続・知青の丘

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

俳句短歌誌『We』18号より「前号短歌評」

2024-11-08 16:50:55 | 短歌
<<前号短歌評>>

(2024年11月07日 16時56分)

 *北辻 一展・評者

父親も夫も息子も警察官二人の境遇良く似てる
芳樹 景子
「友来る」という連作の一首である。旧友が二人鹿児島にやってきて観光をしながら近況を話す。友人二人とも、父親、夫、息子が警察官だという。面白い家系である。散文になっているところが少し残念であった。警察官一家として、友人二人に共通する面白い点があったはずなので、そのような点に焦点を当てて詠むと歌がより引き立ったのではないだろうか。

鐘の音は楽しみ探しゆくかたち今日の紅葉明日は散りゆく            加藤 朱美
夕方に寺の鐘の音があたりに響き渡る。「楽しみ探しゆくかたち」は不思議な表現で惹かれた。鐘の音がよく響いており、好奇心旺盛なこどものように元気なのだろう。鐘の音はもちろん見えないが、「かたち」というのもその存在感から頷ける。鐘の音は、その地域に楽しいことがないか探してまわるように広がっていく。奇しくも、そろそろ紅葉が散り始めの頃となり、鐘の音も今年最後の紅葉を愛でているのかもしれない。

イザナギやイザナミのイの母音どこかでなにか始まる呪文
加藤 知子
古事記で有名なイザナギとイザナミの国産み、神産みの物語。作者は直感で、イの母音に何か霊性が宿っていると感じている。とても面白い気づきである。調べてみると、本居宣長は、「いざな」は誘うに由来するのではないかと説いている。イザナギは死んだイザナミを追いかけて黄泉国までやって来る。死体である体を見られたイザナミは怒って大軍でイザナギを追いかける。イザナギは黄泉平良坂で追っ手が来られないように大岩で道を塞ぐ。「イ」の母音は黄泉国へ誘う恐ろしい呪文なのだろうか。

砂を撲(う)つごとくに朱夏の陽暮れゆきぬ慟哭すべき別れなき身に    
山口 雪香(織江市改め)
連作は、作者独自の世界観に満ち溢れている。この歌では、砂漠を想像してみた。夏の暮れの太陽は、砂の地面を撲って慟哭するような感情の高ぶりがあると詠んだ。この表現はとてもよかった。太陽がそのように感情をあらわにして暮れてゆく。その一方で、自分には慟哭するような別れを経験したことがないという。自然あるいは世界と自分との距離感を感じている。

*斎藤秀雄・評者

イスラエルは嫌いと電話くる友怒りの矛先我に向く
弟子丸 直美
 ガザにおけるジェノサイドに怒る《友》。最終的に《友》は《怒り》そのものに、独特の存在感を湛えた《怒りの矛》に、一個のかたまりに、変成する。本作のユニークな点は、《我》の知覚領域に対してありありと現れてくる《友》の、強烈な存在感が、《電話》という遠隔的なメディアを経由している点だろう。《友》は声として、眼前に到来する。連作の次の作では《同じ思いと》伝え返すことになるが、《友》の声のみを一首にした本作に、独立した詩情が宿る。

好きなもの夕焼けよりも朝焼けよコンビニパンはこのハムチーズ          てらもと ゆう
 感傷的なニュアンスのこびりつきがちな《夕焼け》よりも、晴れやかな「始まり」を感じさせる《朝焼け》を好むという語り手。下の句のカタカナの多さが、軽やかな気分への「意志」を感じさせる。また、《コンビニパンは》に、とくに《は》に、よろしさがある。おいしい《コンビニパン》は数あれど、私は《このハムチーズ》が好きなのだ。《ハムチーズ》の食感、匂い、色彩が、やはり「始まり」を感じさせて晴れやかだ。

