続・知青の丘

写真付きで日記や趣味を書くならgooブログ

老詠むなかれ櫨もみじ櫨もみじ  松田ひろむ

2024-10-31 21:33:19 | 俳句
老詠むなかれ櫨もみじ櫨もみじ   松田ひろむ

「俳句四季」2024年11月号「巻頭3句」に
櫨もみじを謳った句があるとお知らせいただいた。

柿もみじでも桜もみじでも銀杏もみじでもなく
櫨のもみじというのが、
強い意思を伝えているように感じる。
リフレインもまた。
老いの矜持と受け取るべきか。

櫨の木はかぶれるので
幼い時から気をつけるように言われていたが
離れて見るだけ。

きょう、
買い物に行くときに県道337号沿い
(旧豊後街道)の櫨を見たら
まだ紅葉には遠かったが
このところの冷え込みが続けば
きっといい色に色づいていくだろう。
そして、
紅葉かつ散れば
待ちに待った
焦げ茶色の櫨の実だけが
冬の虚空に
びっしりとうつくしく
その小房を垂れているだろう。

(狭庭のノコンギク)

Wikipediaによれば、
松田氏は
御年86歳の俳句先輩のようです。

そうなんですね、
こころします。
殊更に
老いは詠むべきじゃないんですね。
元気もらいました!


コメント

情死一擲その後②(松田ひろむ氏Facebookより)

2024-10-31 10:35:27 | 俳句
★松田ひろむ氏Facebookより(2024年10月21日知る)

-加藤知子さんより句集『情死一擲』(ジャブラン)をご恵送いただいた。第4句集であるが、まずは句集名に驚かされた。1955年生れ、熊本県生れ、熊本市在住の方である。「豈」「連衆」同人。「We」代表。
この「情死」とは神風の変(乱ではないという)と西南の役は、文学的には「情死」であると、あとがきにある。
  タイトルは、集中の<首筋に情死一擲の白百合>によるという。
 最初の一句は次の句であるが、どれもただものでない刺激的なもの。久しぶりに、どきどきさせられる句集に出会った。
 暗きより青きへそそるチューリップ  6
 春落葉なだれてなみだ発電所
そして、巻末は「神風連」の章。
 宇気比(うけい)にかけ志士冴え返る水鏡 139
  「うけい」とは古語で、ここでは誓約のこと。
 千手観音一手は白し曼殊沙華 145
 亂ならず變または戀帰り花
 とつづき、最後は
 もうよかろう最期は情死帰り花 152
 西南の柱春灯かきむしる
 百花のバラッド歌うたいに語らしむ
で結ばれている。「もうよかろう」は、西郷隆盛の最後の言葉とされているもの。
- しばらくは、この句集の興奮のままでいたいものである。
 一読をお勧めする。ISBN978-4-906703-84-5
(追記)
 この句集の跋は竹岡一郎(「鷹」同人・第34回現代俳句評論賞受賞者)、彼はこの跋を書かれた直後の6月21日に急性大動脈解離で急逝されている。60歳。これは、ふらんす堂、筑紫磐井のブログによるが、本書はどこまでも衝撃的である。

★松田ひろむ facebookより(10月31日知る)

