素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

雪の記憶をたどる脳トレとなりました

2023年01月24日 | 日記
 天気予報もニュースも大寒波襲来、雪に関する注意喚起が中心になっている。必然的に雪にまつわる話題となる。こういう時真っ先に出るのが父の葬儀の2017年2月9日のこと。当日駆けつけようとした次女が生駒山を越えた所で雪が激しくなりこれ以上進むのは無理だと判断し引き返した。めったに雪の降らない志摩でも葬儀が始まった頃から小雪がちらついてきた。葬儀の後すぐに浜島の墓に納骨をしたのだが、その時の寒さは半端ではなかった。すべてが終わった後、私だけ残り妻と長女、息子たちは大阪へ戻ったが、西名阪道が交通止めになり新名神から地道を迂回したがとても苦労したと繰り返し聞かされた。

 私は高校卒業までの18年間、志摩で暮らしたが、雪に関する記憶は1回しかない。中学生の時で、気象庁が「昭和38年1月豪雪」と命名、通称「さんぱち豪雪」と呼ばれたもの。この時は志摩にもしっかり雪が降り、雪ダルマや雪合戦に興じた。中学校は丘の上にあったので教室の木製の椅子を持ち出してソリ代りにして斜面を滑っていて授業時間にも戻らずに遊び惚けていてこっぴどく説教された。当時は正座の罰が当たり前だったが廊下での正座の冷たさは骨身にしみた。

 今の家に暮らし始めてからの雪の記憶を妻と息子と一緒に辿ったが3人の記憶がまちまちであった。言えることは多くないということ。私の記憶では、退職してからはないし、最後の勤務校でも雪の中の通勤で困った記憶がない。ということはほぼ20年、雪による困難な状況はなかった。明確に覚えているのは二中の時に2度ほど大雪に見舞われた。坂の多い所に学校があり、スリップ寸前の状態で家に帰ったあの怖さは忘れられない。招提中では1回。「何が何でも出勤すべし」と言われていたが、車での移動は懲りていたので,JR星田駅から藤阪駅まで列車を使い、雪の山田池公園を歩いて横切り1時間ほどかけて出勤したことも今は良き思い出だ。

 雪の多い地域の人が聞けば噴飯ものだろうが、雪と縁の薄い地域で生きてきた者にとっては印象深いものである。
コメント
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