだろうか。自分より指導力のない「本免許」を持った人がいたらとっても矛盾を感じる。同じようにインターンで入って、本免許になる者と准免許のままの者が出たらどちらの側になってもやるせない気持ちになるだろうな。
●「もし自分が」教員だったら
今でもいろいろな名目で担任を持てない、授業を持てないベテランが多いのに、新任教諭に加えて試用教員のための人員の確保なんて実際できるのかな。自分も含め最初から完璧な教員はいない。逆に最後まで完璧な教員にはなれない。さまざまな問題にぶつかりながら成長していくしかないのがこの職業の持つ宿命。指導するという関係より一緒に歩んでいく関係で若い教員とは付き合いたいな。
●「もし自分が」保護者だったら
家の子をインターンの試験に差し出せというのか?一生に1回のその時を「失敗でした」では済まないだろう。新任の先生で結果、うまくいかなくても「まだ若いからな」とあきらめもつく。その微妙な差がわからないのかな?保護者や子供にとってはとても失礼な制度だと思う。
●「もし自分が」校長だったら
担当する集団や保護者は一律ではなく多種多様である。それに対する対応を評価せよと言われてもなかなかむずかしい。何を持って「指導力不足」と判断するかは実際するとなると困難を極める。指導力不足教員を多く出したり、問題の多い学校となれば最終責任者である私が「指導力不足校長」という烙印を押されるが誰が押すの?教育委員会!?じゃ指導力不足教育委員会?と責任はあいまいとなる。はっきりしているのは責任はだれ?連鎖が「指導力不足文科省」とならないようにしているように思えるな。押しつけはするが最終責任はとらない体制こそ何とかならないのか。講師を探すのに一苦労している現状を何とかするのが先決だろう。
苅谷さんの「学校って何だろう」という本に今さらと思いながら飛びついたのは、今回の報道でみられるような余りにも現場を知らない、観念的で場当たり的な議論が多いからである。この新聞記事を読んでいて、かつて考えさせられた看護師の「正看」と「准看」という制度の持つ問題点を思い出した。「本免許」と「准免許」の教員が存在することになるとよく似た矛盾が出てくると思う。歴史から学ぶ必要があると思う。今はどうなっているのかと検索してみた2002年に書かれた『村上友一さんの准看護婦問題の現在』が示唆を与えてくれる部分が多いと思った。長いがクリックしてもらって一読してもらえればと思う。同じ過ちは繰り返してはいけない。




それによると、教員希望者に「准免許」を与えて学校に配属、「数年の試用期間」を経た上で「本免許」を与える「インターン制度」を導入し、本免許を与えた教育委員会が任命権を持ち、責任を負うというもの。
関係者への取材で、具体的な流れはこうなるみたいである。
①大学などで教員養成課程を満たした教員希望者に卒業後「准免許」を与える。
②採用試験を経た上で、希望勤務地の教育委員会を通して学校に配属し、常勤講師と同じ待遇で勤務。
➂場合によっては学級担任や部活動も受け持ちながら「試用期間(インターン)」として学校に所属する。期間は3年または5年。
④期間中、学校長が勤務態度や授業の状況、課題への対処能力を見極め、基準を満たしたと判断すれば、教委から「本免許」を交付され常勤 教諭となる。
⑤試用期間中に本免許が取得できない場合でも、准免許のままで勤務可能とする。
⑥本免許取得後、指導力不足が判明した場合は、受け入れた教委が責任を負い、研修などを実施する。
⑦各学校には、試用教員に十分対応できるよう、担任を持たない教諭などを増やす。
問題がありすぎて途方にくれるのだが、「もし自分が」という形で考えてみた
●「もし自分が」教員になりたいと思う学生だったら
こんなに長期間、身分の不安定なまま過ごすことに耐えられるかなという不安がまずある。プロ野球でも監督が代われば選手への評価が違い人生がガラッとかわることがよくある。途中で校長が代わった時に評価基準はどうなるのだろうか。自分より指導力のない「本免許」を持った人がいたらとっても矛盾を感じる。同じようにインターンで入って、本免許になる者と准免許のままの者が出たらどちらの側になってもやるせない気持ちになるだろうな。
●「もし自分が」教員だったら
今でもいろいろな名目で担任を持てない、授業を持てないベテランが多いのに、新任教諭に加えて試用教員のための人員の確保なんて実際できるのかな。自分も含め最初から完璧な教員はいない。逆に最後まで完璧な教員にはなれない。さまざまな問題にぶつかりながら成長していくしかないのがこの職業の持つ宿命。指導するという関係より一緒に歩んでいく関係で若い教員とは付き合いたいな。
●「もし自分が」保護者だったら
家の子をインターンの試験に差し出せというのか?一生に1回のその時を「失敗でした」では済まないだろう。新任の先生で結果、うまくいかなくても「まだ若いからな」とあきらめもつく。その微妙な差がわからないのかな?保護者や子供にとってはとても失礼な制度だと思う。
●「もし自分が」校長だったら
担当する集団や保護者は一律ではなく多種多様である。それに対する対応を評価せよと言われてもなかなかむずかしい。何を持って「指導力不足」と判断するかは実際するとなると困難を極める。指導力不足教員を多く出したり、問題の多い学校となれば最終責任者である私が「指導力不足校長」という烙印を押されるが誰が押すの?教育委員会!?じゃ指導力不足教育委員会?と責任はあいまいとなる。はっきりしているのは責任はだれ?連鎖が「指導力不足文科省」とならないようにしているように思えるな。押しつけはするが最終責任はとらない体制こそ何とかならないのか。講師を探すのに一苦労している現状を何とかするのが先決だろう。
苅谷さんの「学校って何だろう」という本に今さらと思いながら飛びついたのは、今回の報道でみられるような余りにも現場を知らない、観念的で場当たり的な議論が多いからである。この新聞記事を読んでいて、かつて考えさせられた看護師の「正看」と「准看」という制度の持つ問題点を思い出した。「本免許」と「准免許」の教員が存在することになるとよく似た矛盾が出てくると思う。歴史から学ぶ必要があると思う。今はどうなっているのかと検索してみた2002年に書かれた『村上友一さんの准看護婦問題の現在』が示唆を与えてくれる部分が多いと思った。長いがクリックしてもらって一読してもらえればと思う。同じ過ちは繰り返してはいけない。