 加藤知子さんの句集『情死一擲』に感激したところ、さらに彼女から『櫨の実の混沌より始む』(ジャプラン)と『たかざれき』(弦書房)の2冊と「We」17号、18号をご恵送いただいた。」第2句集、第3句集である。
 『情死一擲』の興奮さめやらぬままに、『櫨の実の混沌より始む』を読む。
どれも刺激的な句が多い。跋は竹本仰(「海程」)氏。
 句集名は〈還暦や櫨の混沌より始む〉による。「櫨の実の混沌」とはハゼの実から採れる木蠟を指しているのだろうか。木蠟は和蝋燭や軟膏の基材となる。櫨の栽培は鹿児島はじめ九州に多い。「櫨の実の混沌」の具体的なイメージは小生には定かにならない。櫨の実は歳時記にあるものの実作例は少ない。〈櫨の実の枯れて足垂る受難像〉(水原春郎)、〈櫨の実の乾ぶ筑前国分寺〉(松本学)、〈櫨の実を風鳴らし過ぐ殉教碑〉(藤崎美枝子)は、やはり九州であろう。ちなみに藤崎美恵子さんは1987年(昭和62年)福岡市文学賞受賞者(72歳)である。
実母の介護から始まった彼女の句業は、第一句集『アダムとイブの羽音』(ジャプラン)に詳しい。
そして母を見送り、この第二句集となった。遅い俳句の出発といっても、数年ごとに句集を刊行する意欲はどこから来るものであろうか。
「ただごと」ばかりといっていい昨今の俳句、俳壇であるが、ここには、俳句として書かなければならない思いがぎゅっと詰まっている。
 ひめしゃら木肌モディリアーニの首こんな 6
 反戦な子宮から地球初明り       10
 太腿の内に汗搔く憂国忌        17
 戦いに征かないさくら征くさくら    27
 半次郎以蔵彦斎(げんさい)冬薔薇   35
 原発に恋し火傷し鳥帰る        47
 除染とふわたくし抜けて洗ふ髪     57
 原子炉のくがだちめけば花の冷え    119
 行水やさよならだけが祖国愛      143
 二次会はパリで逢引き神隠し      152
以上のように、チェックした句も多い。「あとがき」で彼女は金子兜太の<華麗な墓原女陰あらわに村眠り〉をひく。
確かに兜太的な技法も十分に駆使している。それに加えてエロスを底流に、兜太が秩父なら、彼女は熊本的あるいは水俣的な屈折した民俗の匂いが濃厚である。
小生の知っている「海程」の誰彼の都会的な雰囲気は、ここにはまったくない。これは褒め言葉である。
まずはこの第二句集である。つぎは第三句集『たかざれき』を秘密の扉を開くように読んでみよう。

(松田さんから、彼のFacebookからの引用・転載は自由と聞いています)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
松田ひろむ氏とはお顔もお声も全く存じあげない方だったが
同じ現代俳句協会会員で、『現代俳句』の巻末にある結社紹介の欄で
「鴎座」代表の方とあったので、
ご高覧頂きたく送らせていただいた次第。

そうしたら、思いがけずFacebookでご紹介いただいたようで
見ず知らずでも俳句だけで繋がれる俳縁とは凄い。
これだから、俳句はやめられない!
俳句を読んでいただけるだけでうれしいのに
評まで送ってくださり、かつSNSで紹介していただけるなんて
とても光栄なことです。

やはり、俳人にとって
良くも悪くも読者がいるというのは
とても励まされるものです。
松田ひろむさん、
ありがとうございました。


コメント (2)

俳句短歌誌『We』18号より「短詩グラマトロジー 第十二回:序次法」斎藤秀雄

2024-10-30 21:54:39 | 俳句
短詩グラマトロジー 第十二回:序次法
斎藤 秀雄

 序次法とは《読み手の頭と心にできるだけ抵抗なく入るように、事柄を整理し、一定の方針に従って順序正しく述べる修辞技法》(中村明『日本語の文体・レトリック辞典』)である。例としては、料理のレシピや年譜など。
 序次法を修辞として発見することは難しい。なぜなら、我々はふだん、人が語ることや書くものは、序次法に従っているはずだ、という「読みの構え」を、それと意識することなく前提にしているからだ。話が前後して要領を得ない語り、という事態もよくあるが(「語りのリアリティ」を感じさせるための演出として、しばしば用いられる)、「要領を得ない」と気づくのは、通常期待されうる序次法が破られているからである。
 著名な作品では例えば《滝の上に水現れて落ちにけり》(後藤夜半)は典型的に、序次法に基づいている。しかし、この作品を読むとき、まず我々は、《水》と《滝》とを性質の異なるモノとして呼ぶことの、異様な効果に感じ入るはずであり、そのとき序次法はいわば背景に退いている。しかるのちに、「ただごと句」の表情を備える語り口、序次法による詠みぶりが、一句の迫力を支えていることに気づくのではないだろうか。
 視点を変えて例示しよう。倒置法が用いられた《粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に》(金子兜太)が、もし序次法によって「山を駈けおりてきた俺に粉屋が哭く」とされていたら、どうだろうか。詩情の中心は確かに残っているものの、原句にあった異様な迫力は削がれる。我々が「修辞がある」(例えば「ここに倒置法がある」)と感じるのは、通例としての序次法が破られるときである、と考えることもできるのではないか。
 草野天平の「夕暮」(『ひとつの道』昭和二十二年)という三行の詩をみてみよう。

