素浪人旅日記

2009年3月31日に35年の教師生活を終え、無職の身となって歩む毎日の中で、心に浮かぶさまざまなことを綴っていきたい。

4ヶ月ぶりに松阪・志摩へ

2021年03月26日 | 日記
 新型コロナウイルスの感染拡大で外出自粛要請や非常事態宣言などがあり府外に出かけることがなくなった。最初は違和感があってもいつのまにか新しい生活スタイルが確立して出かけないことが当たり前という感覚になってくる。1ヶ月に一度は松阪、志摩方面行きも途切れていた。
 「いつから行ってないのだろう?」と考えたが記憶が曖昧になっている。新年になってからは行っていないことははっきりしているので昨年のスケジュール手帳を調べてみた。10月25日(日)、11月16日(月)の後は行っていないことがわかった。「ええ!ほぼ4カ月行ってなかったのか!」と今さらながら驚いてしまった。
 今日は、浜島にある墓掃除と磯部の実家の様子を見てから松阪の母の入所している施設に寄るよていなのでかなり時間的に厳しい。朝、6時30分に家を出て、磐船街道(R168)から国道163号に入り、伊賀一の宮から西名阪道(R25))に関で伊勢自動車道に乗り玉城ICで下り、サニーロード(県道169)で五ヶ所へ。そこから裏道を抜け浜島に着いたのが9時30分。トイレ休憩1回の強行軍だった。父の墓は浜島に住んでいる従兄妹が時々掃除に行ってくれているのできれいだった。線香立ての砂を水洗いして小さな雑草を取り除くのに15分ほどでよかった。浜島は温暖な気候なので桜は散り始めていた。
 従兄妹にもお礼を言いたかったので浜島の町に向かった。トンネルを抜けると目の前に海が開けた。小学生までは盆の時期必ず1週間ぐらい父の実家で過ごしたのでよく眺めていた海だ。自粛生活で海を見る機会がなかったので心に沁みた。
   左手が御座岬、右手が田曽岬、そこから外海の熊野灘(太平洋)へと続く。

 磯部の実家に着いたのが11時過ぎ。父が長年かけて手入れをし、作り上げた庭があったのだが、車の乗り入れが難しく家の片付けをするのに不便なので業者に頼んで今年に入って更地にしてもらった。どんな風になったかを確認するのも大きな目的の一つであった。庭木や石、花壇などがきれいに取り除かれていた。
  車での乗り入れが本当に楽になった。空き家になってからの管理はセコム三重と契約している。侵入異常での対応が2回あったようでポストに「点検ご報告書」が入っていた。室内についているセンサーが反応した原因は1回目がゴキブリ、2回目がクモとなっていた。いずれも駆除したと書いてあった。

 父が植えた木で唯一残っているのは、家の敷地より1.5mほど下にある空地の八朔の木である。主人もいなくなり手入れもしていないのに鈴なりに実をつけたようだ。せっかくなので持ち帰ろうと八朔狩りとなった。
 母を3時から整形外科に連れて行く約束もあったので1時過ぎに出発。松阪まで1時間弱で到着。施設は入室制限中なので窓越しに荷物のやりとりをする。病院から帰ったのが4時。ノンストップで家に着いたのが6時45分。計8時間余りの久し振りの長距離ドライブ。いい気分転換になった。


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『明鏡国語辞典 第三版』と『日本史「今日は何の日」事典』が届く