時間かけカマキリ進む足元に夕日が射して茜に染まる                 永田 義彦
 老いをテーマとした連作「喜寿の会」のなかにあって、本作は寓意的な趣をもつ。本作の次の歌には、この《カマキリを見つめるカラス》が、寓話的なニュアンスを湛えて登場し、必然的に「死」が迫る気配を感じさせる。《夕日》の《茜》が晩年を彩るものだとしても、しかし《時間かけ》《進む》ことにより、《カマキリ》は今まさに生きている。生の「いまここ」を、喜寿を祝うように寿ぐ歌と読んだ。

使ひ切り書けなくなりし芯を抜き新しい芯を入れ終はりたり               服部 崇
 連作には魅力的な作品が並んでいるが、シャープペンシルの芯を入れ替えるという徹底してミクロな動作にとどまった本作は、一種異様な感触を湛えている。古いものが捨てられることは寂しいようでもあり、しかし同時に新しいものが入ってくる様は清々しくもある。《芯》同士はバラバラなのに、詠みぶりは継ぎ目がないようであり、ぬめりのようなものさえ感じさせる。動詞の多用によって、「いま」が時間をかけて、読みの空間に連続して到来してゆく。
不動のモノがある、というリテラルな歌意と、ぬめりに満ちた読後感との、不思議なギャップが、魅力になっている。

*服部崇・評者

翡翠は電波に乗りやすき鳥ならん川へと皆が携帯向ける
北辻 一展
 冒頭の「翡翠」はカワセミの別称である。カワセミは「翡翠」の名のごとく綺麗な色の羽を有している鳥である。「電波に乗りやすき鳥」とは如何なることかと読み進めると川縁にその姿を写真や動画に収めようと大勢が携帯電話のカメラを向けているところであることが明らかになる仕組みとなっている。携帯電話のカメラで撮影されたカワセミの写真や動画はアップロードされて電波に乗ってインターネット上をさまようことになる。

淡雲に日の滲みたる空の底ミルクのごとく人流れゆく
斎藤 秀雄
薄い雲に覆われている空からは日の光がうっすらと透けて見える。地上を「空の底」と表現したのが妙味。その「空の底」を大勢の人が歩き去って行く様子を液体のミルクに喩えているところも独特である。コップが倒れてミルクがテーブルに流れ出てしまったイメージ。行く人々はこの一首では液体と化している。淡雲のかかった空の色とミルクの色とが淡く混ざり合っている。

カーテンのそよぐ隙間に影ひとつ頬切る沈黙輪廻のかけら                   阪野 基道
 そよぐ風にカーテンの裾が動き、そこに影ができる。ひとり部屋にいる作者は沈黙の中にいる。「影」を見つめる状態から「沈黙」という音のない世界へ移行する。「頬切る」という身体表現が現実的な手触りを読者にもたらしている。作者は、結句に至って、そこに「輪廻のかけら」を見いだした。三句切れに加えて、四句切れとなっているのだろうか。あるいは沈黙が「輪廻のかけら」なのか。難解ながらも一首の展開に引きつけられた。

イベントが終わればすぐに散歩する、あの物件は未だに残る                  西田 和平
「令和5年のおわりに」と題された一連は口語、日常の日記風。この一首のイベントとは、作者が準備に携わった俳句大会のことを指す。俳句大会は「笑顔があふれて」いた模様で成功裡に終わったようだ。俳句大会を終えたところで、この一首の場面に来る。何をするかというと、「散歩する」のである。それも「すぐに」である。下句で登場する「あの物件」。作者は俳句大会の準備をしている間ずっと気になっていたのだろう。作者は引っ越しをするのだろうか。この一首のあとでは「近所の人と会話」して「外構補修」をすることとなる。


コメント (2)