落葉の沈んでゐる池を見てゐたらば
泡が一つ浮いてきて
消えていつた

 草野天平らしい、「ストイックな」と評される作風に、序次法はきわめて相性がよいように思われる。しばしば「詩人はなぜ俳句が下手なのか」という議論がなされるけれども、天平が俳句を書いていたなら、どうだっただろう、とも考えさせられる。本作はほとんど俳句ではないか。少なくとも世にいう「伝統俳句」に似た表情をしている。ひどく静かであり、異様な存在感がある。それは、描かれた景に異様な何かが含まれているからではなく、むしろ何も含まれていないからである。むろん、《落葉》《沈ん》《消え》といった語彙選択に感傷的なものを感じなくもないし、読者によっては消える《泡》に人生を、浮き世を、あるいは天平の死んだ妻の象徴を見出すのかもしれない。そうした読みを拒むものではない(その意味で、僕の考えでは、天平の詩は十分には「ストイック」ではない)。
 しかしながら、本作に宿る「異様さ」「迫力」の中心は、朴訥とした語り口によって、三行で語り終えている点にある(俳句のようだ)。序次法を修辞として発見することは難しい、と述べたが、本作は序次法そのものが効果として前景化しているといえるだろう。
 短歌の例をみよう。

ここの屋上より隅田川が見え家屋が見え鋪道がその右に見ゆ                   佐藤 佐太郎
やせ細る体真直に芝生よぎり歩み来し姿まなかひに見ゆ                     福田 みゑ

 一首目。歌集『歩道』より。動詞《見ゆ》がリズミカルに繰り返されることにより、読者は語り手の視線の動きを追体験させられる。佐太郎には珍しい破調の歌ではあるものの、歌の内在的リズムによって読後感は心地よい。しかし同時に、ある種の異様さも体感される。見えるものが《隅田川》であることは、詩の「動機」として理解可能である。だが、最終的に視線が行き着くのは《鋪道》である。佐太郎の日常的景において《鋪道》は物珍しいものだったのかもしれないが、そう分かるようには書かれていない。逆にいえば、なんらかの修辞を用いるならば、《隅田川》を着地点として、安心感を与える歌にもできたはずなのだが、そうせずに、ブツッと切れるように終る。ここで序次法は、意図的に用いられているのではないだろうか。
 二首目。おそらく『福田みゑ歌集』(非売品)より。近藤芳美『新しき短歌の規定』から孫引きした。ここには異様な存在感を発光させた《体》《姿》があり、ただひたすら見入るのみの語り手の目玉がある。語り手はおそらくその《姿》にひたすら魅了されている。忘我状態といってよく、かろうじて《見ゆ》によって自我をこの世に留めている。複合動詞を分解するなら、じつに六つもの動詞が用いられていることも特徴的である。僕はかつてこの作品をつねに目に見える位置に掲示していたものだ。
 俳句の例をみよう。

しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く     高浜 虚子
春の雪春の青山の上に降る         渡邊 白泉

 一句目。子規は『日本』での連載「明治二十九年の俳句界」において《虚子の時間的俳句》を数句挙げている。掲句はそのうちのひとつ。子規は、現在は短く、過去未来は長い、といい、現在の連続(掲句がその例)を「客観的時間」、過去または未来を現在と連接させるものを「主観的時間」と呼んでいる。「いま」の滑らかな連鎖に、撫でられるような気持ち良さがある。また、この短さにもかかわらず、籠もって沈潜する「ニワニ」から、破裂する「モヅキナク」への転回をみせる点、技巧的に見事である。
 二句目。冗長性が快楽をもたらすこともあるという典型例。ここから《冬の波冬の波止場に来て返す》(加藤郁乎)へ、さらに《春ショール春の波止場に来て帰る》(攝津幸彦)へと変奏されることになる。筑紫磐井は『加藤郁乎俳句集成』の「解説」で、郁乎句は《一月の川一月の谷の中》(飯田龍太)に先立って書かれた龍太句のパロディであると述べている(「カトーイクヤのいとも豪華なる時禱書」)。これに白泉・幸彦のラインも縫い合わせれば、テクストの系譜学の複雑さに、面白みが増すことだろう。白泉の生まれ育った東京市赤坂区青山南町と、現在の港区南青山に違いはあれど、《青山》のほの明るくて少し冷たい語感には一定の連続性があるものと思われる。 
(続)

