何が言いたいのか分からないなどと
既に観た人の評判はあまり良くないようですが
やはりここはひとつ自分で確かめる必要があると思った。
それに、
なんと言っても、「乳白色の肌」の裸婦絵(線は面相筆で)から
戦争協力画と言われる「アッツ島玉砕」、
戦後再び渡仏してからの教会宗教画に至るその変化に興味があった。
また、フジタは、1888年から1898年までの幼少期を熊本で過ごしている。
この寒空に「電気館」という名画上映に定評のある、
街の方の映画館に行きました。
確かに難しい俳句のような映画でした。
短歌の下句77が欠落したというか、主張や情緒が抑えられたというか・・・・
選びとられたエピソードめいた事柄を映像で見せて、
観た人に感じなさい感じなさいって、あとはあなたの想像力におまかせしますよ
みたいな映画でした。
途中少しダルいと感じるところはありましたが、
(友人とランチした後だったので、ちょっと眠ってた!)
フジタの芸術観と小栗康平監督のそれが融合しているような感じさえしました。
学生時代に読んだ懐かしいフレーズにも出合いました。
*高村光太郎の「雨にうたるるカテドラル」(1908~1909パリ滞在中に取材した作品)
*アポリネールの「ミラボー橋」
詩集「アルコ ール」(1913)収録 堀口大學訳]
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
かうしていると
われ等の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
流れる水のように恋もまた死んでいく
恋もまた死んでゆく
生命ばかりが長く
希望ばかりが大きい
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
日が去り、月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボーー橋の下をセーヌ河が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
帰りの二の丸公園を横切って三の丸駐車場まで
歩いて行く時の寒さといったら
耳が痛かったよお~
(291)
既に観た人の評判はあまり良くないようですが
やはりここはひとつ自分で確かめる必要があると思った。
それに、
なんと言っても、「乳白色の肌」の裸婦絵(線は面相筆で)から
戦争協力画と言われる「アッツ島玉砕」、
戦後再び渡仏してからの教会宗教画に至るその変化に興味があった。
また、フジタは、1888年から1898年までの幼少期を熊本で過ごしている。
この寒空に「電気館」という名画上映に定評のある、
街の方の映画館に行きました。
確かに難しい俳句のような映画でした。
短歌の下句77が欠落したというか、主張や情緒が抑えられたというか・・・・
選びとられたエピソードめいた事柄を映像で見せて、
観た人に感じなさい感じなさいって、あとはあなたの想像力におまかせしますよ
みたいな映画でした。
途中少しダルいと感じるところはありましたが、
(友人とランチした後だったので、ちょっと眠ってた!)
フジタの芸術観と小栗康平監督のそれが融合しているような感じさえしました。
学生時代に読んだ懐かしいフレーズにも出合いました。
*高村光太郎の「雨にうたるるカテドラル」(1908~1909パリ滞在中に取材した作品)
*アポリネールの「ミラボー橋」
詩集「アルコ ール」(1913)収録 堀口大學訳]
ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ
われらの恋が流れる
わたしは思い出す
悩みのあとには楽しみが来ると
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
手に手をつなぎ顔と顔を向け合はう
かうしていると
われ等の腕の橋の下を
疲れたまなざしの無窮の時が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
流れる水のように恋もまた死んでいく
恋もまた死んでゆく
生命ばかりが長く
希望ばかりが大きい
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
日が去り、月がゆき
過ぎた時も
昔の恋も 二度とまた帰って来ない
ミラボーー橋の下をセーヌ河が流れる
日も暮れよ、鐘も鳴れ
月日は流れ、わたしは残る
帰りの二の丸公園を横切って三の丸駐車場まで
歩いて行く時の寒さといったら
耳が痛かったよお~
(291)