短詩グラマトロジー 第十一回:字謎
斎藤 秀雄
この連載でいつも参照している中村明『日本語の文体・レトリック辞典』(東京堂出版)によれば、「字謎」とは「アナグラム」の訳語のうちのひとつである。ところが、「アナグラム」の項目においては、これがanagramからの外来語であるとしながらも、「字謎」の項目においては、原語としてrebus(判じ物)が示されており、必ずしも一貫していない。
私の言語感覚からすると、「アナグラム」と、これからみていこうとする「字謎」とは、じゃっかんニュアンスが異なる。具体的に短詩の例をあげて、みておきたい。三好達治の『測量船』(昭和五年)から、「郷愁」を引く。
蝶のやうな私の郷愁!……。蝶はいくつか籬(まがき)を越え、午後の街角(まちかど)に海を見る……。私は壁に海を聴く……。私は本を閉ぢる。私は壁に凭れる。隣りの部屋で二時が打つ。「海、遠い海よ! と私は紙にしたためる。――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」
魅力が詰まった作品と思う。壁に海を聴く語り手。街角に海をみる蝶。この蝶は語り手の郷愁の比喩である、という。さらに、鉤括弧の不思議な使用。「海、遠い海よ!」と閉じてよさそうなものだけれど、海と母、そしておそらく「仏蘭西」という固有名までが、語り手の「郷愁」に含まれている、ということなのだろう。字謎はこの括弧の内側にみることができる。「海」には「母」が含まれ、mère(母)にはmer(海)が含まれている、というわけだ。「母」は乳房をもつ女、「毎」は髪飾りをつけた女の象形文字。「晦(くらい)」という文字があるように、「海」はくろぐろと深い、暗黒世界を意味する。この晦さもまた、郷愁の陰影に通じるだろうし、母の内の海となれば、なおさらであろう。
一見して、ここには「洒落た感じ」「気の利いた感じ」があるけれども(「嫌味な感じ」を読みとってもよいだろう)、この「感じ」は詩情そのものとは言い難い。が、詩に関連付けられる何かが立ち上がっているとも感じられる。もちろん、作品ぜんたいとの関係において、のことだとしても。
対して、例えば「おとこがきえる」と「おとがきこえる」はアナグラムである。面白いものではあるし、やはり何かが立ち上がっている感じもする。この「立ち上がり」のメカニズムが、字謎の場合とアナグラムとの場合とで、同じものなのか、似たものなのか、異なるものなのか、判然としないし、判然としなくともよい。読者の読みの空間において、このふたつは、詩の中心であるわけではないにしても、少しのニュアンスの違いを備えることになると私には感じられる。ありていにいえば、アナグラムは字謎よりもより「無意識に効いている」ようにも思うし、しかしそれは種明かしのあとの事後的な効果なのかもしれない。いずれの場合でも、「たんなる判じ物」として向き合うならば、詩にはいささかも関わり合いがないという点においては、共通しているといえるだろう。
短歌の例をみよう。
聶(ささや)くより囁(ささや)くはうがそれらしい咡(ささや)くがたぶんいちばん近い 永田 和宏
「あ」の中に「め」の文字があり「め」の中に「の」の文字があり雨降りつづく 鈴木 加成太
一首目。連作「聶く」『短歌』二〇二一年八月号から。「ささやく」の読みを持つ文字を列挙し、ひとつの「口」とひとつの「耳」が《いちばん近い》と首肯させる。他に「咠」という文字も「ささやく」と読むが、やはり横並びになるほうが《近い》のではないか。連作では、ひとつ前に《耳三つやつぱりあつた聶(ささや)くと言はれて耳を揃へる感じ》の歌がある。いわゆる「品字様」の漢字を発見した喜びをそのまま書く初句・二句が微笑ましいが、三句以降、「耳」が集う《感じ》から、聴覚領域への刺激が立ち上がっているといえよう。永田はこうした字謎の遊びを、諸橋徹次の漢和辞典と付き合うことで行っていると述べている(「漢和辞典に遊ぶ」WEB『塔短歌会』二〇二一年十月号)。
二首目。歌集『うすがみの銀河』から。同歌集には《「路」を「露」に「下」を「雫」に変えてゆくあめかんむりの雨季が来ている》がある。あまりに理路整然としてはいるが、字謎というテーマによりふさわしいのは、こちらかもしれない。対して掲歌は、よりシンプルかつ原始的にもみえるひらがなの内に字謎が見出されており、文字の呪術性・魔性が立ち上がっているように思う。むろん、仮名に真名は先行しているのだから、こうした感じ方は倒錯しているのだが。より「無意識に効く感じ」があるという点で、アナグラムとの共通性があるようにも思う。
俳句の例をみよう。
わたくしは辵(しんにゆう)に首萱野を分け 澁谷 道
英娘鏖(はなさいてみのらぬむすめみなごろし) 小津 夜景
一句目。作者名の「道」を字謎的に解し、座五で受ける。白川静によれば《古い時代には、他の氏族のいる土地は、その氏族の霊や邪霊がいて災いをもたらすと考えられたので、異族の人の首を手に持ち、その呪力(呪いの力)で邪霊を祓い清めて進んだ》(『常用字解[第二版]』、平凡社)とある。《わたくしは》という出だしも凄いが、手に首をぶら下げて道を切り開く語り手の覚悟・怨念が迫ってくる座五に迫力がある。
二句目。訓読みの長い漢字を用いた三文字俳句による連作のうちの一句。「はなさいてみのらぬ」の訓読みを持つ字には、他に「秀」がある。ふたたび白川静に依拠するなら、これは穀物の穂が垂れて花が咲いている形(一般に「秀」は会意文字だが、白川の説では象形文字である)。これが実ると「穆(ぼく)」(「白」の部分が実)となり、実が落ちると「禿(とく)」となる。花咲くときがもっとも美しいとされるから、秀でるの意味に用いられる。掲句ではおおむね似た意味の「英」が使われている。この字の音符「央」には《美しく、盛んなもの》という意味があるのだが、象形文字としての「央」は《首に枷を加えられている人を正面から見た形。(…)手や足ではなく体の中央に近い首に加える刑罰であるから、「まんなか」の意味となる》(同前)。「災い」「尽きる」の意味が削ぎ落とされ、「中央」さらに「美しい」の意味に転じてきたのだろうが、掲句において、「産むべき」という枷をはめられた娘たち、という本義を再獲得したといえよう。 (続)
いつの間にか、藤の花は終わり
ガガンボが止まっていました。
草臥れて宿かる比や藤の花
(くたびれてやどかるころやふじのはな)
芭蕉 『笈の小文』
一日の旅の疲れにそろそろ宿を借りてゆっくりとしたいものだが
藤の花も重たく垂れて春の憂いの中にいるようだ。
春の芽吹きや新緑の旺盛なさまに、気持ちは追い付いていかなくて
疲れるのだ。
もう晩春なんですかね~
今年も季節の何もかもが早く過ぎ去っていき
菜種梅雨とはいえ、
降り方が激しいときもあって・・・