幼稚園児の作品

一匹残った10月のあおむし君
背丈60センチほどの
小さな山椒の木を丸裸にして
このあと上手く蛹になれただろうか~
この山椒の木は小鳥の施し。
この施しは、これで3本目。
前の2本は、直径4センチほどになると
どういうわけか枯れて
また次の種を運んでくれるようです。
フシギ~

株式相場は、自民・公明が負けて
月・火・水の3日間は⤴⤴⤴
先週の金曜日に下げたので買っていたのを売り払った。
また今週の金曜日下げたらいいなあ

現政権与党以外の党の当選議員は
投票した人を裏切らないでほしい~


コメント

俳句短歌誌『We』第18号「前号俳句ふたり合評」(2024年9月1日発行)より

2024-10-21 12:28:43 | 俳句
 <<前号俳句 ふたり合評>> 
 
原爆ドームは人類の眼球だ  豊里 友行
阪野基道 原爆ドームは近代戦争の最終イメージを象徴し、ドームが非核への監視の目を持つとの意。しかし未だに続く国家、民族、宗教間の近代戦。地域紛争もテロも国家間戦争も同じ暴力であり、悪化の一途をたどっている。核の世を止揚するのはこの人類しかないのだが…。
斎藤秀雄 《人類の眼球》は、人類みずからを見ている。ひたすら、じっと見ている。見られている側はさほど気にしている様子もない。やがて《眼球》は乾ききり、腐食し、形あるものの定めとして、灰燼に帰すだろう。それでもその眼差しだけは、ずっと残り続けることだろう。

宝石の深き疲れや水の秋  加能 雅臣      
竹岡一郎 宝石には光によって退色するものがある。また、人を癒す事で己が色を失ってゆく宝石もある。地中に在れば恒久に若々しい色を保つであろう宝石は、陽の下に曝され、人に磨かれ、疲れが深まり、遂には水の如く無色になる。水の秋とは宝石の無言の疲弊でもあろう。
松永みよこ 宝石は何千年もの孤独の中、その内側に疲 れをためているのか。それとも人間にあれこれいじられた外部からの疲れだろうか。宝石の「深き疲れ」に気づいた点に感心した。鉱物と対照的な「水の秋」という季語もうつろいを感じさせ、壮大なスケールを有する句だ。

乳房に成れと軍艦を鯨撫づ       竹岡 一郎     
男波弘志 現在の世界情勢を見渡せばこのような気持ちになることも肯えるのだが、むしろ軍艦と鯨が屹立し合っている現実を突きつつけた方が一行詩としての力は増すだろう。例えば、「軍艦と鯨の黒と峙てる」
加能雅臣 「軍艦」に対して「乳房に成れ」と言うからには軍人式の命令口調がふさわしい。しかし、この「軍艦」は沈没船ではないか。従って「乳房になあれ、乳房になあれ」と「鯨」の低い声で「撫」でられながら、大艦巨砲主義の名残は今、魚の集合住宅となっている。

惨劇が青春とはね冬紅葉   竹本 仰       
早舩煙雨 とはね、と言う時は、惨劇が明確に認識された時であり、それが自己への言及であれば、嗤いによる逃避行為か。紅葉の色は惨劇的にも見える、惨劇と冬紅葉は別物と読んだ。いずれにせよ、冬でも紅葉が赤いのは、本当はまだ何かを諦めたくないからなのかもしれない。
しまもと莱浮 社会性俳句ではないとしても、ウクライナやガザ地区が頭をよぎる。日本とて数十年前は戦争の只中にあった。【冬紅葉】は血の色を連想させ、【とはね】を「と刎ね」にも読ませる。そして【青春】の青が、なおさら血の色を鮮やかにする。

老鶯の声バターの溶け具合  林 よしこ     
早舩煙雨 夏の鶯の聲と、バターの柔らかさが共鳴している様が、避暑地のホテルの朝食のように心地よく感じる。ちょうどよいものごと、としての二物の共演として描かれていると感じたが、加えて句のリズムもちょうど柔らかく溶けていた。
小田桐妙女 現実はさておき、夏になって声に張りのなくなった老鶯と、バターの溶け具合がなんともマッチしている。ダラーと音が溶けてゆく感じ。実際には、春よりも鳴き声は達者で高らかであるという。時々、春・夏と、鶯の鳴き声を聞くが、まだまだ違いが分からない。

