続・知青の丘

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とても気になる青い実は

2024-11-18 17:12:37 | 俳句
いつもの近所の散歩コースに
青い実をつけた木があり
見るからに南方系の木のよう

白い花が
その下の方に青い実が
何の木か知りたくて知りたくて
写真検索しようと
今朝行ったら
運よく畑に女性がいたので聞いた~

「青パパイヤ」
だそうで
苗ポットで40センチほどのを500円位で買ってきて
一年程たったら、こんなに大きく育ったらしい。
実はあまり美味しいものではないとのこと。

けっこう、通りすがりの人から尋ねられるそうで。
「名札付けてください」
とお願いしてきました。
散歩していて、珍しい木に出合うと
よく思う。

話変わって、
昨夜、岩手の日本現代詩歌文学館の
「怖い俳句」大会のイベント
(宮部みゆき、夏井いつき、神野紗希、高野ムツオのシンポジウム)
に行かれた福島のS・K氏から
「激写してきましたよ」
と送信してくださいましたので
記念にUPしておきます。


カムサハムニダ!
最近観た韓ドラメモ
*イ・ジョンソクの
「ピノキオ」(2014)
「君の声が聞こえる」(2013)
「ドクター異邦人」(2014)
*キム・ナムギンの
「悪の心を読む者たち」(2022)
「熱血司祭」(2019)
*「その男の記憶法」(2020)ムン・ガヨンが美しかった
*「シークレットガーデン」(2010)2回目
日本の寿限無寿限無!?の韓国版みたいな呪文?が面白い

*日本のアニメ「薬屋のひとりごと」

気晴らしにアベマ無料を活用しているので
いっぺんに沢山観なくて済む
他にも色々やりながらだから
ちょうどいい~

そろそろ、
添削教室の俳句が送信されてくるので
そちらに集中しまーす

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『情死一擲』その後③(ブログ俳句新空間より)

2024-11-15 16:52:07 | 俳句
9月に藤田踏青さん
10月に櫻井天上火さんに
拙句集のブログ「俳句新空間」への評
(句評や集評は読みや鑑賞ですが、ある意味二次的作品)
をいただいたので
遅くなって申し訳ないのですが
ここにも掲載して紹介しておきます。

・藤田踏青さん

・櫻井天上火さん

拙宅のほうには、皆さん俳句仕事でお忙しい中
選句や評を送ってくださる方もいて
感謝致しております。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
さて、
もしかして政権交代があるかと
ちょっと期待していたのも潰えて
不倫玉木が話題をかっさらって
政務官に元アイドルが起用されて

今日の持ち株はやや持ち直したので
少し売ったのですが、
売った途端にもっと騰がったり

円安も進んでいるし
結構今、どこの会社も自社株買いをしていて
敵対的買収から防衛しようとしているんでしょうか
コンビニ系は上場廃止へ~

従業員も直前まで知らないような
世界の(過去形!)FUNAIの「胡散臭い」破産
とかもあったり

石破政権はまた金配りをしそうだし
なんかもう、日本大丈夫?と
年寄は日本の行く末が気になるこの頃です。

石丸伸二は何かやってくれそうかな
なって思いつつ、
はや11月も中旬。
日暮れも早くなって
また年用意かなあ
また年をとるのかなあ
なんて、イヤですねー

さて、
最近野菜のお値段は全国的にも高いのでしょうか。
農業県の熊本でも高い高い~
大根やレタスの220円くらいはまだいいのですが
キャベツが300円ではもう買えなくなりました。
白菜も四分の一で150円位
なんでです?気候不順?

ここで思いだすのが
マリーアントワネットの名言
「パンがなければケーキを食べればいいんじゃない」

これは何でしょうか。


下のは、
断捨離で出て来た
息子小学5年時のクラスの活動の一つの作品
<<まじ切れた、まじか、こいのぼりのりこん>>

(上の写真:ピーラーで削ったニンジンの側面図)
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老詠むなかれ櫨もみじ櫨もみじ  松田ひろむ

