西南戦争歴史講座 第3回(20151011)
於玉名郡玉東町中央公民館
講師:日向市立図書館館長 緒方博文
旧日向国6藩における諸隊の初動と
宮崎における戦場、官軍少佐迫田鉄五郎(鉄はややこしいほうの字です!)
の最期などについて講演されました。
宮崎では、
山岳ゲリラ戦を続ける”逃げる西郷軍”と”追う官軍”という構図。
日向の戦場となったところの薩摩軍の動きなどについて
熊本では、なかなか普段は聞けないお話でした。
宮崎での主戦場は小林から宮崎市へ移り、
さらに北上して延岡へ・・・・。
西郷隆盛が初めて陣頭指揮を執った和田越、
追い詰められて、
8月16日「解隊」布告を発した俵野(ひようの)。
この時愛犬4頭も解放したそうで。
最終決戦地である、北川町俵野(ひょうの)
から迫田鉄五郎が戦死した可愛岳(えのだけ)突破(8月17日)の時のこと。
薩摩軍前軍の辺見十郎太が「迫田、おまえになにができる!!」と言って
切りつけた?!とか・・・・。
迫田は、西郷さんの膝に抱かれたりしていた
薩摩武士だったそうで~。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
玉東町に入る前に、田原坂公園に行きました。
ここは一の坂、二の坂、三の坂がある小高いところで
薩摩軍と官軍の激戦地のひとつ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/83/06a3833d0a21fdc568c98315d77a3e27.jpg)
弾痕の土蔵家(復元)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/85/2f1408250d5459b8e6befbe7da32b990.jpg)
美少年の像
雨は降る降る じんばは濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手(めて)に血刀(ちがたな)
左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな 美少年
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/24/71314cc6bf91d0513c812762ddb5731e.jpg)
水原秋桜子の句碑
大綿や古道いまも越えがたき
辺見隊守りし嶮ぞ烏瓜
吉次越狐の径となりて絶ゆ
他にも、句碑や歌碑があります。
吉次峠は地獄峠と言われるほど恐れられた戦場。
官軍は田原坂攻略のため、玉東町二俣に砲台を築き
要衝となった横平山を警視抜刀隊に攻撃させたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/13/cee7ce50a6bb3a79ae00a16f472eebde.jpg)
西南役戦没者慰霊之碑
薩摩軍総勢約3万人、官軍約6万人
計9万人のうち戦死者約1万4千人と言われています。
碑の後方には双方の戦没者の名前が刻まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/fe/d31b1f5a3b7c4ce0396271ba24d3659f.jpg)
豊岡眼鏡橋
(官軍はこちらから攻めのぼり、田原坂で激突)
植木や玉東のこの辺り一帯は
薩摩軍と官軍が陣を構えた激戦地ばかり。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/bd/11a2f45335d7923963d63653c54ef3f8.jpg)
初期の石橋造りの特徴である石の楔が
輪石に打ち込まれている。
七本官軍墓地
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/ba/5d586b2b650818cf2981d09e04ee1d70.jpg)
階級によって墓石の大小がある。
*日本赤十字発祥地と言われる・・・
元老院議員佐野常民が田原坂周辺の悲惨な状況に心を痛めて、
ヨーロッパの赤十字思想を導入し、敵味方の別なく救護をすることを提案した。
官軍総指揮有栖川宮の許可を得て、玉東町正念寺や徳成寺で活動を開始したという。
志高い有能な若年青年が沢山死に、
薩摩の顔見知りの侍同士、
同じ日本人同士の戦いで
西南戦争のことは知れば知るほど
切なく哀しくなります・・・
そしてなんだか
何かにとりつかれたような気分になり・・・・
~知青の5句~
新そばを食ふて波打つ田原坂
夕焼けて一の二の三のざわざわす
賊軍となりて鬼哭く険青葉
狐火を点す峠の不眠症
人魂のゆくえ蜜柑畑の黄の後ろ
征韓論についても色々議論があるとおもいますが、
(西郷は征韓論者ではなかった!)
西郷が下野したのはちょっといただけないなあ・・・・
また、反政府勢力となる不平武士などを
西郷が全て引き受けて死んでいった、
だから近代化の速度が速まったというような評価は
許せない気がする。
参考資料:「西南戦争ガイドブック 植木・玉東」
植木町・玉東町西南戦争遺跡群連携保存活用協議会編集
玉東町教育委員会発行
(282)
於玉名郡玉東町中央公民館
講師:日向市立図書館館長 緒方博文
旧日向国6藩における諸隊の初動と
宮崎における戦場、官軍少佐迫田鉄五郎(鉄はややこしいほうの字です!)