蝸牛一秒のなか穴だらけ        早舩 煙雨      
加能雅臣 時間とは線形的に流れているようにイメージされるが、実は「穴だらけ」で、あちこちから漏れ出しているらしい。「蝸牛」がゆっくり動くのは「穴だらけ」の時間を忠実に、もしくはそれらを修復しながら生きているからなのか。変幻する「一秒」の色彩。
斎藤秀雄 《蝸牛》は《一秒》のあいだに二ミリも進めない。「遅さ」の代表。彼らは時間をどのように感じているのだろう。ここでは移動する地面が《穴だらけ》なのではない。研ぎ澄まされた精神に対して、《一秒》という時間が《穴だらけ》なのだ。時間の空間化が詩的。

黒鳥と黒蝶 死界を避けながら  阪野 基道   
早舩煙雨 何かを避けたい時、それを見たいとも思う。不謹慎だが、テレビのニュースも、近所の火事でもそうだろう。黒鳥と黒蝶になれば、死界を覗けるのだろうか。黒鳥と黒蝶は不吉の象徴ではなく、死界よりも辛うじて現世側に存在するものとして、われわれの象徴なのだろうか。
斎藤秀雄 もっとも《死界》に近しいように感ぜられる《黒鳥と黒蝶》。しかし「近い」ということは「離れている」ということだ。彼らはずっと、今も《避け》ることができている。彼らの舞うあたりに《死界》はある。今日も彼らだけは飲み込まれることなく舞っている。

すれ違ふ男の薄さ文化の日  松永 みよこ    
竹岡一郎 その男の魂を観た訳でもあるまい。すれ違う男に対する表面的な印象だろう。薄いのは女だって良い筈だが、「文化の日」と限定する処に、男でなければならない訳があるか。文化から秩序や正義なる概念が派生する事を考えると、男性が好みそうな概念に薄さを見たか。
小田桐妙女 薄さは肉体?精神?確かに美容に気を遣う男性も多くなってきた。体の線の細い男性も多くなってきたように思う。脱毛も当たり前のようになっている。肉体は、それぞれの自由である。しかし、精神は太くあって欲しい、と思う私。互いの、文化の日である。

影つひに歩くを覚え花すすき   森 さかえ    
阪野基道 とうとう俺の影も自立して歩くようになったか。しかもその影は本体である俺の制御を受けつけない。鏡の世界へも自由に行き来する影たちの世界。お好きなように、と伝えて影とは別れた。夕日に透かされた花芒は美しい。恋でもすれば俺似の影がまた生まれてくるさ。
竹岡一郎 「つひに」から、影が自我を持ち、自身から独立して歩くと読む。シャミッソーやアンデルセンが影に関する奇譚を書いているが、昔から影は分身や魂に親和性を持つ。花芒は揺れ動き、景色の境界を曖昧にするような印象がある。影と自分の不可分性も曖昧にするか。

鬼あざみ蝶は形を選ばない  森  誠       
男波弘志 蝶が花の色や形を識別して、自分が好きな蜜を出す花へ飛来していることは、むしろ自明のことだろう。ある人間の思いを擬人化したいのであれば、蝶自身に仮託すべきだろう。例えば「蝶は姿を選ばない」
斎藤秀雄 生物を含む有限のものを「形あるもの」と呼ぶ。しかし《蝶》は有限性の彼方のものなのだろう。《蝶》は遍在する。あるときは春の野薊に、夏の夏薊に、さらに秋の鬼薊にもなる。やがて菜の花を経由して、春に再び《蝶》という《形》を借りることにもなるのだろう。

遠花火父の匂いの缶ピース  内野 多恵子    
林よしこ 缶ピースは、ちょっと高級な甘みのある煙草らしい。父の匂い、とあるから故人なのだろう。煙草を吹かしながら遠花火の方を楽しまれた方。作者は必ずしもその匂いが好きな訳ではないが今は只懐かしい。缶に残った一本を父に届けてあげたい。せめて今年の花火の夜にでも。
早舩煙雨 多重露光のよう。この遠花火は缶ピースと同時に見たものというよりは、缶ピースの奥に感じた父の匂いの、そのまた奥にある花火(父との思い出?)という、一直線上に並んだ記憶の最遠の背景だろうか。それを見る主人公も、子供や大人などの複数の形で居るように感じる。

