続・知青の丘

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「石橋を訪ねて~国宝通潤橋と手永の石橋群」その2(2023年11/16菊文研日帰り研修旅行)

2023-11-26 21:35:43 | 古墳・菊文研
通潤橋の放水(この写真も以前に撮影したもの)

通潤橋を下から見上げると↑です。
五老ヶ滝川の水面から橋の上までの高さは約20.2m

上の方(吹上口の方)から橋を見おろすと↓
3本の通水管があります。
このような通水管を漆喰で繋いで
水路としています。

1本が何らかの不都合で使用できなくなった時のために
3本(写真で分かりますね)になっているそうです。
写真奥が取入口の方で
手前が吹上口。
水路の長さ約123.9m
橋の長さ約76.0m
取入口と吹上口の高低差約1.1m
石造アーチ架橋サイフォン式という
サイフォンの原理を利用して、高いほうへ水が吹上げられます。


こちら(吹上口)側に白糸台地があり、給水されます。
通水管をつなぐ漆喰を作っていた小屋(写真左上)があり
当時の道具が雑然と保管されていました。



取入口にいたるまでの水の取水は笹原川上流。

このような水路が円形分水盤まで続きます。
(↓は、笹原川の堰)


水路を通って来た水はここで葉っぱなど除外されて
分水盤へ

分水盤と銀杏落葉

ここで、2か所に分けられる。

通潤橋から約6キロの地点にあります。
水路の総延長は、約30Km

(このブログで用いた数字は全て、
頂いた資料に拠ります)

その1で書きましたが、
こういうインフラは
手永会所(今の市役所や役場のようなもの)に
蓄えられた会所銭で賄われたということでした。

この会所の統括は惣庄屋で、
藩からの命令で赴任、転勤もあり、
地方公務員みたいなものでしたが
半官半民だったということです。

さらに、
この会所は警察の役目も果たし、
留置所に相当する施設もあったそうです。

白糸台地に水を送るために尽力した
惣庄屋・布田保之助が祀られていました。
布田神社↓


今回は、
通潤橋の水路の仕組みや手永制度について
学びが沢山あり、
今までの謎が解けた感じで、スッキリ~

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「石橋を訪ねて~国宝通潤橋と手永の石橋群」その1(2023年11/16菊文研日帰り研修旅行)

2023-11-24 20:27:30 | 古墳・菊文研
ブログUPを随分空けていたような~

俳句大会を無事終えて、
規約改正に係る文書を3通作成し
九州各県会長・事務局長に郵送して
菊文研の日帰り研修旅行に行って
韓ドラの時代劇が面白くて
「快刀ホン・ギルドン」や「100日の郎君様」等を一気観して
解放感に浸っていました。

その間、
添削の俳句仕事はきっちりとしていましたし、
『豈』66号も届きました。
『連衆』99号への俳句作品も書いていました。

『豈』には、
「私の雑誌」特集で小誌『We』も2ページ書かせてくださいました。
よかったら、本屋さんで購入できる?と思いますので
読んで頂きたいです。

さて、今日は、
早く菊文研の旅行時の写真を少しUPしておかねばと
やっとその気になって~

三由橋(みつよせばし、宇城市、1830年)
本来ならきれいな石組が見られたはずですが
草刈りが一週間後とかで、かわいそうなスガタ・・・

薩摩渡し(宇城市、1832年)
この橋でも、二俣福良橋(美里町)のように
季節によってハートの陰影ができるそうです。

霊台橋(れいだいきょう、美里町、
1846~1847年にかけて7か月間ほどで完成)

(この写真は今回のものではなく以前に撮影)
緑川本流に架かる日本最大級の単一アーチ式石橋。
昭和41年に、少し上流に鉄橋ができるまで、

車やバスが通る現役の橋として使用されていたそうです。
昭和55年に修理完了。
銅製の板碑に色々記載があります。

この橋について
今回の研修で初めて知ったことは
手前の袖石の先にある穴が
実は、森林鉄道のトンネル跡ということ。
昭和27年廃線により封鎖されたようです。

人手不足なのか財政難なのか
美しい筈の石橋が草にまみれていますね~

当時だったら
手永制度があったので惣庄屋の指揮のもと
道路や橋の工事・管理も上手くなされていたのでしょうかね。
資金は、惣庄屋の私財ではなく
手永会所に蓄えられていた会所銭
だったということでした。

引率は、県立古墳館の坂口副館長と矢野課長でした。
彼らは、こういう時は添乗員みたいに動いてくれますが
実はかなりの研究を積み上げてきておられる方々で
聞けば、通説や仮説、自説などお話してくださいます。

このつづきは、
今年、国宝に指定された通潤橋のことなのですが
「その2」でUPします。

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『松下けん全句集』(2023年10月刊、ジャプラン)

2023-11-11 21:41:07 | 俳句

全句集(箱付き)ということで、
昭和三、四十年年代の句から近作まで
膨大な数の句が収録されている。

この全句集には、
高岡修の論じた
「破水する言葉の世界―松下けん論―」が併録されている。
これによると、
松下けんに影響を与えた俳人は、
藤後左右(「京大俳句」創刊メンバーだが、「京大俳句事件」からは免れている)、前原東作、岩尾美義という鹿児島出身の三人らしい。
この三人の俳句と
それぞれの俳句手法に影響を受けた
松下けんの句を挙げ論じられている。

