続・知青の丘

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ハンセン病市民学会IN熊本(その3)

2013-05-23 19:10:15 | ハンセン病市民学会など
初めて、谺雄二の顔を見た!
詩集『鬼の顔』の作者。
80歳を超えている。少し耳の聞こえが悪いらしい。

彼の手記『わすれられた命の詩~ハンセン病を生きて』(ポプラ社、1997)は昨年読んではいたが、
わざわざ熊本まで来てくれて、
「父母の愛を十分に受けてきたから、私は死なない、生きていける。」と言ってくれた。

以下は、この日の谺の言葉を私がメモしたものに基づく。

“裁判には勝ったけど、歳をとっていって、家に帰れない。飼い殺しの目にあっている。
人間として扱われないのなら、鬼になろう、鬼を貫き通そうと思った。”

             谺雄二作
部屋の柱にかけられた鏡に今朝ふと眼をやって
そこに写し出された私の顔に気づく
ずいぶん久しぶりの顔だったが
10歳代で髪が全部抜け落ちた頭に
老いていっそう窪み深めた眼 の一つは義眼
つぶれた鼻そして歪んだ唇から垂れる涎
ハンセン病後遺症を刻んだ相変わらずの私の顔だが
目のあたりにするとやはりギョッとする
だがしかしこの顔は
時に滴る汗には父から受け継いだ匂いがし
一つだけの瞳には同病の母の最期が焼きついている
両親の慈愛と悲哀とが交々こもるこの顔
(以下省略)
        当日配布資料~『アンソロジ―人と人をつなぐ 詩人会議の50年』(2012)より


散歩コースでこの時期にはいつも見る定家かづら

谺雄二さんは、黒い眼鏡をかけられていました。
そんなに近くでは拝顔できなかったのですが、
ユーモアあふれ、おおらかで優しい感じの人でした。

千年先まで届く詩を書いてくれと姜さんに頼まれて
谺雄二が書いたという「いのちの証」から抜粋(当日配布資料)

日の丸の汚点(しみ)とされたいのち
殺し殺されの旗印その日の丸は
汚点とせしものにも何ら憚らずはためき
無らい県運動を救らいと鼓舞した
いかなる過ちもすべて棄て流し
現にまた生贄を以って立つ国

だからこそ抗さねばならない
やっと生き残ったのだから
撲滅に遭ったすべての死を蘇らせ
この国からそれぞれのいのちの証を
絶対かちとらずにはおかぬ
(以下省略)

“自分たちの生きた証もなく、死んだ理由もはっきりしないと言って、死んだ病友がやってきている。
谺が生きているうちにと原稿依頼も増えた。
生きていて楽しくない。生き残りではなく死に残りだ。
鬼の独立国を造って、死んだ者達と命の証を立てようか。
詩人谺雄二としてもう一度鬼になりたい。”


知らないでいることにも罪はあると思う。
子育ても終わり、遅まきながら、やっと学びの態勢です。

つながって握りしめたる龍の玉  知青



お隣のバラ!

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ハンセン病市民学会IN熊本(その2)

2013-05-23 19:04:48 | ハンセン病市民学会など
午後からの特別企画のテーマ:「ミナマタからハンセン、そして未来へ」
~語りえぬことを語るために、千年の後の“いのち”の思想、“いのち”の言葉のために~
 コーディネーター・司会は姜信子
始まってそうそう、このとんでる女性はだれだ!?と思っていたら、
姜信子だそうでー。
名前は知っていたが、初めての拝顔。

オープニングは昨日の県劇での演奏と同じらしく
説経節「みなまた海の声」の琵琶演奏約1時間。
原作は石牟礼道子、制作は後藤幸浩、
演奏は後藤幸浩(薩摩琵琶)&水島結子(鶴田流琵琶)
水俣病で亡くなった人たちの亡霊が叫んでいるような迫力があった・・・

石牟礼さんは、目の不安があった折、
目が見えなくなったら琵琶法師になって、語って回るのだとおしゃったとか・・・。


わが散歩コースの見事な花おうち

冒頭、姜さんが、みんなにも問題提起するようにパネリストの方々に言った。

緒方正人は、
狂いに狂って、『チッソは私であった』(2001・葦書房)と言ったが、
あなたもチッソなのだろうか、
あなたにこの世界はどうみえているのか、
あなたはどこに立っているのだろうか・・・・・

深い感性にもとづく矢継ぎ早の問いかけ・・・

パネリスト: 谺雄二(栗生楽泉園入所者自治会副会長)
       大田静男(八重山歴史文化研究家・八重山のハンセン病問題を考える会)
       萩原修子(熊本学園大教員・宗教学)