2024-10-31 21:33:19 | 俳句
老詠むなかれ櫨もみじ櫨もみじ   松田ひろむ

「俳句四季」2024年11月号「巻頭3句」に
櫨もみじを謳った句があるとお知らせいただいた。

柿もみじでも桜もみじでも銀杏もみじでもなく
櫨のもみじというのが、
強い意思を伝えているように感じる。
リフレインもまた。
老いの矜持と受け取るべきか。

櫨の木はかぶれるので
幼い時から気をつけるように言われていたが
離れて見るだけ。

きょう、
買い物に行くときに県道337号沿い
(旧豊後街道)の櫨を見たら
まだ紅葉には遠かったが
このところの冷え込みが続けば
きっといい色に色づいていくだろう。
そして、
紅葉かつ散れば
待ちに待った
焦げ茶色の櫨の実だけが
冬の虚空に
びっしりとうつくしく
その小房を垂れているだろう。

(狭庭のノコンギク)

Wikipediaによれば、
松田氏は
御年86歳の俳句先輩のようです。

そうなんですね、
こころします。
殊更に
老いは詠むべきじゃないんですね。
元気もらいました!


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情死一擲その後②(松田ひろむ氏Facebookより)

2024-10-31 10:35:27 | 俳句
★松田ひろむ氏Facebookより(2024年10月21日知る)

-加藤知子さんより句集『情死一擲』(ジャブラン)をご恵送いただいた。第4句集であるが、まずは句集名に驚かされた。1955年生れ、熊本県生れ、熊本市在住の方である。「豈」「連衆」同人。「We」代表。
この「情死」とは神風の変(乱ではないという)と西南の役は、文学的には「情死」であると、あとがきにある。
  タイトルは、集中の<首筋に情死一擲の白百合>によるという。
 最初の一句は次の句であるが、どれもただものでない刺激的なもの。久しぶりに、どきどきさせられる句集に出会った。
 暗きより青きへそそるチューリップ  6
 春落葉なだれてなみだ発電所
そして、巻末は「神風連」の章。
 宇気比(うけい)にかけ志士冴え返る水鏡 139
  「うけい」とは古語で、ここでは誓約のこと。
 千手観音一手は白し曼殊沙華 145
 亂ならず變または戀帰り花
 とつづき、最後は
 もうよかろう最期は情死帰り花 152
 西南の柱春灯かきむしる
 百花のバラッド歌うたいに語らしむ
で結ばれている。「もうよかろう」は、西郷隆盛の最後の言葉とされているもの。
- しばらくは、この句集の興奮のままでいたいものである。
 一読をお勧めする。ISBN978-4-906703-84-5
(追記)
 この句集の跋は竹岡一郎(「鷹」同人・第34回現代俳句評論賞受賞者)、彼はこの跋を書かれた直後の6月21日に急性大動脈解離で急逝されている。60歳。これは、ふらんす堂、筑紫磐井のブログによるが、本書はどこまでも衝撃的である。

★松田ひろむ facebookより(10月31日知る)

 加藤知子さんの句集『情死一擲』に感激したところ、さらに彼女から『櫨の実の混沌より始む』(ジャプラン)と『たかざれき』(弦書房)の2冊と「We」17号、18号をご恵送いただいた。」第2句集、第3句集である。
 『情死一擲』の興奮さめやらぬままに、『櫨の実の混沌より始む』を読む。
どれも刺激的な句が多い。跋は竹本仰(「海程」)氏。
 句集名は〈還暦や櫨の混沌より始む〉による。「櫨の実の混沌」とはハゼの実から採れる木蠟を指しているのだろうか。木蠟は和蝋燭や軟膏の基材となる。櫨の栽培は鹿児島はじめ九州に多い。「櫨の実の混沌」の具体的なイメージは小生には定かにならない。櫨の実は歳時記にあるものの実作例は少ない。〈櫨の実の枯れて足垂る受難像〉(水原春郎)、〈櫨の実の乾ぶ筑前国分寺〉(松本学)、〈櫨の実を風鳴らし過ぐ殉教碑〉(藤崎美枝子)は、やはり九州であろう。ちなみに藤崎美恵子さんは1987年(昭和62年)福岡市文学賞受賞者(72歳)である。
実母の介護から始まった彼女の句業は、第一句集『アダムとイブの羽音』(ジャプラン)に詳しい。
そして母を見送り、この第二句集となった。遅い俳句の出発といっても、数年ごとに句集を刊行する意欲はどこから来るものであろうか。
「ただごと」ばかりといっていい昨今の俳句、俳壇であるが、ここには、俳句として書かなければならない思いがぎゅっと詰まっている。
 ひめしゃら木肌モディリアーニの首こんな 6
 反戦な子宮から地球初明り       10
 太腿の内に汗搔く憂国忌        17
 戦いに征かないさくら征くさくら    27
 半次郎以蔵彦斎(げんさい)冬薔薇   35
 原発に恋し火傷し鳥帰る        47
 除染とふわたくし抜けて洗ふ髪     57
 原子炉のくがだちめけば花の冷え    119
 行水やさよならだけが祖国愛      143
 二次会はパリで逢引き神隠し      152
以上のように、チェックした句も多い。「あとがき」で彼女は金子兜太の<華麗な墓原女陰あらわに村眠り〉をひく。
確かに兜太的な技法も十分に駆使している。それに加えてエロスを底流に、兜太が秩父なら、彼女は熊本的あるいは水俣的な屈折した民俗の匂いが濃厚である。
小生の知っている「海程」の誰彼の都会的な雰囲気は、ここにはまったくない。これは褒め言葉である。
まずはこの第二句集である。つぎは第三句集『たかざれき』を秘密の扉を開くように読んでみよう。

