素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

文楽㋃公演『心中天網島』へ

2013年04月27日 | 日記
 ‟心中物”といえば道ならぬ男女の愛欲の果ての物語というイメージを持っていた。しかし、実際に観ると違う。小春とおさんを取り巻く男の阿保さ加減が痛烈に書かれていて私は何度も上演中に苦笑してしまった。プログラム(1冊650円とてもお値打ち)の中で映画監督の篠原正浩さんはこう書いている。

 治兵衛と心中する小春は湯女上がりの下級女郎であり、妻おさんは天神様の門前で商いをする紙屋の歴とした女主人である。この二人の女を凝視する近松に、世間の差別感が微塵も存在しない。男を愛したために苦しむ女たちとして平等に向かい合せる。『心中天網島』の主題は男女の愛欲の決算だけではなく、この女同士の義理が引き起こす悲劇なのだ。

 近松門左衛門については橋下治さんの「浄瑠璃を読もう」(新潮社)の中の★『国姓爺合戦』と直進する近松門左衛門★これはもう「文学」でしかない『冥途の飛脚』の2つの章を読むとよくわかる。近松門左衛門の時代は現在のように三人遣いの人形ではなく一人遣いの人形であった。というくだりから近松門左衛門の作者としての強さを語っているが、実際に舞台を観ると言わんとすることがよくわかった。

 また、日本の三味線が、弦楽器でありながらメロディ楽器とリズム楽器の両方の性格を備えている。ということの必然性も今回納得した。

 橋本さんはズバリとこう言い切っている。

 近松門左衛門を「心中物の作家」と考えると分からなくなってしまうが、彼は本来「エンターテイメント作家」なのだ。その博識が、荒唐無稽なエンターテイメントに強引な説得力を与える・・・それが近松門左衛門でもある。

 ラストの道行から心中に至る場面での客席の”怖いもの見たさ”的な張りつめた空気を感じ取った時に橋本さんの言葉を合点したのであった。

 帰り道、黄味を帯びた大きな月を眺めながら、人間の内包している不条理さについて改めて考えた。
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