鹿児島には、昭和30年代から
現代俳句の土壌が在って、羨ましいと思う。

あとがきから、正直で飄々としたお人柄を思った。

1937年鹿児島市生まれ、同市在住。
鹿児島大学文理学部文学科卒業後
(どうも大学の先輩のようです~)、高校教師。
現在、「天街」代表。

余りにも句が多いので、
近作だと思われる「妄老記」より
413 兵という言葉忘れていた師走
407 月蝕の色真似ている紅葉山
405 軍帽の遺影へ無意味な水中花
403 信じることは甦ること春弥生
402 囀りの主は蘇生の眼窩たち
389 かふぇにきて歪みはじめた春愁い
387 有耶無耶に令和始まり冴え返る
381 左右忌の溶岩はいまでも気難しい
377 春浅し濡れ事遠のく有袋類
368 生絹を着て死者はそのまま深眠り
367 傾奇めく溶岩のみごもる夏の詩
361 笑う山を車窓に遊ばせ缶珈琲

囀りの主は蘇生の眼窩たち
「囀り」から「蘇生の眼窩たち」への転じ方は、
まず自分にはできないなと思った。
自分の中の眠っていた何か、
それは器官なのか精神なのか分からないが、
なんとなく呼びかけられ呼び覚まされるような感覚に襲われた。
(敬称略)

御恵贈ありがとうございました。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
(この花の名前は何でしたっけ?)

やっと、本日、来年1月1日より適用の
九州現代俳句連合会規約(従来の規約の改正)を
送付書と10月21日会議の議事録を添付して
各県会長と事務局長に郵送した。
もうこれで勘弁!

(白菜は台所に立てて置く)

この作業の途中で思わぬ事態が生じ
腹も立ち、ほとほと閉口したが、
もう
これで終わりにしますよ。


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俳句短歌「We」第16号より俳句エッセイ 「鴇色の画家 ― エゴン・シーレのこと ― 」男波弘志

2023-11-04 20:41:40 | 俳句
 鴇色の画家 ― エゴン・シーレのこと ―  
                                  男波 弘志  
この画家の存在をはっきりと心に刻みつけたのは、ある俳人から送られた絵葉書であった。差出人は、写実という方法論を専らにしていて、常に確かな描写力で堅実な一行詩を創りつづけている人なのだが、何故、エゴン・シーレなのか。  
私は数日の間不思議な心持ちのまま、空の碧を眺めたり、川面に流れている夕日を観たりして過ごしていた。あの絵葉書が雪舟の水墨画であったなら、私の心が何かに奪われたり、失いかけたりはしなかったであろう。  
エゴン・シーレの絵を観るとき、他の画家にはある奥行、空間、線描が完全に取り払われる。そして、ある一つの感情だけが剥き出しになってこちらを凝視するのである。奥行はあるとき平面となり、空間は点になり、線描が闇に溶け出して失くなっている。ここに残るのは色のみである。赤とも朱とも鴇色ともわからぬ色、ラピスラズリともウルトラマリンともわからぬ少女の瞳、これらの顕かな色使いをもって、シーレの色が華やかであるとはどうしても言えないのである。印象派の絵画にあるような外界との交歓が、完全に遮断されているのだ。色は、そこに描かれた裸体、家、子供、樹木等、そのものの内面へ内面へと潜り込んでいく。従って我々は、シーレの残した色を外界の光の中では観ることができない。この色の所有者は外側 
にあるのではなく、モノの内側にあるからである。  
殊に名高い「ほおずきの実のある自画像」だが、シーレは何のためにほおずきを描いたのであろうか。自己を対象を彩る色を持たないシーレが、ほおずきの色に何を託したのであろうか。ほおずきの実を含み鳴らす為には、その実を覆っている朱色の果皮から取り出さねばならないなのだが、それをするためには先ず、果皮の回りを指先で押しながら実の全周を丹念に愛撫するのである。しだいにやわらかくなっていく実を果皮から押し出すとき、極度の緊張を強いられる、ここで拒否されるか、肯定されるかは、果実の機嫌に従はなければならない。強く押し過ぎても中で破れてしまうし、弱く押していても果実は外へ顔を出してくれない。絶妙な指使いと息使いとが相俟って中の実はそろりと出てくるのである。 
シーレが遺した夥しい数の素描画はその多くが裸体画である。しかも十代の彼が最初に衣服を脱がせた女は実の妹であった。その後は師匠クリムトの恋人、家出した少女、町の娼婦、妻自身と、その妻の姉妹、女を言葉巧みに懐柔し、一枚一枚衣服を脱がせることは、ほおずきの実を果皮から取り出す行為そのものであろう。しかもこのほおずきの笛を唇全体をふるわせて含み鳴らすと、印度孔雀に似ただみ声を、だらしなく辺りかまわずに漏らすのである。これは紛れもなく衣服を剥ぎ取られた女達の嗚咽であろう。ここに描かれたほおずきに、日本の原風景の中にある、やわらかな情緒を感じてはならない。むしろ哀しみの底にある女の絶叫をこそ聴くべきであろう。  

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我が家からそんなに遠くない土地持ちさんが
アサギマダラを呼びこもうと、フジバカマを植えて
かつ卵を産むという鬼女ランも植えて
私もその話を聞いて待ちに待っていて
10月中旬に見に行ったら、まだだということだった。
でも、もう、ことしは
11月になっていてフジバカマの花も終ったことだろう。

鬼女ランの好む環境を整えて
春頃植えられたのだが・・・
鬼女ランの白い花
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