久しぶりにジムに顔を出した。「体調が悪かったのか?」と心配された。連日の猛暑に熱帯夜で病院通いする人が多くなったみたいで、私もその一人に入れられていたようだ。
ロッカールームの話題は、昨日発行された新札のこと。新札を手にした人はまだいない。「新札より診察のほうが最優先ですわ」と笑う。子どもの頃の100円札の板垣退助、500円札の岩倉具視が大金に思えた懐かしい話。記憶力テストのようなものだ。その頃は聖徳太子がずい分幅を利かせていてお札=聖徳太子が刷り込まれた。伊藤博文の1000円札は新鮮だったは大方の一致するところ。東京オリンピックとも重なる。聖徳太子が消えたのは昭和59(1984)年、福沢、新渡戸、夏目という今につながる形になった。皆の記憶を少々乱したのは福沢諭吉だけが他の二人より20年長く10000円札にとどまったこと。40年という年月は長く、頭が渋沢栄一に切り替わるにはなかなかと笑う人もいる。「この中で次の新札を迎える人はほとんどいないからゆっくり慣れればいい」と長老の締めの言葉で各自トレーニングに向かう。
昨日の「余録」のお札4人衆の関わりは興味深く読んだ。
【「官尊民卑の気風最も盛んなる世の中に」「初志を貫いてついに今日の地位を占め、天下一人として日本の実業社会に渋沢栄一あるを知らざるものなし」。福沢諭吉の渋沢評である▲5歳年下の渋沢は初対面の際「いっぷう変わった人」と感じたらしい。大隈重信邸で将棋を指したこともあった。「商売人にしては割合強い」と言われ「へぼ学者にしては強い」と言い返したという▲つかず離れずの関係だったが「実業界と政界を同列に扱うべきだ」という福沢の主張には大いにうなずいている。きょうから20年ぶりの新紙幣が発行され、1万円札の顔は40年ぶりに福沢から渋沢に変わる。共に官から距離を置き、民間で活躍した人物である▲5000円札の津田梅子と1000円札の北里柴三郎もそうだ。福沢とも接点がある。津田の父は幕末に福沢とともに通訳として渡米した。ドイツのコッホ研究所から帰国後、政府から冷遇された北里を支援したのが福沢だった・・・】
ロッカールームの話題は、昨日発行された新札のこと。新札を手にした人はまだいない。「新札より診察のほうが最優先ですわ」と笑う。子どもの頃の100円札の板垣退助、500円札の岩倉具視が大金に思えた懐かしい話。記憶力テストのようなものだ。その頃は聖徳太子がずい分幅を利かせていてお札=聖徳太子が刷り込まれた。伊藤博文の1000円札は新鮮だったは大方の一致するところ。東京オリンピックとも重なる。聖徳太子が消えたのは昭和59(1984)年、福沢、新渡戸、夏目という今につながる形になった。皆の記憶を少々乱したのは福沢諭吉だけが他の二人より20年長く10000円札にとどまったこと。40年という年月は長く、頭が渋沢栄一に切り替わるにはなかなかと笑う人もいる。「この中で次の新札を迎える人はほとんどいないからゆっくり慣れればいい」と長老の締めの言葉で各自トレーニングに向かう。
昨日の「余録」のお札4人衆の関わりは興味深く読んだ。
【「官尊民卑の気風最も盛んなる世の中に」「初志を貫いてついに今日の地位を占め、天下一人として日本の実業社会に渋沢栄一あるを知らざるものなし」。福沢諭吉の渋沢評である▲5歳年下の渋沢は初対面の際「いっぷう変わった人」と感じたらしい。大隈重信邸で将棋を指したこともあった。「商売人にしては割合強い」と言われ「へぼ学者にしては強い」と言い返したという▲つかず離れずの関係だったが「実業界と政界を同列に扱うべきだ」という福沢の主張には大いにうなずいている。きょうから20年ぶりの新紙幣が発行され、1万円札の顔は40年ぶりに福沢から渋沢に変わる。共に官から距離を置き、民間で活躍した人物である▲5000円札の津田梅子と1000円札の北里柴三郎もそうだ。福沢とも接点がある。津田の父は幕末に福沢とともに通訳として渡米した。ドイツのコッホ研究所から帰国後、政府から冷遇された北里を支援したのが福沢だった・・・】