私は、緒方正人も「チッソは私であった」も知らなかった・・・

チッソは日本の近代化、高度経済成長の象徴のようなもので、
その恩恵を私たちは受けてきたけど、
その一方で水俣病という負の近代である公害を隠ぺいし、
排除し差別してきた私たち。
そんな私たちひとりひとりにも、
この重い問いを投げかけ、考えてほしいということだろうか、と思う。

無意識であれ内なる加害者の責任の取り方を考えねばならないのだと思う。


花おうち(栴檀の花)とほぼ半月

                  ・・・・・・その3につづく



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正しい母の日の過ごし方!?(ハンセン病市民学会)

2013-05-14 11:10:08 | ハンセン病市民学会など
第9回ハンセン病市民学会in熊本

全体統一テーマ いま、「いのち」の意味を問う!
  ~ハンセン病回復者をとりまく現状と将来へのメッセージ~
     2013年5月11日(土)at熊本県立劇場・熊本学園大学
           ~5月12日at菊池恵楓園

分科会Dに参加させてもらい拝聴。
5月12日9:00~12:00:菊池恵楓園・文化会館
『ハンセン病問題研究のあらたなる地平へ~病者の「生」をとらえるために~』
コーディネーター&ディスカッサント:廣川和花(阪大准教授・歴史学)
パネリスト:蘭由岐子(追手門学院大教授:社会学)
       松岡弘之(大阪市史料調査会調査員:歴史学)
       田中キャサリン(日本学術振興会外国人特別研究員:文学)
       高野弘之(埼玉県立文書館学芸員:アーカイブ学)

きょうのこの分科会Dは、
つぎのような視点から、4人の研究者が研究報告するということらしかった。
○「病者」の生活史、病の経験、主体形成の過程などに着目し「病者」が「生きること」を多様な角度からとらえる。
○地道な資料・史料の発掘や調査に基づき客観的で実証的な研究を重ねる。

で、一通り研究者の研究報告が終了し、
時間はほとんどなかったが、廣川氏は質問を受け付けた。

第1質問者の質問が長引きそうで時間切れにされたらたまらないと
思ったその人は、
「自分に30秒だけ時間を下さい」とさえぎって、

「今は和解の時代ですか?」

「国は(ハンセン病回復者が)死ぬのを待っているのですよ。
研究者は甘いですよ!!」

研究者をグサリ!研究者の話を拝聴していた人たちにもグサリ!!

ノルウェーは和解の時代を越えたとか、
日本や台湾は和解の時代の途上にある、
というような報告は研究者からあったようには思う。

確かに、日本のハンセン病政策や社会の偏見・差別によって人生を踏みにじられた人々にとっては和解などという生半可な言葉を簡単に使われたらたまらないのだろう。
「和解」という言葉は不適当と言えるだろう。

最前の人物は、心して研究に励めよと言いたかったのだと受け取ろう・・・。
・・・・・・・強制隔離や強制労働、断種・堕胎という国策に対する擁護説が、国賠訴訟以降参入した研究者間に台頭してきていると藤野豊・敬和学園大教授が寄稿(5月11日熊日掲載)して、述べていたことを想起させた・・・・

午後からの特別企画「ミナマタからハンセン、そして未来へ」(菊池恵楓園・恵楓会館)
のことは、後日~


帰宅したら、三男が「母の日カレー」を作ってくれていて、
遠方の息子からは、東京青山・「花茂本店」からの日通航空便で
真っ赤のカーネーションの鉢が送られてきていた。


ありがとうにありがとう。

(23:40)

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菊池事件死刑執行50年追悼集会

2012-09-15 17:49:21 | ハンセン病市民学会など
今、帰ってきた!
今日勉強してきたことを
まだ熱いうちに書きとめておこう。

恵楓園に行くのは、5月に初めて見学して以来、今日で2回目。
連続企画として、何度か企画があっていたようだが・・・。

本日は、
1962年9月14日に、
元ハンセン病患者藤本さんが無実を訴えながら死刑執行されてから50年!の追悼集会。
~リレートークでつなぐ再審への思い~
ということで、
10名の方々が、
それぞれの立場から決められた時間内でお話された。

最後に
菊池事件再審弁護団団長徳田靖之弁護士から、
菊池事件の再審請求は遺族がするべきことではなく
司法と社会の責任から、
検察官が最も再審請求するべき立場にあり、
その要請書を地検か最高検かに提出するということで話された。
そして、全国的な署名活動も展開したいと。