『We』第17号より 山口雪香第一歌集『白鳥姫』を読む 加藤知子

2024-04-24 19:53:00 | 短歌
『白鳥姫』のたてがみ      加藤 知子

『白鳥姫』は、第16号より「We」に参加された山口雪香さんの第一歌集。表紙絵も挿絵もご自分で描かれたものだ。チェロを抱えてひとり語りされるYoutubeも拝見した。2023年8月には、小泉八雲原作から「二つの約束」と題し、三味線夢語りライブをされた模様。あまり存知あげないが、どうも多彩多才な方のようである。

水くぐる指紋よ猫の肉球の無垢なるうそを捺して生きつつ

 詩人や小説家など、文学を業とする芸術家は、モノ書く素材を携えた掌の指紋を押し付けるように、「無垢なるうそを捺して生き」ているのではあるまいか。そうしつつ、読者という水をくぐることによって、評価を受けることにもなるのだろう。

天を指す虹のたてがみこぞりたち真野明け映ゆる夏のひかりよ 

 虹をたてがみと見立ててかつそれは天を指すという。この詩魂に圧倒されるが、これこそが、おそらく常に満を持してエネルギッシュかつ多彩にものごとに奮い向かってゆく作者の源なのだろうとおもう。

通り雨薄荷のごとく匂いたつ肩うすき少女の髪まだ乾かず

 いつまでも少女のような匂いを保ち、濡れた長い髪は黒黒として雫する。そんな常乙女像を作者に観てしまう。

ゆるやかに地上抜け出す肉体のけもの忘れて白鳥座かな

 この作者の身体も石牟礼道子と同様、まるで「たかざれき」しているようだ。肉体からふわーと魂が抜けて天上に遊ぶ。そこは白鳥座の館に住まう白鳥姫。ひとり語りされる舞台上の山口雪香さんは、竜宮殿の王女のようでもあり、巫覡のようでもある。

下着剥ぐ少女は天を記憶して鶏冠のやうに華を降らせり

 地上と天上を行き来する少女は、下着を冠の形に脱ぐときも手の先は天を意識しつつ、その周りからは赤い花びらがこぼれ、降ってくるごとくなのだろう。

夜桜や腹部にしやがむ夜叉もありきと今昔死体は夢のみなもと

 姫にも夜叉にもなって、今昔を問わず死者と交感するのが「夢のみなもと」なのだというのだろうか。この場合、生者の生きる糧は、死者なのであるが、死者とは言わず、生々しい「死体」なのだという。それは、死者に昇華される前の、まだこちら側に親しくひんやりとした人間の身体なのだ。
 この歌に限らないが、独特の異邦人的な捉え方が山口雪香の短歌なのだと思う。彼女が短歌で奏でる領域は幅広いのだが、他に共鳴した短歌を一部挙げておきたい。

つばめ一閃少年のくびは細きかなトルソのペニス欲しきまひるま
白妙の空曇らせて呑み残す乳房いきものを知る目覚めかな
白銀の静かに炎ゆる洗ひ終へて手重り髪はしひたげて干す
手のなかに花を埋めしなつかしさを別れと言わむ空白のある
ふつくらと莢を抱きたり昔今我よりきれいな女はゐない
(現代短歌社、平成26年刊)

(2024/04/22)
我が家のでもなく、ご近所のでもない
他所の薔薇!

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Weの参加同人の方で、
『We』掲載の中から
拙ブログにUPしてもいいよ
又は、UPしてほしい
というのがあれば
ご連絡ください。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
Weへの問い合わせは、

只今、Xのほうはお休み中なので
DM返信もお休み中。
参加費は1回毎に3千円(含2冊配布)。
18号締切は
6月10日となっています。
よろしくお願いします。


コメント

服部崇歌集「新しい生活様式」評(『We』15号)By斎藤秀雄

2023-04-26 12:37:58 | 短歌
一昨日、昨日からの菜種梅雨がきょうは止んで
晴れ間が見えてきた。
12時過ぎの外気温17°cだけど
エアコン暖房はオン(ナントナンジャクナ!)。