2021年03月25日 | 日記
 『明鏡国語辞典 第三版』が届いた。今持っている初版よりも字が少し大きくカラー印刷になっているので読みやすい。語句の意味だけではなく、
誤用を取り上げて解説してある【注意】欄、改まった場面でも使える類語が調べられる【品格】欄充実していて楽しい。また、最後に【索引】が用意されていて、《明鏡 利活用索引》《アルファベット索引》《難読後索引》と至れり尽くせりである。また【「品格」欄 一覧】も有難い。
 調べる辞典というより読む辞典と言った方が良い。デジタル化の時代だが、電子辞書はピンポイントに調べるのにはいいが曖昧さの周辺を調べるには不向きである。私は電子辞書と紙辞書をケースバイケースで使っている。同じように今、デジタル教科書の推進が強く言われているが、紙教科書の良さも捨てがたいものがある。共存して補完し合うというのがベストの道のような気がする。今年の年賀状では、まだ現役で頑張っている人のほとんどがタブレット導入へのしんどさが添え書きされていた。しばらくは大変だと思う。

 『明鏡国語辞典 第三版』と同じ広告欄にあった『日本史「今日は何の日」事典』(吉川弘文館)も一緒に買った。「日付」からみる日本史、想像以上にガッチリ作られていて、なかなかのすぐれものである。日本史を違った角度から見ることができる。手の届く所においてつれずれにまかせて見ることにしよう。
 
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花散歩⑥桜の開花一気に進む

2021年03月24日 | 日記
 週末の春の嵐の後、一気に桜の開花が進んだ。傍示川は7分咲きぐらいかな。来週には桜のトンネルが出来上がるだろう。私の家の斜め後ろのYさん宅のソメイヨシノは満開。角地にあって朝日から夕日まで陽当たり抜群なので抜きんでて開花が早い。
 奥に見える緑のベンチはここからの眺望が良いのでボランティアグループの人たちが設置し、いつの間にか7脚になっていた。その左手に大階段と呼ばれている階段がある。18段×5で都合90段余りある。下から80段目あたりに大きなオオシマザクラがある。これも負けじと満開。道をはさんで2種類の桜が咲き誇っている姿は見応えがある。
 ソメイヨシノは,新葉より先に淡紅白色の数個の花を開き,全枝が花でうずまり美しいが,オオシマザクラは緑色またはやや赤褐色の新葉と同時に白色の花が開く。その葉は桜餅を作る時に使われる。階段下から見上げると迫力がある。
 見上げていて階段を踏み外し骨折した人もいるので要注意。桜の時期は根っこにつまずいて転ぶ危険な時期でもある。「花より団子」はいいが「花見て転倒」は避けたい。
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叔父さんが又亡くなった😿

2021年03月23日 | 日記
 昨年の秋以降親戚関係の訃報が続いている。妻の実家の義兄(84歳)が10月に。11月には私より4歳若い従兄妹(父の妹の長男)、そして今年に入って1月には浜島の父の実家を守っていた叔父(90歳)が亡くなった。そして今日、19日(金)に神戸に住んでいる叔父が亡くなり家族葬を済ませたと従兄妹から連絡が入った。正月明けに電話を入れてコロナが収まったら遊びに行く約束をしていただけに呆然とした。

 叔父の名前は大法(昭和8年生)。中学生の頃、相撲で大鵬が一時代を築いた時、叔父さんの名前とかぶりすごい名前をつけたもんだと感心した。大法さんとは他の叔父叔母よりも関わりが深く思い出も多い。

 私の記憶の中に残っている一番古いものは5歳前後の時かな?4歳下の弟が尻に肉腫ができて伊勢の日赤で緊急に大手術をした時、両親は大慌てであったと思う。私は状況もわからず一人置いてけぼりみたいになっていた。その時、自転車に乗った大法さんがニコニコとやってきて「何も心配することはないよ」と言って、私を後ろに乗せて祖母の家に連れて行ってくれた。幼い私はその人がどこの誰なのかわからなかったのだが、安心できる人と直感できる優しさが満ちていた。