玉砂利の音成す宇宙白い秋  江良 修   
阪野基道 神社仏閣といえば玉砂利の美しい世界。砂利の微妙な音に癒されることも。私的には暑い盛りに蝉の鳴く神社やお寺でぼんやり過ごすことが好みだが、この句の季語は白い秋。静謐な趣だ。何ものかと交信することができそうな雰囲気であり、人の死が視える場所だ。 
松永みよこ アンミカさんの「白は二百色」という言葉が好きだが、この玉砂利は絶対に白くあってほしいし、その純白さ具合は、意外と他の人の思うところと大きく違わない気がする。もし心の中に、こんな玉砂利を敷き詰めた庭を持てたなら、それ以上の幸福は存在しない。

さくらさくら噤む少女のうなじから  小田 桐妙女
林よしこ さくらさくらのリフレインは花片の散るさまを想像させる。物言わぬ少女は、本当に言葉が出せない人かもしれない。花片がひとつずつ言葉を教えている様にも思える。華奢な少女の姿と共に切なくも春の優しい美しさのある句。うなじから少女のこれからが始まる。
しまもと莱浮 景は桜の下の着物の少女だろうか、俯き加減の彼女に代わって、舞い落ちた花びらが饒舌に語っているようでもある。思えば、【うなじ】はクチの真裏に位置しているではないか。表立って言えないことを、ひそやかに顕しているのかもしれない。咲く等咲く等と。

あじさいの全ての色を諦める  男波 弘志    
阪野基道 あじさいは種類が多い。花の形もさまざまだ。花言葉は移り気、七変化とか。浮気っぽい花のよう。全ての色を諦めるとは、色道を断ち切る、ということか。「人類残照」という魅力的な題を持つこの句の本意は、無為無用の自然を見つめる、というところにありそうだ。
松永みよこ あじさいがあれだけたくさんの色をしているのは「全ての色を諦め」たゆえなのだろうか。なんだか不思議で魅力的かつ暴力的な仮説に、作者の個性の輝きを思った。「諦め」を否定的に捉えていた自分の先入観が恥ずかしくて悔しくて、地団太を踏んでいる。

薔薇百花昨日の月をふと思う  柏原 喜久恵    
林よしこ バラにも沢山の種類がある。世界中を探せば本当に百種以上あるかもしれない。バラは華やかで美しい花の代名詞のようなもの。「百万本のバラ」、一度貰ってみたいものだ。でも昨夜の綺麗な月をふと思い出した。慎ましく静けさのある月は正に大人の趣がある。
加能雅臣 〈百花繚乱〉と言うような情動に響く「百花」とは違い、どちらかと言うと博物学的な〈百科〉に近い印象を受ける。品種としてカテゴライズされてしまった「薔薇」には、その美と引き換えに失われ、決して思い起こされることのない荒野の記憶があるのだろう。

匚なくて口にしまふと海朧  斎藤 秀雄      
阪野基道 辞書に匚とは竹などで編んだはこ、とある。匚がないから口にしまうという。だが何を。「口中へ金貨を投ずるものあり」とは西脇順三郎の詩句だが、ここでは金銀財宝ではなく、漠として誰にでも存在する老病死なのだろう。口にしまえば体内深くへ、すべては朧に。
竹岡一郎 自在に動くだろう海朧を捉えられると仮定して、漢字を見れば、匚と口の違いは縦に蓋があるかどうかだ。匚ならば右の一方が開いていたのに、匚が無かったばかりに、口という閉ざされた空間にしまわれてしまう。海朧の自由さに比して、口とは何と引き籠るものか。