先程まで
株式会社ispace(代表取締役:袴田武史
2023年4月12日に東京証券取引所グロース市場へ上場)の
記者会見ライブをネットで観ていた。

袴田さんはじめ3人の方が出ていて
素人にもとても分かり易い説明であったと同時に
技術者として誇りと誠実味のある会見で
気持ちのいいものであった。
技術面の説明を担当していた氏家亮さんの涙は
微笑ましかった。

民間企業での月面着陸(ミッション1)と
その後に描く地球人の月での生活を見据えたものらしい。
今回のはサクセス8までで
着陸は失敗し、今後の課題は大きいものの
得られたものが多かったというものであった。

心からエールを送ります!!
いやいや投資しないと
実のある応援にはならないかな。




それはさておき、
昨日からはなんとなくなぜか
斉藤和義の歌気分になって
YouTubeで「やさしくなりたい」や
「 歌うたいのバラッド」を聴いている。 

「斉藤」と月での「新しい生活様式」つながりを
意識したわけではないのだけれど
斎藤秀雄さんに拠る
服部崇歌集「新しい生活様式」評(『We15号』)を
アップしておこうと思う。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

服部崇歌集『新しい生活様式』を読む
 偶発的必然について         斎藤 秀雄

 この歌集評を書こう、という段になって、「あとがき」の余白に私の文字で「偶発的必然について」と記されているのをみつけた。本書を何度か読むあいだに、過去の私が、そう書きたくなったのだろう。過去の私から、いまの私への手紙のようだ。本書を通読すると、このテーマ、ないしアイディアを私にもたらしたとおぼしき歌が三首ある。

わが母が母となりたるこの場所を必然として台風の過ぐ
窓の外を黒き鳥あまた飛びゆけり鳥は如何なる必然を為すか
鯛焼きの鯛のかたちに必然はありやなしやと列へと並ぶ

 たった三首、とはいえど、やはり《必然》の語は、それぞれの作品においてなにがしか異様な感触を湛えている。一首目、《必然》的なのは語り手の出生地とも、《台風》の進路のこととも読めるが、同時に双方を意味しているのだろう。語り手にとって《この場所》は《必然》であるが(語り手は《わが母》以外からは生まれ得ない……言葉遊びのようだが)、《母》にとって妊娠出産の時期・場所、パートナーは偶発的なものだろう。つまり【必然的である事柄の、条件はつねに偶発的】である。一首目は、このテーマがもっとも明白に現れている作品。二首目。《鳥》は、約六五五〇万年前の大絶滅(生物の九九%以上が死滅した)を生き延びた、恐竜の唯一の系統群であるが、生き延びたことにはおそらく、進化論的に説明可能な必然性があったのだろう。しかしこの作品が歌うのは「鳥を為す必然」ではなく、「鳥が為す必然」である。例えば他の生命にとっての環境的条件(ウィルスの運び屋となるなど)を、《鳥》は為してきたし、今後も為すだろうけれど、そうしたたぐいの《必然》が想定されているような気配はしない。というか、何事かが想定されているという気配がない。ただ不気味に《必然》という文言が、物質的に鎮座している。三首目となると、シリアスな思考の照準を離れていることが明白になる。《鯛焼き》の発祥については諸説あるが、大判焼きとは異なる、興味をそそる形状をしていれば、それは《鯛》である必然性はなかったのではないか(たぶん)。むろんこうしたことを考えても詮無いことであって、《列へと並ぶ》ことがなにより大事なことだ。
 ある事象が必然的なのか偶発的なのか、判別しかねることが問題なのではない。必然性の前提となる条件が、そもそも偶発的であるという、「底が抜けた」感覚が、問題なのだ。現在、地球に生物がいることは、必然かもしれない。アミノ酸が誕生したのだから、長い地球の歴史のうち、地表を生物が覆う時期があってもおかしくはない。が、そもそもアミノ酸が誕生すること自体が、必然的どころか、気が遠くなるほど確率の低い事象である(地球外に生命体はいない、という主張の主な理由だ)。「この宇宙」がこのようであることは、必然的かもしれない。が、「この宇宙」が存在すること自体は、偶発的なことである。こうした感触は、あるいは次のような作品にも読むことができるかもしれない。

