素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

星田に残る家康ゆかりの場所へ久しぶりに

2023年01月29日 | 日記
 旧星田村には家康ゆかりの場所が3つある。こちらに住み始めた頃、史跡巡りに参加して巡ったが、印象に残ったこともなく、近過ぎるということもあり顧みることはなかった。今年の大河ドラマで家康が主人公になったということで、当のNHKはもとより民放まで「家康、家康」とにぎやかしい。この傾向年々ひどくなってきているように思う。情報過多症候群とも呼べる状態だ。と、ぼやきながら触発され、天気も久々好天なので気分転換がてら自転車でゆかりの場所を巡ってきた。

 先づ、家から自転車で10分足らず、星田妙見宮の向いにある「伝・家康ひそみの藪」へ。1582年6月21日。京都の本能寺に宿泊していた織田信長が明智光秀の謀反にあってこの世を去った「本能寺の変」。その本能寺の変発生の際に、織田信長の同盟者であった徳川家康は堺にいて明智謀反の知らせを知った家康は、超高速で自国の浜松に帰ろうとした。明智の軍勢に見つかると信長の同盟だった家康もきっと生命のピンチを迎えることになる。

 堺→浜松まで隠密に、そして速やかに移動するために選ばれたのが伊賀越えのルート。その時、交野で家康をかくまって、おもてなしをして脱出のサポートに尽力したのが
星田の平井家のご先祖様であった。迫るくるであろう追っ手から家康の浜松戻りをサポートするため、食事を提供して道案内をされたと言われている。当時、家康が潜んだという竹藪が「伝・家康ひそみの藪」として残っている。以前来た時は「どこ?」と思うほど荒れていて古い木札が1枚ぶら下がっていただけだったが、今は交野古文化同好会によって立派な案内板も立てられ、見違えるほど整備されていた。
  

 そこから妙見河原の桜道を抜けて星田の村中に入り、平井家の敷地の一角にある「神祖営跡之碑」へ。大坂夏の陣の時、星田の平井家が家康の陣営となり貢献したという先祖の威徳を偲んで、領主市橋長昭と星田村の平井三郎衛門貞豊が文化3(1806)年に建てたものである。
   

 最後は、平井家から自転車で3分ほどにある新宮山(今は、星田公園)の「旗掛け松跡」へ。大坂夏の陣の時、星田の平井家に家康が宿陣した折そのことを示すために家康の旗印である白旗を新宮山の松の木に掲げたという。

 新宮山は、標高65mの超低山。石清水八幡宮の分霊を祀ったところから新宮山と呼ぶようになった。頂上付近の一段高くなった所に明治の初めまで八幡宮があった。平成9(1997)年に星田公園として整備された。
  植林された松もずい分成長していた。  

 交野一帯は基本的には豊臣方である。その中で徳川を支援した星田村は特異な存在だったと思う。諸説ある中の一つに星田も加わっているが、大河ドラマで取り上げられるか否かちょっと楽しみ。

 伊賀越えについては、交野古文化同好会の定例勉強会「徳川家康伊賀越え迷走記」http://murata35.chicappa.jp/rekisiuo-ku/10-2/takao.htmlが参考になる。

 

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