(松田さんから、彼のFacebookからの引用・転載は自由と聞いています)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
松田ひろむ氏とはお顔もお声も全く存じあげない方だったが
同じ現代俳句協会会員で、『現代俳句』の巻末にある結社紹介の欄で
「鴎座」代表の方とあったので、
ご高覧頂きたく送らせていただいた次第。

そうしたら、思いがけずFacebookでご紹介いただいたようで
見ず知らずでも俳句だけで繋がれる俳縁とは凄い。
これだから、俳句はやめられない!
俳句を読んでいただけるだけでうれしいのに
評まで送ってくださり、かつSNSで紹介していただけるなんて
とても光栄なことです。

やはり、俳人にとって
良くも悪くも読者がいるというのは
とても励まされるものです。
松田ひろむさん、
ありがとうございました。


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俳句短歌誌『We』18号より「短詩グラマトロジー 第十二回:序次法」斎藤秀雄

2024-10-30 21:54:39 | 俳句
短詩グラマトロジー 第十二回:序次法
斎藤 秀雄

 序次法とは《読み手の頭と心にできるだけ抵抗なく入るように、事柄を整理し、一定の方針に従って順序正しく述べる修辞技法》(中村明『日本語の文体・レトリック辞典』)である。例としては、料理のレシピや年譜など。
 序次法を修辞として発見することは難しい。なぜなら、我々はふだん、人が語ることや書くものは、序次法に従っているはずだ、という「読みの構え」を、それと意識することなく前提にしているからだ。話が前後して要領を得ない語り、という事態もよくあるが(「語りのリアリティ」を感じさせるための演出として、しばしば用いられる)、「要領を得ない」と気づくのは、通常期待されうる序次法が破られているからである。
 著名な作品では例えば《滝の上に水現れて落ちにけり》(後藤夜半)は典型的に、序次法に基づいている。しかし、この作品を読むとき、まず我々は、《水》と《滝》とを性質の異なるモノとして呼ぶことの、異様な効果に感じ入るはずであり、そのとき序次法はいわば背景に退いている。しかるのちに、「ただごと句」の表情を備える語り口、序次法による詠みぶりが、一句の迫力を支えていることに気づくのではないだろうか。
 視点を変えて例示しよう。倒置法が用いられた《粉屋が哭く山を駈けおりてきた俺に》(金子兜太)が、もし序次法によって「山を駈けおりてきた俺に粉屋が哭く」とされていたら、どうだろうか。詩情の中心は確かに残っているものの、原句にあった異様な迫力は削がれる。我々が「修辞がある」(例えば「ここに倒置法がある」)と感じるのは、通例としての序次法が破られるときである、と考えることもできるのではないか。
 草野天平の「夕暮」(『ひとつの道』昭和二十二年)という三行の詩をみてみよう。

落葉の沈んでゐる池を見てゐたらば
泡が一つ浮いてきて
消えていつた

 草野天平らしい、「ストイックな」と評される作風に、序次法はきわめて相性がよいように思われる。しばしば「詩人はなぜ俳句が下手なのか」という議論がなされるけれども、天平が俳句を書いていたなら、どうだっただろう、とも考えさせられる。本作はほとんど俳句ではないか。少なくとも世にいう「伝統俳句」に似た表情をしている。ひどく静かであり、異様な存在感がある。それは、描かれた景に異様な何かが含まれているからではなく、むしろ何も含まれていないからである。むろん、《落葉》《沈ん》《消え》といった語彙選択に感傷的なものを感じなくもないし、読者によっては消える《泡》に人生を、浮き世を、あるいは天平の死んだ妻の象徴を見出すのかもしれない。そうした読みを拒むものではない(その意味で、僕の考えでは、天平の詩は十分には「ストイック」ではない)。
 しかしながら、本作に宿る「異様さ」「迫力」の中心は、朴訥とした語り口によって、三行で語り終えている点にある(俳句のようだ)。序次法を修辞として発見することは難しい、と述べたが、本作は序次法そのものが効果として前景化しているといえるだろう。
 短歌の例をみよう。