いにしへのころより路は斑猫にしたがへばよし晴れてゐる日は
卵焼く午前七時のフライパン明日地球は消えてなくなる
欄干が崩れ落ちれば寄りかかるわたしは河を流されてゆく

 一首目。《斑猫》は、飛ぶ仕草が道案内をしているようだから「道おしえ」とも呼ばれる昆虫。ここでは偶発性へと思い切って心を傾けている。「つらい偶発性」に耐えるには、偶発性を受け入れるというのも、《いにしへ》からの教訓かもしれない。二首目。可能性としては《明日地球は消え》るかもしれない。ここではその可能性に怯えているのではなく、むしろ可能性としてはあり得るのに、ほとんどそうしたことは起こらないだろう、という軽い諦念がある。三首目。滑稽な詠みぶりだが、AすればBする、という単純な条件分岐(=必然性)に頼らなければ、偶発性に満ちたこの世は生き難いともいえるだろう。
 本歌集には、《必然》に限らず、複数回用いられるモチーフが他にもある。例えば「鼠と回し車」(《丸い輪を回してゐると知りたるやひもじきハツカネズミとわたし》《ざんばらりざんざんばらりざんばらり二十日鼠が回転をする》)には、語り手の疲弊感がにじみ出ている。この《輪》というものの偶発性が、「つらさ」として感受されている。あるいは「ビニール傘」(《言ひ訳を重ねかさねて生きてきたビニール傘はたたまずにゐる》《コンビニのビニール傘を日が透けて美しければたたまずにゆく》)には、大切な、代替不可能な固有のものではなく、大量生産の、名も無い、取り替え可能なもの(=偶発的なもの)への愛が暗示されている。
 そしてまた、地名が頻出する、というのも本歌集の特徴だろう。「本省の命」によって、服部さんは世界各地を転々とする。パリ、東京、京都。まるでロードムービーを見ているようだ。私はロードムービーが苦手である。エピソードがオムニバス的に連なりがちで、ストーリー全体の必然性を見出すのが難しいからだ。と書いてみて、服部さんが《必然》(そしてその裏面としての偶発性)というモチーフを抱えている理由が、なんとなく腑に落ちる。むろん独り合点だろうけれど。
 本歌集には、私好みの佳作が多く収められている。《透明な鹿はとほらず庭さきに白きけむりの立ちのぼる朝》《門番はひとりひとりのてのひらにクリームを塗る何も告げずに》《もう少し血をほしがつた看護師はあと少しといへり左の耳に》など。こうした作品に触れられなかったのは心残りだが、この文章を書かざるをえなかったのは、私の必然である。

(著作権上、本人了解は取ってあります)

*俳句短歌誌『We』への参加や購読などについての
お問い合わせは次へ


コメント (2)

短歌俳句誌「We」より<4月15日>の一首(第4号)

2020-04-15 21:25:45 | 短歌
釘箱の釘に紛れて花びらは
驚くほどの鈍色になる  斎藤秀雄

桜の花びらが散る季節になると
この斎藤さんの歌を思い出す。
ツイッターで
この短歌を知って、
小誌「We」にお声掛けしたからだ。

正直に言って、
彼の俳句より短歌が好きだった。
他に次のような歌も寄せてくれた。

無調整豆乳といふ破裂せる
乳房のごときもののうたかた
   
銀色のバトンが飛んで輪を
つくり金色の鍵たくさんこぼす
     
淋しいとラジオが沈む海があり
胎内が星くずで満開
     
西風が火照つた頬へ猥褻に
ジャブ喰らはせてくる猥褻に
コメント