以下、私の耳が聴き、印象に残ったことを、
私の受け取りかたで書きます。

① 再審弁護団事務局長馬場啓弁護士は、
ハンセン病(菊池事件)とかかわるきっかけになったのは、
1995年に鹿児島の島ヒロシなる人物が、九州弁護士会に手紙を出して、
菊池事件を見過ごしてきた法曹の責任を指摘したことからだったと述べ、
人権侵害がこともあろうに裁判で行われたという、
法曹界(検察官・裁判官・弁護士)の過ちを
自ら正していきたいという思いからだったと。

そして、この件の再審請求は、
単に請求書を裁判所に提出するのではなく、
まずは検察官自らが過ちを正すという意味で、
その要請書を検察庁に出すと。

② 菊池事件の殺人犯とされた藤本さんを直接知っていた恵楓園入所者長州次郎さんは、
藤本さんについて、心優しい人だったと語った。
園内での出張裁判は幕が張られた法廷で、小さな声で行われていたと。

また、ご自分のことで、「たろうはどこにいったかあー」と~。
昭和63年までは確認できたが、その後どうなったかわからないと。
たろうとは、昭和22年に結婚はしたが、
お腹の中で大きくなっていて生きることが許されなかった子のようだ。
赤ん坊が動かすように手を泳がせて、「なさけなかったー」と言われた。

③ 死刑判決後の藤本さんに会っていた教誨師坂本克明さんは、
当時は腹が立って立って仕方なかったが、最近は哀しくて涙がでる。
藤本さんとは、昭和36年5月~昭和37年8月まで16回お話をしたそうで、
最初は激しく無実を訴えていたが、だんだん言葉少なになっていった。

傍聴したことがあった、園内での特設法廷による裁判は、
被告本人の陳述はなく、さっさと進められ、
そこには日本国憲法が及んでいるようなものではなかったーと。


④ 国民救援会のメンバーの佐藤さんは、
当時、会としてはかかわっていたが
死刑執行されてからそのままになっていたのを、
またかかわるようになったと言われた。
こんな会があることを、初めて知ったが、1928年に設立されたそうだ。

⑤ 映画『新・あつい壁』の映画監督中山節夫は、
恵楓園から3キロ圏内の合志市に生まれ高校の時まで居たが、
その地域で差別する側の人間として育った。
大学からは東京に行っていたが、
1953年朝日新聞と赤旗の小さな記事で、藤本さんの死刑執行を知った。
市民の差別意識・感情が国策を後押しすることになったと言い、
裁判官までもが同じ低いレベルだったと。
映画『あつい壁』を製作は、黒髪事件を題材に29歳~31歳だったそうだ。

ここで、休憩が入った~
(私もブログ書き中断!19:25)

⑥ 宮里新一というシンガー・ソングライターの「紫陽花の詩」歌披露
涙が出そうになった・・・・

⑦ 菊池出身の親族の男性(名前は出してあるが、私は書くのを控えます)は、
自分の親はとんでもないこと!と目を剥いたが、
自分は藤本さんの名誉回復に尽力したいとー

⑧ ボランティアガイドをしている菊池市の女性稲田さんは、
藤本さんの短歌を読んだりすると、彼は最後まで無罪判決を信じていたと思う、
社会の責任を自分のことに引きつけて考えたい、
また、他への支援の輪を広げるための日頃の努力を続けたいと熱く力強く語った。

⑨ 「ハンセン病問題市民会議かごしま」のメンバーの僧侶寺本さんは、
鹿児島からの連帯ということで、
国の責任、社会の責任、私たちひとりひとりの責任を説かれた。

⑩ 「ハンセン病全国原告団協議会幹事」・長島愛生園入所者宇佐美治さんは、
自分が旧制中4年の時、この病気になったため、
結納が済んでいた親戚のおばさんの結婚が破断になった。
まだ若いおばさんは、帷子を着て、石をまとい、
古井戸に身を投げたという話をされた。
ハンセン病家族や親族の苦しみや悲しみいかばかりか・・・・・と。

そして、自分は、これから理解されても理解されなくても闘っていくんだと言われ、
当時(昭和32年から)愛生園で、
菊池事件の再審請求の署名が集まらなかったことには自戒をこめられた。
また、菊池事件が、
まだ再審請求中で裁判所の却下決定が言い渡されないうちに、
死刑執行決定の押印がなされたのは、
当時患者が団結して力をつけてきていたことに対する
見せしめだったのではないかという
持論を述べられた。

帰りに、ちょっとだけ、
逃走防止のための、
北側の高さ2メートルほどのコンクリート壁と火葬場跡を見に行った。

事実を知れば知るほど、真実もみえてくる。
あまりにも、私たちは、ハンセン病について知らなさすぎる。
知らないことが過ちであるとすれば、
そう自覚した時が過ちを正す時であり、
それは学ぶことであろう。

大変長くなりました。
ダウン!

















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