の最期などについて講演されました。
宮崎では、
山岳ゲリラ戦を続ける”逃げる西郷軍”と”追う官軍”という構図。
日向の戦場となったところの薩摩軍の動きなどについて
熊本では、なかなか普段は聞けないお話でした。
宮崎での主戦場は小林から宮崎市へ移り、
さらに北上して延岡へ・・・・。
西郷隆盛が初めて陣頭指揮を執った和田越、
追い詰められて、
8月16日「解隊」布告を発した俵野(ひようの)。
この時愛犬4頭も解放したそうで。
最終決戦地である、北川町俵野(ひょうの)
から迫田鉄五郎が戦死した可愛岳(えのだけ)突破(8月17日)の時のこと。
薩摩軍前軍の辺見十郎太が「迫田、おまえになにができる!!」と言って
切りつけた?!とか・・・・。
迫田は、西郷さんの膝に抱かれたりしていた
薩摩武士だったそうで~。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
玉東町に入る前に、田原坂公園に行きました。
ここは一の坂、二の坂、三の坂がある小高いところで
薩摩軍と官軍の激戦地のひとつ。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/48/83/06a3833d0a21fdc568c98315d77a3e27.jpg)
弾痕の土蔵家(復元)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0d/85/2f1408250d5459b8e6befbe7da32b990.jpg)
美少年の像
雨は降る降る じんばは濡れる
越すに越されぬ 田原坂
右手(めて)に血刀(ちがたな)
左手(ゆんで)に手綱
馬上ゆたかな 美少年
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/76/24/71314cc6bf91d0513c812762ddb5731e.jpg)
水原秋桜子の句碑
大綿や古道いまも越えがたき
辺見隊守りし嶮ぞ烏瓜
吉次越狐の径となりて絶ゆ
他にも、句碑や歌碑があります。
吉次峠は地獄峠と言われるほど恐れられた戦場。
官軍は田原坂攻略のため、玉東町二俣に砲台を築き
要衝となった横平山を警視抜刀隊に攻撃させたそうです。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/13/cee7ce50a6bb3a79ae00a16f472eebde.jpg)
西南役戦没者慰霊之碑
薩摩軍総勢約3万人、官軍約6万人
計9万人のうち戦死者約1万4千人と言われています。
碑の後方には双方の戦没者の名前が刻まれています。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/42/fe/d31b1f5a3b7c4ce0396271ba24d3659f.jpg)
豊岡眼鏡橋
(官軍はこちらから攻めのぼり、田原坂で激突)
植木や玉東のこの辺り一帯は
薩摩軍と官軍が陣を構えた激戦地ばかり。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/bd/11a2f45335d7923963d63653c54ef3f8.jpg)
初期の石橋造りの特徴である石の楔が
輪石に打ち込まれている。
七本官軍墓地
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7b/ba/5d586b2b650818cf2981d09e04ee1d70.jpg)
階級によって墓石の大小がある。
*日本赤十字発祥地と言われる・・・
元老院議員佐野常民が田原坂周辺の悲惨な状況に心を痛めて、
ヨーロッパの赤十字思想を導入し、敵味方の別なく救護をすることを提案した。
官軍総指揮有栖川宮の許可を得て、玉東町正念寺や徳成寺で活動を開始したという。
志高い有能な若年青年が沢山死に、
薩摩の顔見知りの侍同士、
同じ日本人同士の戦いで
西南戦争のことは知れば知るほど
切なく哀しくなります・・・
そしてなんだか
何かにとりつかれたような気分になり・・・・
~知青の5句~
新そばを食ふて波打つ田原坂
夕焼けて一の二の三のざわざわす
賊軍となりて鬼哭く険青葉
狐火を点す峠の不眠症
人魂のゆくえ蜜柑畑の黄の後ろ
征韓論についても色々議論があるとおもいますが、
(西郷は征韓論者ではなかった!)
西郷が下野したのはちょっといただけないなあ・・・・
また、反政府勢力となる不平武士などを
西郷が全て引き受けて死んでいった、
だから近代化の速度が速まったというような評価は
許せない気がする。
参考資料:「西南戦争ガイドブック 植木・玉東」
植木町・玉東町西南戦争遺跡群連携保存活用協議会編集
玉東町教育委員会発行
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