 なれそめを聞いたことはないが、大法さんと叔母の英子さんは高校の頃からお付き合いがあって大学時代は英子さんの家に入り浸っていた。私が小学4年か5年ぐらいの時、なぜそうなったのかは定かではないが、伊勢の英子さんの家で大法さんを交えてパーティーらしきものがあるので私が鵜方から一人で大法さんの大好物を持っていくことを母から命じられた。初めてのお使い気分だった。英子さんの家に着いた時はホッとした。華やかな雰囲気が別世界のようだった。母からのおみやげを渡していただいたお菓子を食べていたら、台所から悲鳴が聞こえてきた。駆けつけた英子さんのお母さんや妹さんも加わって大パニック。私が持参したのは数匹の「海鼠」。私なんかは見慣れたものだがグロテスクな塊を見た英子さんたちは卒倒状態。私は何か悪いことをしたみたいな気分になって落ち込んだ。すると大法さんがニコニコしながら「どれどれ」と言って立ちあがり見事にスライスした。結局海鼠を食べたのは大法さんと私だけだった。小学生の私が海鼠を食べることが珍しいのか「スゴイスゴイ」とほめられ面映ゆかった。

 私が中、高校生の頃、大法さん一家は夏休みに御座の白浜で海水浴を楽しむのが定番だった。白浜には父方の祖母の妹さんが経営しているみさき荘という旅館があり必ずそこに泊まった。私も時々一緒に泳ぎに行ったものだ。その時、大法さんのお土産は京都の老舗の”蕎麦ぼうろ”と決まっていた。今と違って流通の発達していない時代、田舎暮らしの私にとって年に一回の”蕎麦ぼうろ”は格別の味だった。いまだに”蕎麦ぼうろ”は格別のお菓子になっている。

 一浪して大学に入学した1970(昭和45)年、大阪万博があった。その頃大法さんは枚方市の香里園に住んでいた。そこで母と弟と私は大法さんの家に泊めてもらって万博を見に行った。枚方市から京阪バスで南茨木まで行ってモノレールに乗り換えて会場に入ったと思う。人の多さに圧倒され主要な展示館には入らなかったと思う。帰り際、もう一度太陽の塔を見ておこうと母と振り返ったら弟が人の波にのまれて迷子になってしまい場内アナウンスをしてもらったりして大騒ぎしたのも良き思い出。

 大学を卒業して枚方市の中学校に決まったのが3月の中頃、大慌てで名古屋の下宿の荷物をまとめ大法さんの家に転がり込んだ。生活が落ち着くまで1ヶ月余りお世話になった。私も3年生担当だったが、丁度大法さんの長女も二中の3年生。当時の枚方市は高校受験で地元集中運動というのが盛んで私も従兄妹も巻き込まれ大変だった。家族会議で議論を交わしたことも懐かしい。
 
 結婚して女の子が生まれた時、家にお祝いに来てくれた.。関西医大の整形外科医だった大法さん、真っ先に股関節の動きを触診した。何をしているのか?と面食らっていた私に、首をかしげながら「一度レントゲンを撮ったほうがいい」と言った。このままだと股関節脱臼になる可能性があるとのこと。大法さんの診療時間に合わせて滝井にある関西医大で正式に診てもらった。予防策として半年ぐらいベルトで開脚状態を保つ治療をした。大変だったがおかげで股関節脱臼にならずに済んだ。親戚で唯一の医師である大法さんには親戚のものはすべて頼った。どんな時でも誠実に耳を傾けてくれて的確な説明をしてくれた。ここから得られる安心感は得難いものがあった。

 長女も長男も0歳児クラスから保育所に入所した。 熱が出て保育所で見てもらえないが、仕事の関係で二人とも都合がつかない時、最後の頼みの綱は大法さんの家であった。叔母の英子さんが快く引き受けてくれて助かったことは数えきれない。病児保育の種がまかれやっと芽をだしてきた時代である。共働き家庭を巡る環境は厳しいものがあった。

