私が初めて道院で坐した時、退屈だな~と云う感じでしたね。私は最初から愚か者なのです。
道院の先天坐は時間制限があります。最初の百日間は16分(四度)の決まりがあります。長い間、瞑想をされていた、ダンテス ダイジのお弟子さんはあまりの短さにびっくりしたとおっしゃっていましたね。私の場合は初めての体験であり、なかなか長く感じました。2・3週間が過ぎ、坐している時、普通に坐っているにもかかわらず、何故か逆立ちをしている感覚になりました。目を開けると、決して逆立ちはしていないのです。閉じると逆立ちしている感覚で、「変な感じ」と思っていました。道院の坐は、坐中に異変があれば、即座に坐を中断しなければならないのですが、私はあまり、深く考えずに坐り続けていました。是は悪い見本ですね。
ある時、天頂、頭のてっぺんに何か渦が勝手に回り出しました。この当時は私はまだ20代で、坐をしたりしなかったりいい加減にしていた時です。仕事中にも天頂に渦が回っていることがあったので、もしかしたら、私に神が宿ったのではないか、とか、特別な能力を手に入れたのではないかと思ったりしましたが、日常生活ではアホで愚か者の私に何も不思議な事が起こるわけでもなく、ただの妄想に過ぎませんでしたね。
ある時、坐中に、手足の感覚が無くなり、体が何倍にも膨れる経験がありました。その時は何とも言えない気持のよさでした。そしてその感覚は、時折、たまに得られる感覚でした。
現、紅卍字会の会長の正備さんとの出会いは20代後半です。この当時は坐は、ほとんどしておらず、天頂の渦も消えていました。自分の穢れを祓う時のみに、道院の神呪、経を誦し、坐をしていた程度です。ある時に正備さんに坐の境地を尋ねると、「坐中に於ける、体感は素晴らしいものがありますが、それを追い続ける事は欲であります。坐中は、あくまでも、体感を追うのではなく、自然に坐り続けるものです」と教えられました。私は、その言葉、至言であると感じました。気持ちのよさ、経験を追うのは決して先天坐ではないと肝に銘じました。
私が真剣に坐に打ちこみだしたのは30代からです。正備さんからの英訳太乙北極真経演技・日訳バージョンの応援があったからこそです。これは無償の愛であり、正備さんは、自分が得た真理を自分のみに隠すことなく、他者に分け与えた心は、老祖の親切なる御心と同じであります。ちなみに、修方さんのブログ、「永遠の生命、安心」に出てくる、真人(神人)林木先生(台湾出身)も大変親切なお方であった様で、自分が得た道、真理を他人に余すことなく与えたい厚い真心が有ったようです。生きていればぜひお会いしたかったですね。興味のある方は修方さんのブログを参考にして下さい。
私は、坐道を歩む者です。まだ半端モノですが、道を語ったら笑われる時代の中でそれでも、道を皆さまに知って欲しいのです。道は多種多様です。それでも行きつく頂上は同じであります。例え、人に笑われようとも、馬鹿にされようとも、道を歩み、道を語り、道を歩む人の応援者になりたいのです。
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道院の先天坐は時間制限があります。最初の百日間は16分(四度)の決まりがあります。長い間、瞑想をされていた、ダンテス ダイジのお弟子さんはあまりの短さにびっくりしたとおっしゃっていましたね。私の場合は初めての体験であり、なかなか長く感じました。2・3週間が過ぎ、坐している時、普通に坐っているにもかかわらず、何故か逆立ちをしている感覚になりました。目を開けると、決して逆立ちはしていないのです。閉じると逆立ちしている感覚で、「変な感じ」と思っていました。道院の坐は、坐中に異変があれば、即座に坐を中断しなければならないのですが、私はあまり、深く考えずに坐り続けていました。是は悪い見本ですね。
ある時、天頂、頭のてっぺんに何か渦が勝手に回り出しました。この当時は私はまだ20代で、坐をしたりしなかったりいい加減にしていた時です。仕事中にも天頂に渦が回っていることがあったので、もしかしたら、私に神が宿ったのではないか、とか、特別な能力を手に入れたのではないかと思ったりしましたが、日常生活ではアホで愚か者の私に何も不思議な事が起こるわけでもなく、ただの妄想に過ぎませんでしたね。
ある時、坐中に、手足の感覚が無くなり、体が何倍にも膨れる経験がありました。その時は何とも言えない気持のよさでした。そしてその感覚は、時折、たまに得られる感覚でした。
現、紅卍字会の会長の正備さんとの出会いは20代後半です。この当時は坐は、ほとんどしておらず、天頂の渦も消えていました。自分の穢れを祓う時のみに、道院の神呪、経を誦し、坐をしていた程度です。ある時に正備さんに坐の境地を尋ねると、「坐中に於ける、体感は素晴らしいものがありますが、それを追い続ける事は欲であります。坐中は、あくまでも、体感を追うのではなく、自然に坐り続けるものです」と教えられました。私は、その言葉、至言であると感じました。気持ちのよさ、経験を追うのは決して先天坐ではないと肝に銘じました。
私が真剣に坐に打ちこみだしたのは30代からです。正備さんからの英訳太乙北極真経演技・日訳バージョンの応援があったからこそです。これは無償の愛であり、正備さんは、自分が得た真理を自分のみに隠すことなく、他者に分け与えた心は、老祖の親切なる御心と同じであります。ちなみに、修方さんのブログ、「永遠の生命、安心」に出てくる、真人(神人)林木先生(台湾出身)も大変親切なお方であった様で、自分が得た道、真理を他人に余すことなく与えたい厚い真心が有ったようです。生きていればぜひお会いしたかったですね。興味のある方は修方さんのブログを参考にして下さい。
私は、坐道を歩む者です。まだ半端モノですが、道を語ったら笑われる時代の中でそれでも、道を皆さまに知って欲しいのです。道は多種多様です。それでも行きつく頂上は同じであります。例え、人に笑われようとも、馬鹿にされようとも、道を歩み、道を語り、道を歩む人の応援者になりたいのです。
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