地の秘密抱きたるまま彼岸花  島松 岳 
小田桐妙女 地の秘密とはどんな秘密だろうか?地球のこれからの未来を彼岸花は知っている。だからこそ、情熱的な真っ赤な色を咲かせる。きっと秘密は誰にも言わない。なぜなら、彼岸花はあの世から来ているから。あの世の者たちは、秘密を決して漏らさないだろう。
しまもと莱浮 【地】を土地と解釈すると【彼岸花】に近く重畳的だと感じたので、「もともとの姿」と読んでみた。「親殺し」「地獄花」などと散々に呼ばれながら、ひたすらに田畑を守り、墓を護り、飢餓を救ってきたのは、もともとは天上に咲く花だったからなのかもしれない。

京男ばかりに降ってくるメロディ  しまもと莱浮 
加能雅臣 「東男と京女」とは良きものの謂いであり「京男」は分が悪い。この「メロディ」も愉快なものばかりではなさそうだ。などと思わせておいて実はそうではない、と言うところが「京」の「京」たる所以かもしれず、「京男」ならぬ小生、いかんともし難いのである。
松永みよこ 都の繁栄と衰退を目の当たりにした京男の優美さや気位の高さ、ずるさなどなどは私には少し遠い存在だ。だがそれだけにいくらでも想像が可能だともいえる。京男だけが感受できるメロディのワンフレーズでも知れたら、少し彼の思いに寄り添えるだろうか。

耳ひらく伸びをするとき雪女郎  加藤 知子 
男波弘志 雪女郎が耳をひらくとは、何と豊満な表現だろう。しかしそこに在る凄絶さが伸びをする、で伝わるだろうか、もっとはっきり造形できないだろうか、これは一例に過ぎないが、「耳ひらく爪立つときの雪女郎」
小田桐妙女 ねちっこくない雪女郎の句。雪国生れ・雪国育ちの自分が作ると、どうにも情念くさくなる。耳をひらき、伸びするなんて、とてもリラックスしているではないか。そういう時こそ素がでるのではないか?こちらの雪女郎のほうが、よっぽど手強いような気がする。
          ***
俳句の読みである評や評論もその人固有のクリエイティブな作品だと思うので
独自性があるほうが面白いですね~

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
暑くて長かった夏がやっと終わった気がします。
半分死んでました!

ゲンノショウコが今盛り

10月18日大阪日帰り新幹線往復し、
ずっと気になっていた仕事が終わった感じです。
狭庭に咲く嫁菜
この色は縹色かな
好きな色です。


青いポスト初めて見ました!





コメント

韓ドラ「まぶしくて 私たちの輝く時間」

2024-10-11 18:56:56 | つれづれ
韓ドラ「ハベクの新婦」
(このドラマの雰囲気はとても好きだったー)
の主演男優ナム・ジュヒョクの名前につられ
「まぶしくて 私たちの輝く時間」という
全12話を一気に観てしまった。

最初は、
年をとるとはこういうことだよ、
いずれはみんな通る道だよ
みたいなスタンスのドラマかなと思いつつ観ていて、
終盤に差し掛かるあたりで、
いきなり1970年代の若者ファッションになり、
「夜間通行禁止令」などという、
初めて聞き及んだ時代に変わった。

なんかよく分からない構成だなあと
我慢してみていたのだった。
が、最後まで観て、
ああ~こういうことだったのかと
理解納得したのだった。

ドラマのストーリーはさておいて
ここでは、
この「夜間通行禁止令」なるものについて
備忘録として書いておこうとおもう。

日本の統治時代終了直後、
米軍政保護令第1号として
1945年9月に施行。
当初は、対象地域や時間帯にバラツキがあったが、
朝鮮戦争休戦後1954年4月から全国に拡大。
1961年からは、午前0時から午前4時までになった。

全斗煥軍事政権下の1982年1月5日に、
36年4カ月ぶりに解除。
人心懐柔の為と
ソウルオリンピック誘致決定があったから。

1988年1月1日の全面解除は
ソウルオリンピック開催年だったから
のようだ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
最近思うこと
石破政権は、
大抵の自民党議員は五十歩百歩で大して変わらないだろうに
公認非公認に不公平な措置をしていて
旧安倍派潰しが露骨すぎる

旧統一教会の支援をもらって当選した議員たちには
何も制裁はないのかな~

政治家って、何枚舌を持っているのか
やはり並の舌では通用しない
面の皮も

今年のサツマイモ苗8本の収穫

これにあと5個ほどプラスしたのが
最終的な今年の収穫量
虫食いが多かったのは何故かな。

コメント (2)