ここの屋上より隅田川が見え家屋が見え鋪道がその右に見ゆ                   佐藤 佐太郎
やせ細る体真直に芝生よぎり歩み来し姿まなかひに見ゆ                     福田 みゑ

 一首目。歌集『歩道』より。動詞《見ゆ》がリズミカルに繰り返されることにより、読者は語り手の視線の動きを追体験させられる。佐太郎には珍しい破調の歌ではあるものの、歌の内在的リズムによって読後感は心地よい。しかし同時に、ある種の異様さも体感される。見えるものが《隅田川》であることは、詩の「動機」として理解可能である。だが、最終的に視線が行き着くのは《鋪道》である。佐太郎の日常的景において《鋪道》は物珍しいものだったのかもしれないが、そう分かるようには書かれていない。逆にいえば、なんらかの修辞を用いるならば、《隅田川》を着地点として、安心感を与える歌にもできたはずなのだが、そうせずに、ブツッと切れるように終る。ここで序次法は、意図的に用いられているのではないだろうか。
 二首目。おそらく『福田みゑ歌集』(非売品)より。近藤芳美『新しき短歌の規定』から孫引きした。ここには異様な存在感を発光させた《体》《姿》があり、ただひたすら見入るのみの語り手の目玉がある。語り手はおそらくその《姿》にひたすら魅了されている。忘我状態といってよく、かろうじて《見ゆ》によって自我をこの世に留めている。複合動詞を分解するなら、じつに六つもの動詞が用いられていることも特徴的である。僕はかつてこの作品をつねに目に見える位置に掲示していたものだ。
 俳句の例をみよう。

しぐれんとして日晴れ庭に鵙来鳴く     高浜 虚子
春の雪春の青山の上に降る         渡邊 白泉

 一句目。子規は『日本』での連載「明治二十九年の俳句界」において《虚子の時間的俳句》を数句挙げている。掲句はそのうちのひとつ。子規は、現在は短く、過去未来は長い、といい、現在の連続(掲句がその例)を「客観的時間」、過去または未来を現在と連接させるものを「主観的時間」と呼んでいる。「いま」の滑らかな連鎖に、撫でられるような気持ち良さがある。また、この短さにもかかわらず、籠もって沈潜する「ニワニ」から、破裂する「モヅキナク」への転回をみせる点、技巧的に見事である。
 二句目。冗長性が快楽をもたらすこともあるという典型例。ここから《冬の波冬の波止場に来て返す》(加藤郁乎)へ、さらに《春ショール春の波止場に来て帰る》(攝津幸彦)へと変奏されることになる。筑紫磐井は『加藤郁乎俳句集成』の「解説」で、郁乎句は《一月の川一月の谷の中》(飯田龍太)に先立って書かれた龍太句のパロディであると述べている(「カトーイクヤのいとも豪華なる時禱書」)。これに白泉・幸彦のラインも縫い合わせれば、テクストの系譜学の複雑さに、面白みが増すことだろう。白泉の生まれ育った東京市赤坂区青山南町と、現在の港区南青山に違いはあれど、《青山》のほの明るくて少し冷たい語感には一定の連続性があるものと思われる。 
(続)

幼稚園児の作品

一匹残った10月のあおむし君
背丈60センチほどの
小さな山椒の木を丸裸にして
このあと上手く蛹になれただろうか~
この山椒の木は小鳥の施し。
この施しは、これで3本目。
前の2本は、直径4センチほどになると
どういうわけか枯れて
また次の種を運んでくれるようです。
フシギ~

株式相場は、自民・公明が負けて
月・火・水の3日間は⤴⤴⤴
先週の金曜日に下げたので買っていたのを売り払った。
また今週の金曜日下げたらいいなあ

現政権与党以外の党の当選議員は
投票した人を裏切らないでほしい~


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