 3人目の子が生まれた昭和58年、大法さんは愛媛大学医学部で勤めることになり3月に松山へ引っ越した。子供が病気の時の切り札が無くなることには不安があった。しかし、もしそのまま大法さんが香里園に住んでいたら、その年村野中から二中への転勤が決まった私は大法さんの末っ子(香里小)の入学を迎えることになったのである。「従兄妹との遭遇」は私にとってはかなりのプレッシャーである。不安と安堵が錯綜した春だった。

 松山は遠いので今までのような日常的な交流はなく、冠婚葬祭でのお付き合いになった。今は四国も橋でつながり高速道路が整備されたので便利になったが、当時は琴平の近くの妻の実家へ行くのさえフェリーを使って大仕事だった。松山となると高松から見ると地の果てという感じだった。

 45年ほど住み慣れた松山の家を処分して、六甲アイランドにある甲南介護老人保健施設に引っ越したのが5年ほど前、1つの終活のあり方を教えてもらったような思いがした。私の家から車でも電車でも1時間足らずで行くことができるのでまた身近な存在となり嬉しかった。毎年11月に六甲アイランド内を走る六甲シティマラソン(10km)が開催されていた。大法さんの所から歩いて5分ぐらいの六甲アイランド高校が集合場所なので更衣をさせてもらい走り終わってからスーパー銭湯へ出向き食事をするという楽しみができた。新型コロナウイルスの感染拡大で去年は中止になり、気軽に訪れることすらままならず歯がゆかった。

 今年の年賀状にはこう書かれていた。『数え年で89歳を迎えました。コロナ回避を徹底的に心がけた結果、脚、腰が弱り、ノルディック杖2本を持っての4点歩行をしております。 ワクチンに期待して今年はフレイルから脱却できればと思います。…』
コロナ禍による生活リズムの激変が大法さんの命を縮めたと思う。もう一度、酒を飲みながら思い出話をしたかったと心残りがある。「コロナ憎し!」である。

 伊勢市のやすらぎ霊園に柴田家の墓はある。納骨の時にしっかりお別れをしたいと思っている。『弔いは、残された者のためにある。』小説「とむらい屋颯太」の一節がまた頭をよぎった。

 
 

 
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久しぶりの保育園のお迎え

2021年03月22日 | 日記
 4歳の孫は、寝屋川市にある「本町こども園」にお世話になっている。昭和48(1973)年に設立しているので50年近い歴史がある。伸び伸び、自主性を重んじているという印象がある。クラスの名前が覚えにくいのがちょっとだけ困る。0歳児が「星」、1歳児が「空」、2歳児が「月」、3歳児が「太陽」、4歳児が「光」、5歳児が「地球」である。孫は「そらぐみ」から入所して今は「たいようぐみ」。4月からの「ひかりぐみ」の担任も決まったみたいだ。

 1,2歳児クラスの時は、娘の勤務時間の関係で月に5~7回お迎えに行く必要があった。家から車で10分ほどだが、市内のごみごみした中にあり道も狭く駐車スペースも少ないので私の仕事である。我が子3人の送り迎え歴13年だったので30年ほどブランクがあっても体に染みついたものがあり結構
楽しませてもらった。今も昔も保育園の雰囲気、子ども達の様子は変わらないというのが率直な感想。当時は1分2分の時間に追われた送迎であったが、今ゆったりとした気持ちで迎えに行けるのが嬉しい。

 3歳児クラスになってからは、娘の方が働き方を変えたので、迎えは月1、2回ぐらいなった。今年に入ってからは1回だけ迎えに行っただけだった。今日、久しぶりに迎えを頼まれた。園庭の片隅に鮮やかな桜が1本あり、毎年楽しんでいた。ちょうど咲いているだろうとそれも楽しみにしていた。案の定満開だった。ゆったりお迎えなので孫と一緒に桜の所まで行き写真におさめた。
  桜の種類はわからないが「艶やか」の一言。
「あと2回桜見たら、もう小学生やな、早いな」とつぶやいたが4歳になったばかりの孫には意味はわからない。きょとんとして笑っていた。
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